第239話 第十二章「十の次の一」前編
コウネは見習い三人を呼び、それぞれ違う短音を重ねた。幼体が一つを真似ても、四人ぶんはそろわない。
日暮れまでに十一件目の由来は分からなかった。
けれど、消えもしなかった。
札には、こう残った。
――本日、受取あり。
――由来、未確認。
――次に見る者、ヒサメ、アマネ、コナミ。
コナミは最後の名を指でなぞった。
「私も?」
「棚の下で見つけた人」とアマネ。
「子どもでも?」
「見つけた年齢は、由来じゃない」
コナミは小さく笑い、自分の棚へ空の場所を一つ残した。
だから、失敗欄が最初からあった。
アマネは見習い札を外さない。
見習い札の裏には、鍵を渡した相手と時刻を毎回書く。見習いでいることを、自分だけが正しいという免許にしないためだ。失敗があれば最初に自分の名を書き、次の当番へ鍵ごと渡す。
「一人前じゃないのか!」
「繰上げ方を一つしか知らない」
「十回やれば!」
「十回事故を起こす気?」
「練習!」
「小さい雨で、止める人を決めてから」
ナギは次雨蔵へ、連標網の固定鈴を置いた。
逆雨原の十番目の結節。
第一歩号は動く結節。
「網が完成!」
「完成しない」とナギ。
「十か所!」
「次の場所が来る」
「増やす?」
「持つ人も」
コウネ。
アマネ。
ヒサメ。
当番札を持つ者が、別々の鈴を受け取る。
一人の耳へ集めない。
連標網は広くなったぶん、持つ手が増えた。
新しい繰上枡は、返雨塔の最上段へ作られた。
金属でも、石でもない。
十本の雨路に囲まれた、一つの受渡し空間。
下には十個の小枡。
由来札をつけたまま。
十個が満ちれば、上へ渡る。
下は空になり、次を受ける。
満たない雨は、次雨蔵へ。
捨てない。
ただし、受取人と確認日を決める。
アマネは空色の大旗を立てた。
右手で旗竿を支え、進路を示す左手は誰にも向けなかった。今日は十本の三つ編みを十、三、一、八の順で結んでいる。旗を立てる直前、三歩下がって全体を見た。
「ほかは?」
誰かの返事が残っていないか、空枡の陰まで確かめる。十番目の旗は、母の無実を証明する記念碑ではない。母サヤの勇気も遅れも、カサネの命令も訂正も、今の運用者の失敗も、別々に次へ渡すための旗だった。
十個の小さな雫。
すべて別々に光る。
その上に、大きな雫が一つ。
横には、次の一滴を待つ小さな空白。
「これが十番目の旗」
カナタが見上げる。
「一本目は、道のない場所へ最初の一歩」
白旗。
「二本目は、往きと帰りの二点」
遠いトマリギ島から、始標旗と次標旗の返事。
「三本目は、別々の道がまた会う場所」
三番港の銅色。
「四本目は、途中を次へ渡す」
ミナモの灰青。
「五本目は、今いる者を数える」
無灯泊の夜色。
「六本目は、向こうから来る一歩を空ける」
迎え岸の透明。
「七本目は、ここまでを終え、記録を残す」
双灯港の暮色。
「八本目は、先頭を渡す」
歩雲群の薄青。
「九本目は、違うと分かった道を選び直す」
星脈市の深緑。
「十本目は?」
アマネが空色旗へ触れる。
「十歩ぶんを、一から九まで消さず、次の大きさへ渡す」
「一つにする?」
「一つ上へ渡す」
「同じじゃない?」
「下の十個、見える?」
「見える!」
「上へ渡しても、由来札は残る」
「分かった!」
「本当に?」とルゥ。
「一つになっても、一つじゃない!」
「惜しい」
「難しい!」
ナギは十本の旗を、カナタの装備として数えなかった。
帰る場所を守る者。
再会点を持つ者。
次稿を渡す者。
現在を数える者。
迎える者。
終える者。
先頭を受け取る者。
折り返す者。
繰り上げる者。
別々の土地と人が、それぞれの役目を持つ。
第一歩号へ載せるのは、小さな写しだけ。
本物は、使う人のいる場所へ残る。
「十本の体系、完成?」とカナタ。
アマネはすぐ頷かなかった。
「今日の使い方は、ここまで。明日、別の余り方をするかもしれない」
完成を拒むだけではない。次に見る日と受取人を決めて、今日の仕事を終える。終わらないことへ逃げず、完成品へも閉じない答えだった。
「役目はそろった」とナギ。
「仕組みは、使うたび直す」とルゥ。
「完成じゃない?」
「完成した体系を、未完成の人が使う」
「難しい!」
帆柱には九枚の写し。
二番目の青旗だけは、遠い島。
返事がある。
十本。
白旗の中央には、大きな空白が残る。
新しい旗を数合わせで入れる穴ではない。
まだ決めていないことを、決めたふりで埋めない場所。
それでも、いつまでも決めずに逃げるための穴でもない。
カナタは、カゲノハ村の帰還予定欄を思い出した。
空白。
今度は、その空白へ次の土地の名を急いで入れなかった。
第一歩号の修理には、十日かかった。
一日目。
ルゥは船体から十種類の正式雨を抜いた。
二日目。
朝火炉が薬雨を吐き終える。
こん。
「治った返事!」
「最後の咳!」
三日目。
八脚雲着輪の一本が水かきになる。
「成長!」
「故障!」
四日目。
九転脈輪が逆雨を一脈ぶん下へ返し、修理台が浮いた。
五日目。
ザンバが修理台を戻す。
六日目。
ナギとコウネが十結節の鈴を調整。
七日目。
アマネが小さな繰上枡を十個持ってくる。
八日目。
左右の帆へ五個ずつ。
弱い風や雨を一つずつ受ける。
十たまれば、大きな一押しへ渡す。
九日目。
カナタが全部へ水を入れる。
第一歩号が修理台を一周した。
「試運転!」
「無断!」
十日目。
ルゥが最後の留め具を締める。
締めたのは右手だった。左親指は反動痛で休ませている。最後の三つの小枡は、アマネとヒサメが取り付け、ルゥは検査だけをした。設計者名には三人。改造欄には、次の利用者が書ける空白を残す。
自分の名で仕事を残しながら、誰かに続きを変えられる未来も受け入れる。銀鋲は十本すべて髪へ戻さず、一本を図面へ留めた。
「《十連雨帆》、完成」
カナタは黙って見つめた。
「どうしたの?」とアマネ。
「帆だ」
「帆よ」
「翼に近い」
「帆」
「今度こそ第十翼!」
「十連雨帆!」
出航点呼。
ナギが響路旗を掲げる。
「船長!」
「カナタ!」
「航路機巧師!」
「ルゥ!」
「響路士!」
「ナギ!」
「監視役!」
「ザンバ」
「第一歩号!」
船腹から五つ。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「現在!」
「行き先!」
ルゥが二枚の地図を広げた。
一つ。
雨が声を運ぶ《千声湖》。
八年前の航路図。
もう一つ。
連標網を下り、天樹アトラスへ戻る道。
カゲノハ村。
到着日の現在図は、まだない。
カナタの口が先に動く。
「千声湖!」
ナギは点呼帳へ書かない。
「受取先は?」
「湖守!」
「現在の返事は?」
「まだ!」
「地図の日付」
ルゥが裏を見る。
「八年前」
「選び直す!」
「出航前でよかった」
カゲノハ村の鈴が鳴った。
十二枚目の現在図。
アカリの声。
『カゲノハ村、救難なし』
最初に、はっきり確認する。
次に。
『帰還門、短期不在者は現在図へ誘導成功』
『一年三か月不在者は、旧宅へ引かれて失敗』
『《宛標》は現在の受取人を示したが、一歩手前で届かず』
『第一歩号、未試験』
セノ。
『外輪の角度ずれ、原因未確認』
フィオ。
『ルゥの机の隣、新しい台はまだ仮置き』
村長。
『帰還予定欄は空けてある』
最後。
『村は現在』
ナギが左の黒鈴を鳴らす。
『たまには帰れ』
「固定記録」
右の鈴。
『方法は、まだ未完成』
「現在の返事」
カナタは二枚の地図を見る。
千声湖。
カゲノハ村。
次の土地。
帰る場所。
「次の土地のあと」
言いかける。
次の十滴がそろったら。
その次。
世界には、いつでも次がある。
白旗の中央の空白。
決めたふりで埋めない。
逃げるためにも使わない。
帰還門は未完成。
アカリの旗も、長く離れた者の記憶を越えられない。
帰れば、失敗するかもしれない。
父のいる古い村へ引かれるかもしれない。
それでも。
「どう帰ればいいかは、まだ分からない」
カナタは白旗を握る。
「それでも、帰ると決めた」
カナタの声は明るく跳ねず、一音低かった。右膝は帰路の冷えを思い出すように痛み、白旗の中央ではなく端をつまんでいる。
「父ちゃんの声がある昔の家へ、引かれるのが怖い。今の村に、俺の席がないのも怖い」
勢いへ隠さず言う。
「それでも、帰った俺へ『いなくても進んでた』って言ってほしい。そのうえで、今の席を一つ、聞き直したい」
ナギが聞き返す。
「行き先?」
「カゲノハ村」
「いつの?」
「着く日の、今の村」
「方法は?」
「未確認!」
「先頭は?」
「今の村を知ってる人」
「アカリ?」
「できれば!」
響路の向こう。
アカリの返事。
『受け取った』
「千声湖は?」とルゥ。
カナタは古い地図を見る。
行きたい。
声を集める湖。
その先の伏流森。
世界には、まだ道がある。
「消えない」
「何が?」
「行きたい場所」
「今行かなくても?」
「帰ってから、俺じゃない誰かが先に行くかもしれない」
八番目の旗。
先頭を渡しても、自分の道は消えない。
「俺も行くかもしれない!」
「帰郷を終えてから決めて」とルゥ。
「今は帰る!」
ナギは五拍数え、現在音と固定記録を別々の鈴へ戻す。ルゥは片眼鏡で帰路図の日付を確認する。ザンバは椅子を船尾の中央へ置き、壁を背にしない。
「俺も帰る」とザンバ。
「支払いのため?」とカナタ。
「名前で請求されたからだ」
機巧腕ではなく左手で帰路札を受け取った。
ナギが点呼帳へ書く。
――行き先、カゲノハ村。
――現在図、到着日に更新。
――受取先、当日の案内役。
――帰還門、長期不在者未対応。
――帰路詳細、未確認。