第238話 第十一章「雨算長の報告」後編
――《宛標》、現在方位を示す。
――外輪、一歩手前で角度ずれ。
――到着、失敗。
「私の旗は、弟の場所を分かってた」
アカリが言う。
「でも、最後まで引けなかった」とセノ。
「道を作る旗じゃないから」
「外輪を強くする?」
「強くしたら、帰る人を引きずる」
「内輪を弱く?」
「帰還路そのものが切れるかもしれない」
「じゃあ」
「まだ分からない」
アカリは記録板へ、自分で一行足した。
――長期不在者の強い記憶に未対応。
その下。
――第一歩号、推定影響大。試験不能。
「カナタなら、出発の日が出る?」
「たぶん」
「アステルさんも?」
「たぶん」
「追うよね」
「追わせない」
「どうやって」
アカリは答えられない。
代わりに、黄緑旗を握る。
「先に立つ」
「それで足りる?」
「分からない」
「言えるようになった」
「ナギに教わった」
帰還門の金色の奥から、固定記録が鳴る。
『たまには帰れ』
アカリは黒い小鈴を一度鳴らした。
「記録」
今の弟が、門の外で姉へ話している声。
白い小鈴を五回。
「現在」
二つを同じにしない。
試験の最後。
逆雨原から小さな荷が届いた。
正式十雨の見本瓶。
苗雨。
飲雨。
薬雨。
炉雨。
染雨。
響雨。
塩雨。
灯雨。
眠雨。
返雨。
その横へ、別包みの黒雨試料。
札には大きく。
――正式体系外。由来未確認。混載禁止。
「十と一!」とセノ。
「一を十一番目の正式雨にしない」
署名は四つ。
ナギ。
ルゥ。
アマネ。
ツグミ。
箱の底に、カナタの大きな字。
――全部、持って帰れる?
「質問だけ!」
アカリは笑う。
「返事は?」
「全部を同じ倉へ入れない」
苗雨は薬師畑。
飲雨は旅人宿。
薬雨は診療所。
炉雨は工房。
染雨は旗織り場。
響雨は帰還門の試験。
塩雨は保存庫。
灯雨は夜道。
眠雨は水槽。
返雨は外輪の試験管。
黒雨は、由来が分かるまで封印棚。
受取人と次の確認日を一つずつ書く。
アカリは現在鈴を鳴らした。
『カゲノハ村、救難なし』
最初の一文。
『帰還門、十一回目試験終了』
『短期不在、成功』
『一年三か月不在、旧住所へ引かれ失敗』
『《宛標》は現在方位を示したが、最後の一歩へ届かず』
『第一歩号の欄、未試験』
『村は現在』
セノが横から訊く。
「帰ってこい、は?」
「書かない」
「待ってる、は?」
「村は止まってない」
「じゃあ」
アカリは帰還予定欄を見る。
日付を決めるのは、帰る者。
現在図を描くのは、その日にいる者。
『帰ると決めたら、知らせて』
少し考え、もう一行。
『方法は、まだ未完成』
それを最後の返事にした。
発着場では、次の商船が荷を下ろしている。
宿の者が走る。
薬師が雨瓶を運ぶ。
見習いたちは、角度がずれた外輪の留め具を外す。
カナタのためだけに、村は動かない。
帰還門は、準備されていた。
そして、完成していなかった。
アカリは十二枚目の現在図を筒へ入れた。
到着日のための十三枚目は、まだ白い。
その日にある道を、その日に描くための空白。
長く離れた旅人を迎える方法だけは、まだどこにも描かれていなかった。
余滴蔵は、《次雨蔵》へ名前を変えた。
入口の《余》札は捨てない。
裏側の保存板へ移す。
旧名。
使っていた期間。
変えた理由。
その横へ、新しい札。
――次。
「一文字!」
カナタが読めた。
「俺が書く!」
「大きくしないで」とアマネ。
書く。
次。
蔵の扉より大きい。
「大きい!」
「読める!」
「雨が見えない!」
半分へ直す。
名前だけでは、仕組みは変わらない。
次雨蔵の入口には、六つの欄を持つ札が置かれた。
由来。
現在量。
保存期限。
危険。
受取人。
次に確認する日。
分からないものは、《分からない》と書く。
今使うものは、十を待たない。
混ぜれば危険なものは、別の器。
器が足りなければ、一件目から申請する。
「申請十件で会議?」
「一件で記録」とヒサメ。
「三件で?」
「必要なら一件で会議」
「早い!」
「仕事は増える」
「人も増やす!」
地区名も、住民の評議で《次雨窪》へ改められた。
《余滴窪》の旧名は地図の裏へ残す。名前を変えた日と、変えた理由も消さない。
余滴拾いは、正式職になった。
新しい名は《次雨守》。
職名が変わっても、アマネの十本の三つ編みは毎朝違う順だった。最初の一滴を自分が必ず拾う規則は作らない。《次雨守》の札には、受取人、止める権限、休憩交代の三欄が増えた。
ただし、アマネ一人の役目にはしない。
ヒサメ。
ミズハ。
イツキ。
コナミ。
十本の雨桁から交代で一人。
渡雨使ツグミ。
カサネは、決定権のない記録説明係。
札を一人で完成させず、必ず受取人の返事を取る。
最初の運用試験。
薬雨三滴。
翌朝、同じ由来の七滴が届く予定。
「合わせて十!」
カナタが喜ぶ。
「患者は今日いる」とミズハ。
三滴は今夜の患者へ使う。
明日の七滴は、明日の患者へ。
十にするため、必要な時刻を越えない。
二件目。
灯雨九滴。
帰路灯は十基。
倉庫路を一晩閉じ、九基へ一本ずつ。
閉じた道の受取人は、翌朝の修理班。
三件目。
黒雨。
期限到来。
由来は、まだ未確認。
「延長」とイツキ。
「理由」とヒサメ。
「音が昨日と違う。開封は危険。ミズハと再確認」
「受取人」
「僕とミズハ」
「次の日」
「三日後」
延長札へ二人の名。
同じ人が三回続けて延長できない規則も書く。
四件目で、失敗した。
古い染雨袋の確認日を、誰も鳴らさなかった。
一日遅れ。
袋の色記憶が薄れ、受取人の家紋を読み取れなくなった。
「捨てる?」
アマネが訊く。
「染料としては使える」と染師。
「誰の色かは戻らない」
「じゃあ、今の形を書いて別用途へ」
札へ大きく。
――期限確認遅延。
――元の受取人、不明。
――一般染料へ変更。
――責任者、当番三名。
カサネも自分の名を書く。
「記録説明係なのに?」とカナタ。
「確認鐘を引き継ぐ時刻を間違えた」
「間違いを大きく言えた!」
「九番目の旗は、あなたたちだけのものではない」
失敗を隠さず、次の当番へ渡す。
翌日から、確認鐘は一人ではなく、二人が別々に持つことになった。
次雨蔵の制度は、初日から完成しなかった。
十色の幼体も失敗を増やした。灯雨を舐めた一匹が夜道へ逃げ、塩雨の一匹が保存食へ潜り、響雨の一匹はコウネの鍵音を真似して誤報を出した。
捕まえて一つの檻へ入れると、体色が同じ透明へ近づく。そこで十の小檻へ分けるのではなく、広い観察池へ違う水場を作った。選ぶ場所を持たせると、群れずに散る。
生態への対処も、制度と同じだった。
制度変更四日目、次雨蔵へ十一件の持ち込みが同時に来た。
十件目までは、新しい受取棚へ収まった。
十一件目は、コナミが両手で抱えた指ほどの小瓶だった。透明な液の底に、赤い糸屑が一つ沈んでいる。
「どの雨?」とアマネ。
「分からない」
「拾った場所」
「私の棚の下」
「誰の棚?」
「私の」
コナミはそこだけ声を強くした。家に作ってもらった一段を、また共同棚の一部として数えられると思ったらしい。透明な雨靴の右だけを半歩引き、感覚の鈍い前腕を目で確かめながら瓶を置く。
「棚はコナミの。瓶の由来は未確認」
アマネは二つを同じ欄へ書きかけ、筆を止めた。
「別だね」
「うん」
人の場所と、物の来歴を一つへしない。コナミは自分の小棚へ戻す札と、次雨蔵へ預ける札を、別々に選んだ。
その間に、染雨袋の期限鐘が鳴った。
アマネは聞き逃した。壁に掛けたサヤの訂正板へ、新しい質問札が増えたのを見ていたからだ。
「一つ、遅れ」
高音を拾いにくいヒサメが、床を伝う振動で先に気づいた。責める調子ではない。薄い作業眼鏡を押し上げ、期限札とアマネの名を並べる。
「母さんの板を見てた」
「理由は記録。免除にはしない」
「分かってる」
アマネは十本の三つ編みのうち、今日最初に結んだ六本目をほどいた。混乱すると結び順を最初へ戻したくなる癖を、途中のまま止める。
「次の一刻、鍵はヒサメ」
「受け取る」
そこへトキサが、染雨袋を三つまとめて持ち上げた。
「僕が運ぶ」
二歩目で腰が固まり、片足へ重心が偏る。アマネが手を出すより先に、トキサは耳たぶを引いた。
「違う。歩ける人、いる?」
コナミが小瓶を置いて片方を持つ。もう一袋は、近くにいた染雨師が受け取った。トキサは残り一つだけを抱えた。
「三つとも僕の仕事じゃないの?」
「運び終えることが仕事」とヒサメ。
「少し腹立つ」
「記録する?」
「それはしなくていい」
言いながら、トキサは笑った。笑うと肩が上下ではなく前後へ揺れるため、袋の水面まで妙に静かだった。
入口で、カサネが十一件の札を見ていた。
十枚をまっすぐ並べ、十一枚目へ手を伸ばす。昔なら、次回箱へ送っていた。今日は親指の薄布を押さえ、長く息を吸う。
「十一件目の受取人は」
「まだ決めてない」とアマネ。
「期限は」
「日暮れ」
「なら、空き棚を一つ借りる。十二件目が来ても同じ棚へ重ねない」
命令ではなく、現在の条件を訊いたうえで案を置いた。
そのとき観察池から、鍵が三回鳴る音がした。
コウネの合図に似ている。
作業員が一斉に扉へ向かう。
「二回で止めるのが私の音だ」
本物のコウネが、入口で小鍵を二度鳴らした。三度目は指で止める。
池では、響雨を舐めた幼体が喉を膨らませていた。人の合図を理解したわけではない。餌場で繰り返された振動を真似ただけだ。
「誤報、一件」とヒサメ。
「鍵音を変える?」とアマネ。
「私一人の合図を正しくするより、緊急鐘に名前を足す」