第232話 第八章「食い違う雨札」後編
ナギが頷く。
ザンバは仮設枡の周囲へ黒い点を十個置いた。
「雨路が一つへ引かれたら分ける」
「十一個目は?」とカナタ。
「まだない」
「作る?」
「必要なら」
「気合い!」
「最後だ」
カナタは白旗を空白の手前へ向ける。
「俺の未踏路は?」
「最後の一歩を作らない」
「また手前!」
「六番目で覚えたでしょ」
「作れるのに作らないの、難しい!」
「十番目だから」
仮設枡の試験。
一ノ雨桁から一滴。
二ノ桁。
十滴。
十本は別々の銀糸を通る。
空白の手前で止まる。
何も起こらない。
「失敗?」
「十滴を渡す人がいない」
全員がアマネを見る。
「だから、私を前提にしないで」
アマネは空色の旗を下ろしたまま。
「今は試験係」
雨匙で十滴を一つずつ受ける。
最後に、上の空白へ向けて手を振る。
十滴が一つの雨玉として浮いた。
一呼吸。
落ちる。
仮設枡は支えた。
「標術なしでも、一呼吸」
ルゥが記録する。
「本番は町一つぶん」
「気合いで増やす!」
「機巧に気合いを要求しない!」
アマネは小さな雨玉を見る。
「一呼吸あれば、次の人へ渡せる」
「誰へ?」
「明日の私かもしれない」
空色の旗の十個目が、一瞬だけ淡く光った。
すぐ消えた。
カナタは何も言わず、今度は待った。
待つあいだ、カナタは白旗の端をつまんだまま、右膝へ重さを載せなかった。先頭へ出ないことを、体はまだ「置いていかれる」と受け取る。アマネの旗が光るまでの数呼吸、声は一音ずつ低くなった。
「怖い?」とアマネ。
「お前の一歩を、俺が先に踏むのが」
理解してからではなく、怖いまま待った。
アマネは旗を見たまま「ほかは?」と小さく訊いた。標術の兆しだけで自分を完成扱いされるのが怖い。カナタは「今はない」と答え、次の力を勝手に名付けなかった。二人の間に残った無言は、試すための少し意地悪な待ちだった。
天攫潮まで、六刻。
余滴窪の避難箱は、現在人数で動き始めた。
三人でも。
七人でも。
十一人でも。
箱の広さが足りる限り、扉を閉める。
センは一組ごとに、人数と名前を書く。
十行を越えたら、紙を継ぎ足す。
センは咳を一つ飲み込み、紙の継ぎ目へ消さない赤線を引いた。新しい紙を最初から一枚だったようには見せない。右手の字が疲れると左へ戻り、筆圧まで変わる。その違いも記録者が交代した証拠として残した。
「遅い」と作業員が言う。
「名前を書かないより早い」とセン。
ツユの家族は十二人になった。
ツユは十四歳。唇の右端の小さな傷を舐め、古い皿を胸へ抱えている。恐怖が強いと食べられなくなるのに、十二人目の赤子へ最初の粥を盛る皿だけは手放さない。
「新しい一って、何?」と幼い弟に訊かれ、すぐには答えられなかった。制度の標語より、家の食卓で誰がどこへ座るかを説明するほうが難しい。
届け出前の赤子には、まだ名がない。
「未確認?」とナギ。
「名前、検討中」と母。
「いることは確認」
センは別の欄へ書く。
――第十二人、現在同乗。名、検討中。
カナタは余滴袋を運んだ。
一袋。
二袋。
十袋。
次の一袋。
「十一!」
「新しい一」とツユ。
「十一でもいいだろ!」
「どっちでも家は増えない」
「じゃあ十一!」
「食べ物みたいに覚えた」
アマネは雨の種類を読む。
薬雨三。
苗雨七。
合わせて十にはしない。
「種類が違う」
カナタが先に言った。
「覚えた!」
「一滴ぶん」
「増えた!」
ナエは九本の苗雨を畑へ配った。
十本目を待たない。
九区画へ一瓶ずつ。
最後の一区画は、土の湿りを測り、明朝まで保つ場所を選ぶ。
「全畑へ薄くしない?」
「九つを助けて、一つを捨てる?」とカナタ。
「捨てない。今ある水を多く残せる畑へ苗を移す」
「畑が変わる」
「苗を生かすため」
「全部同じ場所へ残せない?」
「今は」
ナエの返事は短い。
右膝が冷えて最初の一歩だけ遅れ、ナエは土の上へ左手をついた。「いつもの位置がずれただけ」と言いかけるが、苗の移動表へ自分の歩行制限も書く。観察の正確さを、自分だけ例外にしないためだった。
できないことを隠さない。
それでも、何を残すかは本人たちが決める。
返雨塔の上では、カサネが一人で十本の流量を読んでいた。
アマネは記雨瓶を持っていく。
「今、見る?」
「式のあと」
「また」
「仮設枡の試験結果を確認している」
「怖い?」
カサネの手が止まる。
「町を失うのが」
「母さんを見るのが」
「両方だ」
初めて、同じとは言わなかった。
カサネの視界は返雨光で四呼吸欠けていた。出口に近い足へ重さを置き、親指の割れた爪を旗竿で隠す。アマネは弱さを見つけても勝ち誇らず、作業台の端へ暗色布を一枚かけた。
対立は消えない。けれど、相手の身体を壊して勝つ必要もなかった。
アマネは瓶を台座へ置く。
「逃げないで」
「式が終われば」
「終わらなかったら?」
カサネは答えない。
空の青黒い渦が、星のように近づいている。
連標網から、十か所の夜の返事が届く。
カゲノハ村。
『帰還門、夜間試験終了』
トマリギ島。
『二番旗、帰路を保持』
三番港。
『再会点、三か所』
ミナモ。
『次稿、二枚目』
ノクティル。
『現在、三十六隻。未確認二』
オリベ。
『空白、維持』
エオス。
『一便、終標済み』
ヤエ。
『先頭交代、完了』
ネウラ。
『折返し道、開通』
逆雨原。
アマネは自分で返す。
「仮設枡、一呼吸。標術、未確認」
「受け取った」
十か所から、違う声。
同じ返事にはならない。
ナギは一つずつ帳面へ残した。
カナタはカゲノハ村の欄を見る。
帰還門。
到着欄、空白。
「式のあと」
自分へ言った。
今度は、聞いている三人がいる。
「受け取った」とナギ。
天攫潮まで、残り四刻。
余滴窪の避難灯が一つずつ消え、返雨塔の青い作業灯が増えていく。
アマネは眠れなかった。
母サヤの繰上枡を前に、十本の管を何度も数える。
一。
二。
十。
上の空枡。
数は合っている。
それでも、十年前の事故だけは、一つの答えにならない。
「数え直しても、過去は増えない」
工房の入口から声がした。
カサネだった。
雨算長の外套は着ていない。
公の場で使う「私」ではなく、家族の前だけの「あたし」が喉まで出かけ、カサネは長く息を吸い直した。編み紐を締めるのは今日九回目。十回目を残したまま、出口に近い足ではなく、工房の奥へ重心を置く。逃げずに座るためだった。
紺青の旗と、二枚の記録板を抱えている。
「何を持ってきたの」
「公式板の写しと、訂正案」
アマネは模型から目を上げた。
「案?」
アマネは板を受け取る前に三歩下がり、二枚を同時に見る。母の名が訂正案へ戻っただけで、正しい記録になったと思いたくなる。
「母さんの遅れと分流負荷も、消さないで」
自分に最も不利な一行を先に求めた。母を守ることと、母を無謬にすることを分けるためだった。
「私一人で、正しい記録に決め直さないためだ」
カサネは十個の下枡の横へ座る。
雨算長の席ではない。
余滴拾いと同じ高さ。
一枚目。
十年前の公式記録。
――余滴混入により繰上枡破損。
――余滴拾いサヤ、規則外操作。
二枚目。
まだ空欄の多い訂正案。
――同量化命令、雨算長カサネ。
――余滴先入れ命令、雨算長カサネ。
――停止要請、サヤ。
――事故後の公式記録作成、カサネ。
「母さんは塔を壊してない?」
「最後に雨路を開いた。だが、開けさせたのは私の命令だ」
「どうして、母さんが原因みたいに書いたの」
「雨算長が誤ったと記せば、次の式で誰も命令を聞かないと思った」
「だから母さんを間違いにした?」
「町を止めないためだと、自分に言った」
カサネは外套の内側から、薄い名簿を取り出した。八年前の渇水で、十人枡と十滴配水によって飲雨を受け取った者の名が並んでいる。
「この制度で救えた人もいる。訂正すれば、その救命まで嘘にする気がしていた」
初めて、制度を変えたくない理由が役職の外の言葉になった。
「母さんは止まった」
カサネの顔が歪んだ。
すぐには戻らない。
「九本の雨桁が落ちかけていた」
「余滴窪も一つの場所」
「今は分かる」
「十年前は?」
「分かっていなかった」
謝罪より、聞きたくなかった言葉だった。
分かっていなかった。
なら、母がいなくなった十年は、確信して選んだ正しさでさえない。
「今は分かるのに、同じ式をする」
「同じではない」
「余滴窪を避難させて、式の外へ置く」
「生かすためだ」
「生きたあと、どこへ戻すの」
カサネは答えられなかった。
避難枡。
仮の寝床。
潮が去ったあと。
十一人家族は十人と一人へ。
二重住所のイツキは、正式な一枚へ。
黒雨は用途なしとして封印。
生き残る。
その代わり、今までの形では戻れない。
「同じ間違いをしないため、同じ形を強くした」
アマネは言った。
「それ、間違いを直したんじゃない。間違いを規則にしただけ」
工房の外で、灰旗の石突が一度鳴った。
ザンバが壁にもたれている。
「聞いてたの」
「聞こえた」
「何か言う?」
「全体と呼べば、切った名前が見えなくなる」
カサネを見る。
「俺は長く、それを使った」
「あなたの話ではない」
「同じではない」
ザンバは答えた。
「似た形を、同じと呼ぶ気もない。ただ、切る側の言葉は似る」
カサネは訂正案を膝へ置いた。
「雨算長を辞めれば、戻るか」
「誰が」
「サヤが」
「戻らない」
「記録を直せば」