第230話 第七章「繰上枡」後編

「帰るって書いた!」

カナタが見つける。

「確認よ!」

「帰らないとできない!」

「だから、確認!」

『受け取った』

アカリの返事。

「まだ日付は決めてない!」

『日付は書いてない』

現在の発着場で、見習いたちが斜めの留め具をもう一度回す。

ルゥを待たずに。

ルゥの図を捨てずに。

同じ形へ戻らずに。

今の村は、今の手で続きを作っていた。

響雨の映像が閉じたあとも、ルゥは十枚目の図を古い九枚へ重ねなかった。

新しい頁へ挟む。

その隣へ、繰上枡の試験記録。

故郷から届いたのは、昔へ戻る答えではなかった。

今いる場所から、次の一手を渡す図だった。

繰上枡の模型は、掌に載るほど小さかった。

下に十個の枡。

一滴ずつ入れる。

一。

二。

十。

十個すべてが満ちると、枡の底が同時に傾いた。

水は中央で混ざらない。

十本の細い管を通り、上の大枡へ並んだまま入る。

大枡の中で、一つの重さになる。

けれど、色は十本。

下の枡も消えない。

空になり、次の雨を受ける。

「十滴が一滴になった!」

カナタが模型へ顔を近づける。

「大きな一雨」とルゥ。

「一滴じゃない?」

「十滴ぶんの一雨」

「やっぱり一!」

「段が違う」

「階段みたいな数?」

「今のは近い」

「俺、成長!」

アマネは上の大枡へ指を入れた。

空。

「ここを先に満たしたら?」

ナギが訊く。

「下から来た十滴が入れない」

「押し込めば?」

カナタ。

「溢れる」

「広げる!」

「重さの支点が壊れる」

「未踏路で支える!」

「支えてる間は?」

「できるまで!」

「天攫潮は待たない」

アマネの言葉で、カナタが止まる。

模型の側面に、母サヤの字が刻まれていた。

ルゥが読む。

――下十枡を満たしたあと、上枡へ渡すこと。

――上枡は空けておくこと。

――繰上げ後も、下枡の由来札を外さないこと。

――十に満たない雨は、次回欄へ残すこと。

その下に、別の筆圧で短い追記があった。

――由来不明一滴の確認で、一呼吸遅れ。

サヤ自身の字だった。十一滴目へ小さく名をつけ、由来を確かめず流すことを嫌った人。勇気ある停止要請と、現場で一呼吸を使いすぎる癖は、同じ手から出ていた。

工具箱の温度痕も左右で違う。幼い凍傷で指先の温度感覚に差があり、熱い弁を左手で確かめた跡が残る。記録は、完全な英雄にも完全な犯人にも、サヤを戻さなかった。

「全部、今の町と逆」

ナギが言った。

今の返雨塔は、上の受け皿がない。

十本を中央へ集め、その場で一つの雨へする。

由来札は塔へ入る前に外す。

十に満たない雨は余滴蔵へ。

「十年前の事故で、繰上枡が壊れた」

アマネが模型を握る。

「叔母さんは、同じものを作り直さなかった」

「作れなかった?」とルゥ。

「作らなかった」

模型の底へ、小さな鍵穴がある。

アマネは母の工具箱から、曲がった鍵を出した。

入らない。

「鍵まで余り?」

「途中で折れた」

ルゥが銀鋲を一本添える。

《継ぎ路》

折れた先の形を、模型の中から読む。

銀糸が九本に分かれた。

「九本?」

「鍵の先が、九か所へつながってる」

ナギが耳を近づける。

小さな水音。

一つ。

二つ。

九つ。

「模型の中に、九滴残ってる」

「十滴目は?」

アマネが首から小瓶を外した。

一滴だけの青白い雨。

「母さんの《記雨》

「これが十?」

「九滴は事故で散ったと思ってた」

「模型が覚えてる」

ルゥは九本の銀糸を見る。

先は模型の中だけではない。

余滴窪。

十本の雨桁。

返雨塔。

九方向へ伸びている。

「散った雨が、町のどこかで残ってる」

アマネは「母さんが全部残した」と言いかけ、止めた。模型が覚えているのは九滴の場所だけで、誰の判断で残ったかまでは答えない。故人の道具は現在の問いへ新しい返事をしない。

「母さんの仕組みが、残る場所を作った。そこまで」

希望を小さく言い直すと、ナギが未確認欄を消さずに頷いた。

「探す!」

カナタが立つ。

「天攫潮まで半日」とザンバ。

「九滴なら九か所!」

「距離は?」

「着くまで!」

「聞いて探す」とナギ。

「今のは俺のほうが早い!」

「間違った滴を九つ集める?」

「一緒に探す!」

カナタは白旗を担ぐ。

今度は先頭へ出る前に、ナギの返事を待った。

「行き先は?」

「一滴目の声」

「受け取った!」

一滴目は、一ノ雨桁の古い苗床にあった。

十年前から芽を出さない種箱。

ナギが鈴を当てると、箱の底から一音。

カナタが未踏路を一歩だけ出す。

種を踏まない手前。

ヒナが最後の一歩を踏み、箱を開ける。

ヒナは十六歳。風で乾く目を守る眼鏡を下ろし、左指から逆順に数えた。指先の粉は、緊張で札を濡らさないためのもの。外来者に最初の一歩まで奪われることを嫌いながら、カナタの二歩目は受け入れる。

「箱を開けるのは、苗床の私」

「受け取った」

自分の体調も仕事と同じ欄へ書く、という小さな目標を、種箱の裏へ初めて残した。

青白い雨が一滴。

「俺が取らない?」

「苗床の人が最初」とナギ。

「二歩目!」

カナタが受け取る。

二滴目は、四ノ雨桁の冷却炉。

熱い水の中。

カガリが炉を止める。

カガリは煤の染みた測定糸を、次に使う音が静かな順へ並べた。若い声のせいで命令を軽く聞かれるのを気にしているが、二百呼吸だけは譲らない。恐怖で胃が縮み、朝から何も食べていない。

「逆に、百九十九でも――逆じゃない。二百」

言い直し、左手が先に弁へ伸びるのを右で止めた。安全を守る長所が、急ぎすぎれば同じ炉を開ける危険になることを知っている。

ルゥが銀糸で冷却管をつなぎ替える。

カナタは旗を出しかける。

「今は待って!」

「道は!」

「水が沸く!」

待つ。

五番目の旗。

今、ここ。

炉の熱が下がるまで二百呼吸。

カナタは百三十で立ち上がった。

「長い!」

「まだ!」

二百。

炉を開ける。

二滴目。

三滴目は、六ノ雨桁の古い鐘。

十年前の警報が、響雨の底へ残っていた。

ごおん。

ごおん。

九音目で止まる。

「十音目がない」

コウネが言う。

「事故の日、十音目を鳴らす前に塔が落ちた」

腰の《鳴らなかった鐘槌》へ指が触れる。十年前の警報を現在の命令として再演するのが怖くて、コウネは古鐘を封じたままにしていた。慎重さが、必要な現在警報まで遅らせた夜もある。

「今の鐘は、今いる見習いと鳴らす」

三人へ槌を分け、古い九音は記録皿へ、自分の声は現在鈴へ置いた。

ナギは鐘の残響を、現在の警報と分ける。

「記録」

「今の返事じゃない」

古い九音の間から、一滴。

四滴目。

七ノ雨桁の塩田。

白い結晶の中。

水へ戻せば、十年前の塩雨と今の塩雨が混ざる。

シオリが結晶を半分だけ溶かす。

細縁の作業眼鏡をかけ、近い結晶の亀裂を異様なほど正確に読む。右眉は幼い火傷で一筋途切れ、左膝の縫い痕をかばって半歩だけ同じ場所を往復した。

「全部溶かせば記録は増える。でも、今冬の塩が減る」

記録回収のため生活資源を失うことを怖れ、必要な一滴だけを右手で分け、結び目は痛む親指を避けて左で作った。余った時間ができても休めない人が、今日は塩が溶ける一呼吸だけ目を閉じた。

「全部じゃない?」

「記雨一滴ぶん」

「残りは?」

「塩として使う」

同じ過去を全部、水へ戻さない。

必要な一滴だけ受け取る。

五滴目。

八ノ雨桁の灯塔。

青い灯の中。

塔を消せば、今夜の帰路が暗くなる。

「明日探す?」

「天攫潮が来る」

「じゃあ今!」

「灯りを消さず取る」とルゥ。

銀鋲で、古い光と今の光を分ける。

ザンバの《岐点》が補う。

十年前。

現在。

二つの青。

今の灯を残し、古い一滴だけ抜く。

「俺の仕事は?」

「梯子を押さえる」

「地味!」

「必要!」

カナタは全力で梯子を押さえた。

六滴目。

九ノ雨桁の眠雨池。

池は深く、底へ行くほど時間が遅い。

記雨へ手を伸ばすと、指が昨日へ引かれる。

「九転脈輪!」

カナタが船の方向を見る。

「ここにない!」

「旗で戻らないで!」

ルゥが腰へ銀糸を結ぶ。

ナギが現在の声を続ける。

「カナタ、今!」

「ここ!」

「ルゥ、今!」

「池の縁!」

「ザンバ!」

「後ろ」

現在の返事を道にして、六滴目を取る。

七滴目。

十ノ雨桁の計雨輪。

公式記録へ組み込まれていた。

外せば、十年前の数字が一つ減る。

「記録を変えるのか」

ヒサメが迷う。

「水を取っても、写しを残す」とルゥ。

形。

位置。

外した理由。

次に見る人。

四番目の旗の《次稿》と同じ欄。

七滴目を抜く。

記録は消えない。

八滴目は、返雨塔の外壁。

亀裂の奥。

ザンバが灰旗を入れる。

「二つに分かれる」

「どっち?」

「一つは記雨。もう一つは、カサネの《同量》の標力」

「十年前から残ってる?」

「術の癖だ」

同量の線を切らず、記雨だけ分ける。

八滴。

最後。

九滴目の声は、どこにもなかった。

ナギは十一個の鈴を並べる。

一ノ桁。

十ノ桁。

余滴窪。

全部返事がある。

九滴目だけ、未確認。

「時間切れ?」

カナタが雲海を見る。

青黒い渦は、もう星の半分を隠している。

「ないことにしない」

ナギは空の鈴を一つ残す。

「でも探す場所がない!」

「場所じゃないかもしれない」

アマネの小瓶。

十滴目の記雨が、八滴へ向かって光る。

その間。

カサネの紺青旗が、遠く返雨塔で揺れた。

ナギの空鈴が一度鳴る。

「九滴目」

「カサネが持ってる?」

「旗の中」

事故の日から。

公式記録へ入らなかった一滴を。

雨算長は、自分の標術の中へ隠していた。