第233話 第九章「十重返雨式」前編

「戻らない」

「私が謝れば」

「戻らない」

アマネは一つずつ答えた。

そのたび、言葉が工房へ落ちる。

逆雨原で、唯一、下へ落ちるもののように。

「では、何をすればいい」

カサネの声が、初めて役目のない声になった。

「私に決めさせないで」

アマネは言った。

「許す方法を、傷つけられた側へ作らせないで」

カサネは黙る。

「でも、今の式は一緒に変えて」

「それは、許すということか」

「違う」

「私を助ける?」

「町を」

「今は?」

「今は」

アマネはナギの言葉を借りた。

「現在の返事」

カサネは受け取るまで長くかかった。

やがて、訂正案の空欄へ自分で書く。

――訂正後も旧記録を保存する。

――訂正者、カサネ一人にしない。

――サヤの家族、余滴窪、当時の各桁担当へ確認を求める。

――異議のある証言は、消さずに併記する。

――事故で失った資格、罰金、居住札を再審査する。

――雨算長辞任の可否と、記録訂正の可否を同じ議題にしない。

「辞めれば終わるみたいにしない?」とアマネ。

「ああ」

「残って説明する?」

「決定権を持たず、説明をする」

「何回」

「必要な人が聞くまで」

「できるまで、じゃないよ」

「聞く側が終えるまで」

アマネは訂正案を受け取らない。

代わりに、白い札を一枚出す。

――訂正案。

――作成者、カサネ。

――内容、未確認部分あり。

――次確認、式後の公開評議。

――受取人、余滴窪全体。

カサネの板へ結ぶ。

「勝手に札をつけるな」

「残す責任」

紺青旗の内側で、小さな音がした。

ちりん。

アマネが顔を上げる。

「何」

「記雨だ」

「母さんの?」

「たぶん」

「開けて」

「今開けば、私たちの判断が過去に引かれる」

「隠してきたからでしょ」

「そうだ」

否定しなかった。

アマネは奪わない。

力ずくで開けば、カサネが十年前にしたことと同じになる。

「式が終わったら、必ず」

「終わらなかったら」

「ナギへ預ける」

「今預けて」

「まだ、できない」

「未確認?」

「ああ」

別の札。

――記雨らしき音。

――保管者、カサネ。

――内容未確認。

――次確認、式後。

――受取人、アマネとナギ。

カサネは札を外さなかった。

そのとき、工房の扉が勢いよく開く。

「夜食!」

カナタが焼き雲豆の袋を掲げた。

「十個入りを二つ! 一人何個だ!」

「七人なら二個ずつ、六個残る」とアマネ。

「ザンバも?」

「入れて」

「カサネも?」

アマネは一呼吸だけ使った。

「一個は渡す」

同じ袋から取っても、同じ答えにはならない。

カサネは豆を十個まで無意識に並べ、十一個目を視界の端へ置いた。食べる手が止まる。アマネはその一個を自分の袋へ勝手に入れず、中央へ戻した。

「誰の?」

「まだ決めていない」

「じゃあ、中央」

翌朝まで残ったら、最初に腹が鳴った人。数の外ではなく、受取人待ちの一個になった。

許した者。

許されていない者。

外から来た者。

それぞれが、自分の一個を食べる。

袋に残った豆へ、カナタが札をつけた。

――次に腹が鳴った人。

「受取人が広い!」とルゥ。

「今いる人!」

「期限は?」

「夜明け!」

「珍しく書けた!」

十年前の話は終わらない。

今夜、無理に一つの結論へもしない。

ただし、数の外へ戻さない。

カサネの板には訂正案。

アマネの帳面には、別々の現在。

――カサネ。式を変えることに同意。公開訂正を約束。

――アマネ。許したとは言わない。訂正案の受取は保留。

同じ頁。

違う行。

そのまま、次の鐘を待った。

式まで二刻のはずだった。

最初の雨桁が鳴る。

ごおん。

二つ目。

三つ。

十まで行かない。

六つ目で、空が開いた。

青黒い渦が逆雨原へ口を向ける。

大地の水が一斉に浮いた。

池。

水筒。

薬雨。

子どもが飲もうとしていた一口まで。

「天攫潮!」

ナギの十一鈴がばらばらに鳴る。

金属の味。左耳の奥で細い高音。ナギは五拍目を数え損ねかけ、すぐに現在音をコウネ、緊急点呼をツグミへ渡す。

「私の耳だけを待たない!」

聞こえないことを恐れる響路士が、自分の限界を町全体の遅れへ変えなかった。

一ノ桁、苗床が乾く。

三ノ桁、薬園の管が裂ける。

八ノ桁、避難枡が九人で停止。

余滴窪、黒雨池が上昇。

「全部!」

カナタが白旗を抜く。

「どこから!」とルゥ。

「近いところ!」

「現在地を聞いて!」とナギ。

「一ノ桁!」

『現在!』

「三ノ桁!」

『現在!』

「八!」

『九名、現在! 一名、移動中!』

「余滴窪!」

返事が遅い。

黒雨池の音だけ。

「人!」

ナギが呼ぶ。

『コナミ、ここ!』

『イツキ、ここ!』

『ミズハ、地下!』

現在。

全員ではない。

名前が続く。

十一人家族。

片脚の老人。

子ども。

未確認、二。

「助けに行く!」

「返雨式を始める!」

カサネの声が全桁へ響く。

《十重返雨式》を前倒しする!』

「余滴窪の点呼が終わってない!」とナギ。

『正式雨路を先に保つ!』

「未確認二!」

『避難班へ任せる!』

カナタは白旗を二方向へ向けた。

返雨塔。

余滴窪。

「両方!」

「一歩ずつ!」とルゥ。

「誰が先!」

カナタの右膝が冷えで一度抜けた。以前なら痛みごと最初へ飛んでいた。白旗の端を握り、声を一音低くして問い直す。

「アマネ。余滴窪へ行ける?」

「行く」

「ナギ。二歩目を受ける?」

「受ける」

先頭を渡すことを、命令ではなく本人の返事から始めた。

「今、必要な人!」

八番目の旗。

先頭を渡す。

余滴窪へはアマネ。

「行け!」

「カナタは?」

「塔!」

「二歩目は?」

「ナギ!」

ナギが余滴窪の現在路へつく。

「受け取る!」

ルゥは返雨塔。

「接続を止める!」

「ザンバ!」

「全桁の落下路を分ける」

「俺!」

「道を作る」

「全員、違う!」

「三番目」と三人。

「分かってる!」

カナタは笑う。

怖い。

それでも、同じ方向へ押し込まない。

「再会は!」

ナギが訊く。

「返雨塔の空枡!」

「まだない!」

「作る!」

「受け取った!」

四人は別々の道へ走った。

返雨塔は、青い光に包まれていた。

一ノ桁から十ノ桁まで。

十本の雨路が塔へ向かう。

太さはまだ違う。

色も。

音も。

カサネは塔頂で紺青旗を掲げた。

「標術――《同量》!」

十個の雨枡が光る。

一滴多い流れから水を削り。

一滴少ない流れへ足す。

「待って!」

ルゥが銀鋲を十本投げる。

「中身を動かさない! 器の重さだけそろえる!」

「量が違えば塔が傾く!」

「枡を傾ける!」

一本目の枡を深く。

二本目を浅く。

水の量を削らず、器の位置で重さを合わせる。

《継ぎ路》が十本の雨路へ伸びる。

薬雨は薬雨のまま。

塩雨は塩雨。

響雨の声も残す。

「一時的だ!」

ルゥの指から血が落ちる。

銀鋲は残り三本。左親指はもう閉じきらず、左手で髪を結べない日と同じ痛みが走る。

「七本までって言った!」とカナタ。

「だから三本、アマネへ渡した!」

ルゥは一人で十本を支えていない。血が落ちても、限界を超えたことを勇気の証にはしなかった。

「空枡がないと保たない!」

カナタは返雨塔の手前へ白旗を突く。

「標術――《未踏路》!」

一枚の巨大な光板。

「十個目の枡から、塔の一歩手前!」

最後を空ける。

道は塔へ届かない。

「なぜ止める!」

「受け皿を作るまで!」

ザンバが灰旗を振る。

《岐点》!」

一本へ集まりかけた雨路を十本へ分ける。

九本の線。

十本目は、旗の外側へ。

灰旗が軋む。

「足りない!」

「数を合わせて線は増えん」

ザンバは黒い点を二つ置く。

一つ目。

九本を分ける。

二つ目。

十本目だけを受ける。

「二段に分ける」

ザンバの機巧腕の留め具が外れかけ、もうない指が焼ける幻肢痛が走る。右腕で黒点を押さえず、左手で一つ目を置き、二つ目はカサネへ示した。

「ここへ置くかは、お前が決めろ。ただし、結果は俺と分けて記録する」

切断の熟練を、判断の独占へ戻さなかった。

「十の次?」

「まだだ」

ナギの響路が、十本の雨路へ一本ずつつながる。

一ノ桁。

『現在、苗雨八』

二ノ桁。

『飲雨九』

三。

『薬雨七、二系統』

十ノ桁まで。

余滴窪。

『避難中、未確認一!』

「一!」

カナタが叫ぶ。

「誰!」

『コナミの祖母! 十一人家族の家!』

「アマネ!」

『向かってる!』

返雨塔の計盤が赤く光る。

――正式十雨路、接続。

――余滴路、計算外。

「計算へ入れろ!」

「入れれば十一となり、塔が拒む!」とカサネ。

「拒む塔を変える!」

「今は時間がない!」

天攫潮が十本の雨路へ噛みつく。

逆雨が上へ加速する。

ルゥの銀糸が引かれる。

ザンバの二つの黒点が近づく。

カナタの光板が塔へ押される。