第231話 第八章「食い違う雨札」前編

返雨塔の記録庫には、事故記録が二つあった。

一つは公式板。

――十年前、天攫潮増大。

――余滴混入。

――繰上枡破損。

――雨桁三本落下。

――技師サヤ、行方不明。

原因欄。

――規格外雨の混入。

もう一つは、サヤの作業帳だった。

余滴窪の工房から見つかった。

濡れ。

文字が半分消えている。

ルゥが読める線をつなぐ。

――上枡を空ける。

――正式十雨、由来を残したまま渡す。

――余滴は次回へ。

――緊急時、上枡へ先入れしない。

「先入れ?」

カナタが訊く。

「下の十枡が満ちる前に、上の受け皿へ水を入れること」とルゥ。

「誰がした」

答えは帳面にない。

最後の頁。

サヤの字ではない。

もっと硬い筆跡。

――町を乾かさないため、余滴を上枡へ投入。

署名が削られている。

ナギは頁へ響雨を一滴落とす。

紙が覚えた声が返る。

『十段目が足りない』

若いカサネ。

『上枡へ余滴を入れる』

『だめ!』

サヤ。

『次を待てない!』

『空きを埋めたら、十雨が入れない!』

そこで声は切れる。

九滴目がない。

作業帳の裏へ響雨を落とすと、もう一つの固定音が出た。最初の警報より前。

『十音目を待って。由来不明の一滴がある、ね』

サヤの声。最後の「ね」は小さい。停止要請の前に、一滴の来歴を確かめる一呼吸を使っていた。

別の荷重線には、サヤが余滴窪へ開いた分流で第三梁へ負荷が増えた記録もある。その分流が下の家々を救い、同時に梁の裂けを広げた可能性。カサネの先入れ命令が事故の主因であることと、サヤの全判断が無傷だったことは同じではない。

固定資料は、今の問いへ答えない。二つの行動と二つの結果を、そのまま残した。

「公式記録と違う」

アマネの声が震える。

「母さんが入れたんじゃない」

アマネは訂正板へ《サヤ、過失なし》と書きかけた。ヒサメの計雨輪が低く鳴る。

「先入れはしていない。分流の負荷と一呼吸の遅れは、未確認部分が残る」

アマネの左手が札を握りつぶしかける。扉、人、音を数え直し、紙を開く。

「母さんを犯人にしない。英雄一人にも、しない」

《過失なし》を赤線で囲い、《現在証拠では確定不能》と書き直した。

返雨塔の扉が開いた。

カサネが立っていた。

「その帳面は、事故資料として回収する」

「誰が入れたの」

アマネは逃げない。

カサネの旗を見る。

「九滴目、返して」

「何の話だ」

「母さんの記雨」

ナギの空鈴が鳴る。

カサネの旗から返事。

「叔母さんの標術の中にある」

カサネの手が、旗竿へ強く巻きつく。

「式の前だ」

「だから今」

「町が乾けば、記録の真偽に意味はない」

「町が助かったあとなら?」

「調べる」

「十年前も?」

アマネの問い。

カサネは答えない。

ザンバが一歩前へ出る。

「答えないことを、未確認にするか」

「私の責任で式を行う」

「責任は、答えを消す言葉ではない」

「お前に言われる筋合いはない」

「ああ」

ザンバは認める。

「だから言う」

黒旗だった頃。

アステルの選択を敗北と記録した。

自分の責任を、他人の失敗へ置いた。

「終わったあとに真実を話す、と言う者は、終わりを自分で決める」

カサネの目が揺れた。

すぐに戻る。

「式の開始まで三刻」

「九滴目は?」

アマネ。

「終わったあとだ」

カサネは去る。

ナギは現在帳へ書く。

――事故原因、二記録。

――九滴目、カサネ旗内。返却拒否。

――回答、式後。

「拒否って書くの?」

カナタが訊く。

「今の返事」

「悪く書くみたいだ」

「良くも悪くもしない」

「でも、助けるぞ」

「助ける」とナギ。

「同じ計画を手伝うとは言ってない」

式まで三刻。

余滴窪では、残すものを選んでいた。

捨てるものを決める会議ではない。

今使うもの。

別の場所へ運ぶもの。

ここへ残して保つもの。

期限が来たら、もう一度判断するもの。

安全に終えるもの。

五つの札を、同じ棚へ重ねない。

最初は、ミズハの七種類の薬雨だった。

三つは今夜まで。

二つは三日。

一つは一月。

黒雨は、由来も期限も未確認。

「全部、第一歩号へ!」

カナタが樽を抱える。

「積載量」とルゥ。

「椅子を下ろす!」

「殺すぞ」とザンバ。

「冗談!」

「俺は違う」

「怖い!」

今夜までの三つは、患者のいる三ノ雨桁へ送る。

受取人はヨモギ。

到着期限は、次の二つ鐘。

遅れた場合は、使用せず中和。

三日ぶんは、第一歩号の冷暗箱。

管理者はルゥ。

一日ごとの確認者はナギとヒサメ。

一月ぶんは、余滴窪の地下蔵。

受取人はミズハ。

七日ごとに別の薬師が封を確かめる。

「一つの瓶に、名前が多い」とカナタ。

「一人が倒れても、期限が消えないように」とアマネ。

黒雨。

用途未確認。

ミズハとイツキが残る。

ミズハの額の熱を、今度はイツキが先に見つけた。片眼鏡の奥で焦点が二重になり、自分の薬をまた記録から外していた。

「患者は、ミズハも」

「後で」

「後、は期限じゃない」

十三歳の指摘に、ミズハは初めて他人へ薬匙を渡した。自分の必要量を、同じ重要度で札へ書く。

「危ない」とアマネ。

「危ないから、誰かが見る」とミズハ。

「私も」

「式へ行って」

「でも」

「次に渡したんでしょ」

アマネの手が止まる。

四番目の旗。

自分で全部を持たない。

「受け取る?」

「受け取る」

ミズハ。

ミズハは受領札の下へ、自分の体温と休憩時刻も書いた。患者別の公開手順に、ようやく自分を入れる。片眼鏡を外した目には黒雨が二重に見えるため、開封判断はイツキともう一人の薬師へ渡した。

「私が親しい患者へ甘くならないように、二人で見る」

「音は僕」とイツキ。

イツキは二枚の関係札を胸へ重ねず、左右のポケットへ一枚ずつ入れた。冷気で痛む手の甲を隠し、「この程度は記録外」と言いかける。

「音を聞く人の体調も、記録」とナギ。

少年は少し不満そうに、自分の手の痛みを黒雨札の余白へ加えた。

「受け取った」

札へ書く。

――黒雨。

――由来、未確認。

――開封禁止。

――現在管理、ミズハ。

――響き確認、イツキ。

――次判断、天攫潮終了後の一つ鐘。

――判断できない場合、次雨蔵予定区画へ継続。

「期限が来ても分からなかったら?」とカナタ。

「期限を延ばした理由を書く」とヒサメ。

「ずっと延ばせる!」

「同じ人が三回続けて延ばせない」

「厳しい!」

「残す責任」

期限は、捨てる時刻ではない。

見直す時刻だった。

誰も見なければ、残すことは忘れることになる。

次に、古い雨袋。

すでに保存期限を過ぎたもの。

中身を、そのまま残すことはできない。

ヒサメが一滴ずつ検査する。

安全なものは土へ返す。

危険なものは中和する。

袋と札は記録庫へ。

由来不明のまま蒸発したものは、《保存失敗》と書く。

「雨がなくなる」

アマネが呟く。

「来た道は残る」とザンバ。

「同じじゃない」

「同じにする必要はない」

アマネは終標札を結ぶ。

――ここまで。

一袋ごとに、名前を読む。

由来未確認。

三年前。

保存容器の亀裂。

確認者なし。

次の人へ、同じ失敗を渡さない。

最後は、母サヤの工具箱。

「持っていく」

「何に使う?」とルゥ。

「繰上枡を作る」

「今から?」

「本物じゃなくても、空ける場所の模型を」

ルゥは工具を分ける。

必要。

予備。

記録用の古い工具。

「全部持たないの?」

「第一歩号に積めるぶん」

「残りは?」

「ツグミへ渡す」

九ノ雨桁の桁直し。

アマネは一度迷い、工具の半分を箱へ戻した。

札。

――繰上枡試作。

――現在担当、アマネとルゥ。

――保管担当、ツグミ。

――次確認、本式終了後。

――事故時、作業中止権、三名全員。

「三人のうち一人でも止められる?」

「止める側に、十人そろうのを待たせない」

アマネは頷いた。

残す仕事が、初めて一人分ではなくなった。

棚には空きができた。

空いた場所へ、次の雨を急いで押し込まない。

受取人と期限が決まるまで、空白のまま残した。

仮設繰上枡は、物ではなかった。

十本の雨路の上へ、一呼吸だけ空白を支える仕組み。

ルゥはミナモから届いた《次稿》を広げた。

『完成図なし』

キリの文字。

『一回目の試験範囲だけ送る。壊れた場所、必ず記録』

「完成してない!」

カナタが喜ぶ。

「今は不安がって!」

十本の銀糸を、別々の高さへ張る。

七本目でルゥの親指が止まった。髪の銀鋲を危険度順に三本抜き、残る三本の張り方をアマネへ渡す。

「同じ角度にしない。重さを見て」

「私が壊したら?」

「壊れた場所を書く。私の手が壊れるまで抱えるより、次稿になる」

つなぎ続ける役に閉じ込められたくない少女が、自分から接続を手放した。

中央は空ける。

オリベから借りた《迎標》の重さで、向こうから来る一歩を受ける場所を作る。

双灯港の《終標》で、十本目までの区切りを置く。

その先へ、まだ名前のない一枡ぶんを残す。

「ここへ何を入れる?」

カナタが空白へ手を伸ばす。

「入れない」

「空のまま?」

「十本がそろってから、まとめて渡す」

「一つに?」

「一段上へ」

ルゥは同じ言葉を何度目か分からないほど繰り返した。

ナギは十の結節鈴へ役目札をつける。

カゲノハ村――現在図。

トマリギ島――帰り先。

三番港――再会点。

ミナモ――未完成の受渡し。

ノクティル――現在人数。

オリベ――空白。

エオス――終わり。

ヤエ――次の先頭。

ネウラ――折返し。

逆雨原――受取先。

「十個を同じ燃料にしない」

「役目を一つずつ借りる」