第237話 第十一章「雨算長の報告」前編

雨が落ち着いた翌日。

返雨塔の前へ、二枚の大きな記録板が立てられた。

左は、十年前の公式板。

右は、現在確認した訂正板。

古い板を裏へ隠さない。

壊しもしない。

誰が、いつ、何を、なぜ変えたかを、横へ並べる。

十本の雨桁。

次雨窪。

渡雨使。

当時の作業員。

事故で家族を失った者。

罰金を払った者。

余滴拾いの資格を得られなかった者。

人々が集まった。

カサネは紺青の外套を着ていた。

雨算長の印を外したまま。

強い朝光を受け、視界が数呼吸欠ける。以前なら肩を下げず隠したが、今日は説明板の横へ《読み上げ補助、必要》と札を置いた。左手の親指には新しい薄布。制度を訂正する人が、自分だけ旧い我慢を模範にしないためだった。

「十年前」

声は硬い。

「繰上枡へ余滴を先に入れさせたのは、私です」

ざわめき。

「サヤは止めた。私は聞かなかった。塔が溢れたあと、余滴が原因だと記録した」

ヒサメが左の板を読む。

カサネが右の板を読む。

一行ずつ。

途中を飛ばさない。

「公式記録を訂正します」

「誰の許可で」

一ノ桁の老人が訊いた。

「私一人の許可では訂正しない」

カサネは答える。

「今日は、訂正案と証言を公開する。各桁と次雨窪から確認を受け、異議を併記する」

「また、雨算長が最後にまとめるのか」

「まとめない。記録係が束ねる。決定者は、関係する者の輪番」

「辞めるのか」

「雨算長の札は返す」

「それで終わる?」

「終わらない」

カサネは次の板を示した。

――誤記録に基づく罰金、返還審査。

――取り消された住民札、再確認。

――余滴拾いの職歴、正式記録へ移す。

――当時の避難名簿、本人または家族へ照会。

――保存失敗した雨袋、原因の再調査。

――カサネは決定権を持たず、説明と資料提出を担当。

「全部、できるのか」と別の声。

「期限を置く」

ヒサメが日付札を並べる。

一週間。

一か月。

三か月。

終わらない項目には、次の担当者と延長理由を書く。

「できなかったら?」

「できなかったと公開する」

「謝れば戻るのか」

「戻らない」

「サヤは」

「戻らない」

「では、何のためだ」

カサネはすぐに答えなかった。

「次の人が、同じ公式板だけを読んで、同じ命令を正しいと思わないため」

アマネは少し離れて立っている。

隣には、母サヤの空色旗。

「許したのか」

誰かがアマネへ訊いた。

「許してない」

返事は短い。

「訂正は受け取る?」

「今日の板は、読む」

「カサネを席へ戻す?」

「決める席には戻さない。説明する席は逃がさない」

カサネは頭を下げた。

「すまなかった」

返事はすぐ来ない。

泣く者。

怒鳴る者。

板へ自分の家族名がないと訴える者。

アマネは母の名があることだけで満足しかけ、訴えを一瞬「あと」へ回そうとした。ヒサメが両耳輪を鳴らす。

「サヤの訂正を急ぐため、別の家族を次回へ送る?」

アマネは黙って扉と人数を数え、母の板の横へ新しい空欄を作った。余りを守る者も、自分の大切な一人を中心へ置きすぎる。だから輪番と異議欄が必要だった。

サヤにも別の判断ミスがあったはずだと言う者。

全部を、反対として一つへまとめない。

ナギとコウネが鈴を分ける。

証言。

異議。

追加確認。

未確認。

その日のうちに訂正板は完成しなかった。

代わりに、空欄ごと持ち帰る担当者が決まった。

会議席は、十脚の列をやめた。

十桁の代表と次雨窪の代表が、円へ座る。

中央は空ける。

渡雨使や、直接影響を受けた者が来たときの席。

カサネは円の外。

記録の説明席。

支持者の中には、十単位制度で救われた名簿を掲げ「全部が間違いだったのか」と問う者もいた。カサネは否定しない。

「救った配水は救った。押し出した人は押し出した。片方で片方を消さない」

謝罪へ逃げず、制度の功績と被害を同じ板の別欄で説明する仕事が残った。

決定する鈴は持たない。

「賛成」

一音。

「反対」

二音。

「未確認」

白札。

「黙った理由は、あとで本人へ聞く」

最初の議題は、次雨蔵の保存規則。

二つ目は、十一人家族の避難札。

三つ目は、誤記録で失われた余滴拾いの職歴。

十一本の鈴は、ばらばらに鳴った。

一つの答えにはならない。

会議はその日には終わらなかった。

だから、次回の日付と、資料を受け取る者を書いた。

訂正は、一度頭を下げて終える仕事ではなかった。

過去の板を残し、現在の責任を引き受け、次に読む人へ渡す長い仕事として始まった。

逆雨原で雨算長の公開報告が続いていたころ。

遠い天樹アトラス、第七百二枝。

カゲノハ村では、帰還門の十一回目の試験が始まっていた。

「全員、現在札を持って!」

アカリが北発着場の中央で声を張る。

へこんだ薬箱。

腰には、その日だけで書き直した地図が三枚。

左手で地図を書き、右手で帰還札を渡す。人名札の角だけ丸い。朝から立ちくらみが二度あり、今度は隠さず《案内役体調・短休憩一》と現在図へ記した。案内する者自身を、地図の外へ置かない。

背中には黄緑色の小旗。

宛名札の紋が、今日の受取人へ弱く傾いている。

標術《宛標》

現在図に名前があり、本人から返事がある相手の方角を示す。

道は作らない。

古い住所を、現在の住所へ書き換えもしない。

帰る者の記憶より強い力でもない。

「留め具、十個確認」

セノが外輪へ油を差す。

「斜め穴、三つ」

「昨日は二つだった」

「荷下ろし台が一歩動いた」

「現在図、更新」

昔の発着場には、門も宿もなかった。

今は白い内輪。

黄緑の外輪。

旅人宿。

荷下ろし台。

新しい階段。

カナタが出た日の形へ戻すには、今いる家を何軒も壊さなければならない。

「第一試験者」

村長が名簿を読む。

「アカリ」

「自分で?」とセノ。

「村内往復。短距離の基準」

アカリは帰還門の外輪へ出る。

発着場から見える範囲。

現在札。

――現在地、外輪外側。

――行き先、配達小屋。

――受取人、セノ。

――案内、アカリ。

セノが五回叩く。

「今、ここ」

《宛標》の黄緑線が、現在の配達小屋へ向く。

内輪の金色は、アカリが十三歳で熱を出した日の古い道を一瞬だけ出した。

薬師橋。

小さな家。

鍋蓋で飛んでくる少年。

アカリはそちらへ足を出さない。

「現在札、確認」

外輪へ一歩。

黄緑線。

配達小屋。

到着。

小鐘が鳴る。

からん――。

「短距離、自本人、成功」

セノが記録する。

「記憶像、出現あり。外輪角度、維持」

二人目。

十二日だけ村を離れていた商人。

出発時には、旅人宿の入口が南側にあった。

今は荷下ろし台の増設で、東側へ移っている。

「受取人」

「宿守キヌ婆」

現在の旅人宿を預かるキヌ婆は、昔の家の鍵を持っていても、古い住人へ勝手に渡さない。今日の部屋番号と今日の寝具を五回の返事に添えた。

「昔の戸口も知ってるよ。泊まる戸口は、今こっちだ」

「返事」

「ここだよ」

ミナ婆が五回叩く。

内輪は古い南口を出す。

外輪の黄緑線が東へ曲がる。

商人は一歩手前で迷い、今の声を聞き直した。

「東」

自分で選ぶ。

到着。

――短期不在、成功。

――旧入口像あり。

――現在応答による修正、成功。

「二件!」

セノが胸を張る。

「まだ」

アカリは三人目の札を持った。

名はレンカ。

二十七歳。織り場の粉を指先へつけ、緊張で札を濡らさないようにしている。片目を閉じると距離を正確に測れる癖があり、今の弟を見るときだけ左目を閉じた。紙や布の端を直角へそろえなければ話し始められず、帰還札を何度も整える。

昔の家では、家族から幼名で呼ばれていた。今の織り場ではレンカ。帰るなら、どちらの名へ返事をするのかを、本人もまだ決めていなかった。

上層港の織り場で働き、一年三か月ぶりに村へ戻る女性。

出発時、レンカの家は北橋の脇にあった。

半年前、枝の移動で家は解体された。

家族は旅人宿の裏へ移り、古い場所には薬草乾燥棚が立っている。

「行き先」

「今の家」

「受取人」

レンカの弟が手を上げる。

「返事」

五回。

「姉ちゃん。ここ」

アカリの《宛標》は、弟の名札へ傾いた。

黄緑線が、現在の家へ伸びる。

「接続」

セノが内輪を開く。

金色の帰還路が広がった。

現れたのは、古い北橋。

解体前の家。

戸口に、出発の日の家族。

弟は、今より背が低い。

母は、まだ足を悪くしていない。

食卓から湯気。

「ただいま」

レンカの口から、先に言葉が出た。

足も出る。

「今の返事を聞いて!」

アカリが黄緑旗を上げる。

弟がもう一度、五回。

「ここ!」

《宛標》の線は、確かに現在の家へ向く。

けれど、レンカの足元まで届かない。

一歩手前で細くなり。

古い戸口へ引く金色の道に押され。

角度がずれた。

黄緑線の先が、現在の家ではなく、撤去済みの北橋の柱へ刺さる。

「止める!」

セノが内輪を閉じる。

アカリはレンカの腰縄を引いた。

古い家が消える。

レンカは門の外側へ尻もちをついた。

到着していない。

弟が外へ走る。

「姉ちゃん!」

今の声。

今の体。

レンカは弟を見て、しばらく言葉を出せなかった。

「大きくなったね」

「一年だよ」

弟が呼んだのは、幼名ではなく「レンカ」だった。彼女は一度だけ古い名へ振り向きかけ、現在の呼び名へ返す。

「ただいま、は家で言い直す」

帰還門には失敗した。それでも通常路を歩く足は、自分で今の家へ向けられた。

「家は」

「あとで案内する」

通常路で、二人は歩いて帰る。

帰還門を使わずに。

記録板へ、セノがゆっくり書く。

――長期不在、一年三か月。

――記憶像、旧自宅。

――現在応答、あり。