第236話 第十章「十個の部屋」後編
「みんなに余りを捨てさせた」
「ああ」
「謝って終わる?」
「終わらない」
カサネは自分の旗を見る。
一本線を失った十個の枡。
「私は、自分の間違いを数えなかった」
「今、数えた?」
「一つ目だ」
アマネは目を逸らさない。
「許さない」
「分かっている」
「今は」
「それも分かっている」
「町へ言う?」
「言う」
「雨算長をやめる?」
「決めるのは町だ」
「責任を渡す?」
「逃げずに渡す」
アマネは小瓶を閉じた。
すぐに手を取らない。
でも、カサネの返事を現在帳へ残す。
――事故原因、上枡先入れ。
――実行、カサネ。
――サヤ、阻止・余滴窪へ分流。
――公式記録、虚偽。
文字は消えない。
獣の歩数。
六。
十歩目まで、あと四。
「戻る」
カナタが言う。
「どこへ」とルゥ。
「外!」
「方法!」
「十の次!」
「分かったの?」
「今から!」
アマリナシが七歩目を踏む。
十個の部屋が、一つへ近づく。
カナタは夜色の五番旗を掲げた。
「今いるものを数える!」
七つの現在。
三つの空き。
外の十本の雨桁。
余滴窪。
遠い十結節。
数は一つにそろわない。
「それでいい!」
六番目の透明旗。
「受け取る場所を空ける!」
三つの空室を、足りない穴ではなく、外へ出るための余白にする。
七番目の暮色旗。
「九滴まで、ここまで!」
記雨の足跡を消さない。
八番目の薄青旗。
メグの《輪番》。写しの八色布が回る。
「次の先頭!」
「誰!」
「アマネ!」
カナタは白旗を下ろす。
「最初を頼む!」
「まだ標術がない!」
「一歩はある!」
アマネは空色旗を持つ。
十個目の雫は輪郭だけ。
九番目の深緑旗。
シノの《折返》。写しが光る。
「一つへされた雨を、違った場所まで戻す!」
ザンバが灰旗を振る。
「《岐点》!」
九本の線。
獣の一本の水路へ入る。
二。
三。
九。
十本目が足りない。
『不足』
獣が笑う。
ザンバは九本を増やさない。
黒い点を一つ終える。
その先に、別の黒い点。
「九本までを、一つの分岐として終える」
暮色の灯が入る。
「次の点へ渡す」
空白。
その向こうから、新しい一本目。
「《岐点》――次位分岐」
右の機巧腕ではなく、左手で新しい黒点を置いた。古い腕の幻肢は十本目を足せと疼く。ザンバはその痛みを罰として隠さず、「幻肢痛、強い」とナギへ申告した。
「俺一人の切断精度を、次の段の条件にするな」
黒点の位置をアマネ、ルゥ、カサネの三方向から確認させてから、線を開いた。
十本目ではない。
次の段の一本目。
獣の一本線へ、二つの数え方が入る。
一から九。
終わり。
次の一。
巨大な《十》に亀裂。
「数が戻った!」
「段が変わった」とルゥ。
「やっぱり難しい!」
でも、道は開いた。
十個の部屋の外へ、一歩分の空白。
「アマネ!」
「受け取る!」
輪番の先頭が、空色旗へ移った。
アマネは最初の一歩を踏んだ。
空室の中央。
何もない場所。
空色旗を突く。
「十滴を、次へ渡す場所!」
薄い水面。
一歩分。
沈む。
カナタはすぐ後ろへ白旗を出す。
「《未踏路》! アマネの次!」
二歩目。
水面が少し広がる。
まだ足りない。
「二番目の旗!」
カナタが叫ぶ。
船にない。
トマリギ島。
帰る場所に立っている。
ナギが連標網を開く。
「始標旗、返事を!」
遠い低音。
『受け取った』
次標旗の青い二音。
『ここへ戻れる』
帰る場所は持ち歩かない。
それでも、現在の返事は届く。
アマネの水面へ、青い支点。
「三番目!」
三番港。
ミオたちの再会標。
別々の十雨が、また会う場所を作る。
「四番目!」
ミナモ。
キリの次稿。
今そろわない雨へ、次の欄。
「五番目!」
在標。
誰が今いるか。
未確認は未確認。
「六番目!」
迎標。
受け皿を空ける。
「七番目!」
終標。
一から十まで、ここまで。
「八番目!」
輪番。
先頭をアマネへ。
「九番目!」
折返。
違う雨を、選び直す分岐へ。
九本の旗の力は、一つの光にはならない。
青。
銅。
灰青。
夜。
透明。
暮色。
薄青。
深緑。
カナタの白。
色の違う道が、アマネの一歩へ重なるのではなく、周りから支える。
「十番目は?」
獣の声。
『空白』
『不足』
アマネは空色旗を見る。
十個の雫。
九つの光。
輪郭だけの十個目。
「十個目へ何かを入れるんじゃない」
母の模型。
下の十枡。
上の空枡。
「十個そろったあと、上へ渡す」
輪郭の十個目が光る。
一から十。
その上に、大きな雫が一つ現れる。
横へ、小さな空白。
次の一滴を待つ場所。
アマネの胸に言葉が響く。
「標術――《繰上》!」
空色旗が開いた。
十本の雨路が、一つ上の水面へ持ち上がる。
下の十本は消えない。
空になる。
次の雨を受ける。
十一番目として押し出されていた余滴窪の水が、横の小さな空白へ入る。
新しい一。
次の一滴。
二。
数え方が続く。
アマリナシの体へ亀裂。
『十で終わり』
「十で次へ渡す!」
『余りは捨てる』
「次の最初!」
『一つにする』
「一つ上へ渡しても、十滴は十滴!」
カナタの白旗から、大きな《十》が剥がれた。
十枚の雨札へ戻る。
無数の細い道。
中央の空白は消えない。
「俺の道は!」
カナタは獣の口へ走る。
「数え直しても、歩いたやつまで一人にはならねえ!」
アマネの一歩。
その後ろの二歩目。
自分が最初ではない道。
「道を作るってのはな!」
天頂門でザンバへ言った言葉。
「自分が歩くだけじゃねえ!」
旗竿を構える。
「相手にも、一歩踏ませることだ!」
アマネが叫ぶ。
「次へ渡して!」
「受け取った!」
白旗を、巨大な《十》へ叩き込む。
「これが俺たちの――次の一歩だぁっ!」
轟音。
縦線が十本の雨路へ裂ける。
丸い口が、空の繰上枡へほどける。
十個の輪。
一ノ雨桁。
二ノ桁。
十。
アマリナシの体は、何百個もの透明な雨枡へ戻った。
枡の底で、指ほどの小さな影が十個動いた。十全獣の幼体。大きな個体と違い、舌は一本ずつしかなく、苗雨を舐めたものは薄茶、薬雨を舐めたものは緑、響雨を舐めたものは喉を小さく鳴らした。
同じ大きさへ戻そうとはせず、それぞれ近い匂いの枡へ逃げる。制度が違う雨を違うまま受けたことで、幼体の体表も十色に分かれていた。
「殺す?」とカナタ。
「観察する」とアマネ。
「再び同じ餌場を作れば、群れるかもしれない」
敵が消えたのではない。町の使い方次第で、行動が変わる生物として残った。
十個の部屋が開く。
七つの現在が外へ。
三つの空きは、空いたまま。
何かで埋めなくても、世界は壊れなかった。
標災がほどけても、雨は空にあった。
天攫潮へ引かれる逆雨。
地上へ返ろうとする大返雨。
混ざったまま落とせば、町を傷つける。
「全部止める!」
カナタが白旗を上げる。
「全部は無理!」とルゥ。
「一つずつ!」とナギ。
「分ける」とザンバ。
「渡す」とアマネ。
十本の雨桁が現在を返す。
一ノ桁。
苗雨、八。
二ノ桁。
飲雨、九。
三ノ桁。
薬雨、緑七、白三。
十ノ桁。
返雨、十。
余滴窪。
黒雨一池。
由来未確認、四袋。
「未確認は降らせない!」
ルゥが受け皿を分ける。
「次雨蔵へ!」
「まだ名前ない!」とアマネ。
「今作った!」
「受け取る!」
カナタは未踏路を、雨の帰る場所の手前まで出す。
最後の一歩は、各桁の人。
ヒナが苗雨を受ける。
ヒナは保護眼鏡の奥で十回まとめて瞬きし、自分で最後の一歩を踏んだ。カナタの光板へ乗るだけではなく、苗床の受取人として足跡を残す。
ヨモギが薬雨。
ヨモギは緑七、白三を同じ器へ入れず、患者名を低い声で一人ずつ呼ぶ。痛む親指の結び目だけは左手へ渡し、自分の休憩札も最後へ置いた。
コウネが響雨。
コウネは古い九音を記録鐘へ、現在の危険音を見習い三人の小鐘へ分けた。鍵を二回鳴らし、三回目を止める。今日の仕事を、十年前の再演にはしなかった。
ハコネが避難枡の飲雨。
ハコネは人数札を先に《完了》へせず、降りた者の名を確認してから語尾を伸ばす。
「全員、着いたね」
左まぶたはまだ震えている。自分の体調も飲雨の配分表へ入れ、家族だけを守る名目で他人の選択を奪わなかった。
十本の雨が、違う場所へ降る。
余滴窪。
アマネが最初の返雨を受ける。
十一番目ではない。
次の一。
黒雨池は、ミズハとイツキの鈴へつなぐ。
すぐには降らせない。
由来未確認の四袋も、空色の小さな枡へ。
十色の幼体は、それぞれ別の袋の前で舌を止めた。混ざった袋の前では二匹が互いに離れ、同量化された水の前では十匹が集まりかける。
「分類器にできる」とルゥ。
「餌を作って使わない」とアマネ。
人の都合で同じ雨を与え続ければ、また群体化する。利用は観察範囲だけ。次雨守が輪番で行動を記録することになった。
「全部救った?」
カナタが訊く。
「人の現在確認、まだ」とナギ。
名前を呼ぶ。
一ノ桁。
十ノ桁。
余滴窪。
返事。
怪我人、七。
位置未確認、一。
「誰!」
第一歩号。
終路鐘が鳴らない。
「船!」
雨雲の下。
船首の鍋蓋だけ見える。
第一歩号は、返雨塔の側面へ逆さまに刺さっていた。
カナタが飛ぶ。
「現在!」
船腹を五つ叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
朝火炉が咳をした。
こん。
「一つ多い!」
「返事!」
「故障!」
ルゥが工具箱を抱えて追う。
位置未確認、ゼロ。
「今度こそ!」
カナタが胸を張る。
「全員、助かった!」
ナギは現在帳を確認する。
人。
船。
未確認なし。
「今は、言っていい」
「全員、助かった!」
十本の雨桁と、次の一から歓声が返った。