第229話 第七章「繰上枡」前編

アマネの工房には、捨てられないものが多すぎた。

雨袋。

折れた枡。

由来不明の札。

十年前のねじ。

母サヤの工具。

何に使うか分からない管。

「全部、必要?」

ルゥが訊く。

「いつか」

「いつ?」

「分からない」

「誰が見る?」

「私」

「全部?」

「捨てたら戻らない」

アマネの顔色は昨日より悪いのに、「昨日より軽い」と言った。限界が近いと自分の席を壁際へ寄せる癖まで出ている。ルゥは棚の整理より先に椅子を中央へ戻した。

「残す人が倒れたら、残したことにならない」

アマネは反論せず、最初の一刻だけヒサメへ鍵を渡した。

四番目の旗。

途中を渡す。

けれど、渡す相手も、現在の状態も書かずに積むだけなら、次の人は続きを始められない。

ルゥは棚から袋を一つ取った。

札がない。

「これは?」

「青い雨」

「種類」

「たぶん灯雨」

「いつから」

「三年前」

「保存期限」

「分からない」

「開けない」

袋を危険棚へ移す。

アマネが取り返そうとする。

「捨てない」

「分けるだけ」

「危険って書いたら、誰も使わない」

「分からないまま使うよりいい」

「母さんのものかもしれない」

袋の結び目は、左利きのサヤが使っていた形に似ていた。アマネは検査より先に《灯雨・安全》と書きかける。母の物なら危険ではない、と分類を甘くしたくなった。

ヒサメが両耳の計雨輪を同時に回す。

「音は灯雨に近い。でも、由来未確認」

アマネは出口へ視線を逃がし、完全に黙って扉と人の数を数え直した。それから自分の札を破らず、赤線で囲う。

「今の私の推定。確定じゃない」

母を守る優しさも、検査を飛ばせば別の雨を傷つける。

「だから、余計に書く」

ルゥは白い帳面を渡した。

欄。

現在の形。

試したこと。

危険。

次に見る人。

期限。

「多い」

「残す責任」

「全部書くの?」

「全部分からないなら、分からないって」

アマネは最初の袋へ書く。

――青雨。

――由来未確認。

――三年以上前。

――開封禁止。

――次確認、ミズハとアマネ。

「名前、二人?」

「一人で決めない」

次の袋。

次。

工房の床が見え始める。

捨てたものはない。

けれど、使えるもの。

待つもの。

終えるもの。

危険なもの。

場所が分かれた。

ザンバは折れた管を一本拾った。

「これは終わっている」

「直せる」

「材が腐っている」

「一部なら」

「何に使う」

アマネは答えられない。

「残すことと、終えないことを同じにするな」

七番目の旗。

道を終える。

歩いた記録は残す。

「捨てる?」

「解体する」

使える留め具を外す。

腐った管は、事故記録の見本へ。

形は失う。

来た道は残る。

「ここまで」

アマネは初めて、自分の工房で終標札を書いた。

手が震えた。

それでも、管を元の山へ戻さなかった。

棚の奥から、小さな球形模型が現れた。

十個の下枡。

その上に、一つの大きな空枡。

「これ」

ルゥが息を呑む。

アマネは埃を払った。

「母さんの《繰上枡》

アマネの工房で《繰上枡》が見つかった日の夕方。

カゲノハ村から、十枚の図面が届いた。

連標網を通れる重さには限りがある。

一度に一枚。

薄い樹皮紙が、響雨の膜から順番に現れる。

一枚目。

二枚目。

十枚目。

「私の図」

ルゥは一枚目を見た瞬間に言った。

三十歩先の顔は服で判別するルゥが、図の細線だけは裸眼で拾う。遠い現在映像を見るとき、ようやく薄い片眼鏡を使った。意地で拒む余裕より、今の門を正確に見ることを選んだ。

十枚目を開く指は震えている。《継ぎ路》の反動で左親指と左手首に痛みが戻り、銀鋲を一本、髪から抜けない日だった。

カゲノハ村を出る前、作業小屋の壁へ残した帰還門の案。

壊れた橋を一時的につなぐ《継ぎ路》を、固定された機巧へ移す試作図だった。

当時の村。

当時の発着場。

当時の荷車の幅。

当時のルゥが、知っていた範囲で描いた線。

「ここ、角度が違う」

十枚目を開く。

赤い線が、元の設計を斜めに横切っていた。

「留め具を斜めにしたの、セノね」

紙の端に、見習いの字。

――まっすぐだと、新しい帰還門の外輪へ当たる。

――穴を一つ増やした。

「勝手に増やした!」

ルゥの声が工房中へ響く。

カナタが図面を覗く。

「穴なら多いほうが通る!」

「機巧は笊じゃない!」

「水を通すんだろ?」

「道!」

「似てる!」

「違う!」

ルゥは赤い線へ訂正を書き始めた。

――荷重が片側へ寄る。

――銀鋲の角度が不均等。

――旧案へ戻すこと。

最後の一行で、筆が止まった。

「旧案?」

ナギが訊く。

「私が作った形」

「今の門に合わないって書いてある」

「門のほうを合わせれば――」

言いかける。

逆さ銀樹ミナモ。

原図機関が、町を十二年前の形へ戻そうとした。

第一歩号の傷も。

ルゥの今も。

正しい図へ合わせようとした。

「今の門を見てない」

ルゥは筆を置いた。

十枚のうち、一枚目から九枚目までは古い図の写しだった。

十枚目だけが、現在の門。

太い外輪。

旅人用の荷下ろし場。

村の外から来た船へ合わせた広い受け台。

アステルの《帰還路》へ直接つなぐのではなく、一度《現在確認台》を通る新しい仕組み。

「こんな台、なかった」

「今はある」

ナギが現在の鈴を鳴らす。

アカリの声が返った。

『現在報告。帰還門、外輪試験中』

「見せて」

『声だけ』

「図を送って!」

『十枚送った』

「動いてるところ!」

『今から動かす』

響雨の水膜に、カゲノハ村の景色が薄く映った。

記憶ではない。

連標網を通る、現在の光。

発着場は広くなっていた。

昔、第一歩号を組み立てた場所には、二つの作業台がある。

一つは古い。

もう一つは、木材も高さも違う。

セノを含む三人の見習いが、ルゥの古い机を囲んでいた。

「私の机!」

『右半分はセノ』

「返して!」

『左半分はフィオ』

「私の場所は!?」

『新しい机を作る空きがある』

アカリが映像の端へ現れる。

背には配達袋。

腰に、現在図を入れる筒。

『帰ってから作って』

「帰るって決まって――」

ルゥはカナタを見た。

カナタは図面を逆さに持っている。

「今、決める途中!」

『受け取った』

「勝手に受け取らないで!」

『返事だから』

アカリは現在確認台へ上がった。

門の中央には、古い光がある。

アステルの《帰還路》

十年前から村を支える道。

試験札を持ったセノが一歩入る。

光が広がった。

昔のカゲノハ村が、現在の発着場へ重なる。

まだ狭かった橋。

苔灯りだけの広場。

ルゥの作業小屋。

出発の日の第一歩号。

「記録」

ナギが左の鈴へ分ける。

アカリは古い景色を見ても、その中へ進まなかった。

現在図を床へ置く。

『今の門、外輪三歩』

セノが斜めの留め具を回す。

古い景色の横へ、現在の道が開いた。

旅人用の荷下ろし場。

新しい宿。

増えた階段。

広場を走る子ども。

『現在、こっち』

アカリが先に踏む。

セノが二歩目。

古い帰還路は消えない。

けれど、村内を往復する二人ぶんだけ、現在の試験路がその横へ開く。

「斜めの留め具」

ルゥは映像へ顔を近づけた。

外輪が道の重さを受けるとき、留め具がわずかに動く。

固定しない。

揺れに合わせて角度を変える。

「まっすぐより、負荷が逃げる」

『だから斜め』とセノ。

「最初から説明しなさい!」

『図に書いた』

「字が小さい!」

『ルゥの字も小さい』

「私のは正確!」

『読めなかった』

カナタが胸を張る。

「仲間!」

「そこへ入るな!」

ルゥは十枚目を作業台へ広げた。

繰上枡の模型を隣へ置く。

十本の雨路は、太さも重さも違う。

まっすぐ固定すれば、一番弱い管が折れる。

斜めの留め具なら、動いたぶんを隣へ逃がせる。

「使える」

ルゥは銀枝を一本曲げた。

アマネが驚く。

「母さんの模型に、別の町の部品を入れるの?」

「完成図じゃない」

十枚目の図を示す。

「今ある困り方へ、今ある案を試す」

「壊れたら?」

「記録する」

「合わなかったら?」

「次へ渡す」

アマネは少し考えた。

「母さんと同じにしない?」

「同じにできない」

ルゥは答えた。

「私はサヤじゃない。セノも私じゃない。今の返雨塔も、十年前の塔じゃない」

斜めの留め具を模型へ入れる。

一ノ枡へ一滴。

二ノ枡。

十。

十本が上へ渡ると、留め具がそれぞれ違う角度へ動いた。

一本も折れない。

ただし、上の大枡は半分しか開かなかった。

「失敗?」

「途中」

ルゥは白い帳面を開いた。

――現在の形。

――試した範囲。

――動いた角度。

――上枡、半開。

――次、アマネとルゥ。

最後に、別の欄。

――元案、セノ。

「私の名前が後!」

遠い村から声。

『最初、セノ』

「受け取ったのは私!」

『二歩目、ルゥ』

ルゥは口を閉じた。

八番目の旗。

誰かの最初へ、自分が二歩目を重ねる。

「……受け取った」

今度は、ルゥが言った。

受け取るだけでは終えない。ルゥは自分の名を二歩目へ置き、最初のセノ、その次に実地試験をしたアカリ、荷重を測った見習いの名まで図へ足した。自分の仕事が誰かに改造される未来を、怖がりながら正式な欄へ入れる。

銀鋲の本数は、怒りではなく負荷を示す。最後まで抜けなかった一本を、帰還時の現物確認用として紙へ留めた。

返信図へ、旧案へ戻せとは書かなかった。

代わりに。

――外輪、三回まで試験。

――斜め留め具、亀裂を毎回確認。

――四回目は、現在図を送ってから。

――完成扱いにしない。

さらに、図の端へ小さく書く。

――帰還時、現物確認。