第264話 第十二章「旗を置いた朝」後編
カナタの予定板には、三つの欄。
――帰還当番。
――文字練習。
――次の冒険。
最後だけ空白。
以前なら、すぐに千声湖と書いた。
今は、空白の横へ小さく書いてある。
――相談日、十日後。
「十日も待つ!」
「五番目」とアカリ。
「止まるのと待つのは違う!」
「待ちながら何する?」
「帰還当番!」
「文字」
「帰還当番!」
「両方」
「難しい!」
その日。
帰還門から、小さな呼び声が届いた。
ナギが鈴を確認する。
「現在の返事。上枝診療所から」
アカリが宛先札を読む。
「熱冷まし、至急」
マツバ婆が薬箱を閉じた。
古い箱。
何度も直した角。
最初にカナタが届けた熱冷ましと、同じ大きさ。
「アカリ」
「うん」
「今度は、お前が届けるんだな」
「前から届けてる」
「村の外へ、単独で!」
「定期便なら前にも飛んだ」
「上枝まで一人は初めて!」
発着場に、小さな滑空翼が用意される。
ルゥとフィオとセノが作った。
左右の翼は同じ形ではない。
右は上枝の風。
左は帰還路の重さ。
黄緑の小旗をつける。
「第一歩号で送る!」
カナタが言った。
「近い」とアカリ。
「俺が先に道を!」
「正規路がある」
「危ないところだけ!」
「初めては、私が踏む」
八番目。
カナタは口を閉じる。
「二歩目は?」
「必要なら呼ぶ」
「すぐ呼べ!」
「返事を待って」
五番目。
「難しい!」
発着場の横では、第一歩号も出航準備をしていた。
帆柱に、新しい札。
――連標巡回便、帰還後第一便。
行き先。
トマリギ島。
三番港。
ミナモ。
戻り先。
カゲノハ村、現在。
先頭欄には、ナギの名。
「船長は俺!」
「今回は響路長」とナギ。
「俺も乗る!」
「帰還当番」
ルゥが予定板を指す。
「代わって!」
「自分で書いた」
「昨日の俺!」
「今のあんたが受け取って!」
「九番目で戻る!」
「予定を間違いにしない!」
ザンバは第一歩号の船尾へ椅子を置く。
「お前、行くのか!」
「巡回先にも請求がある」
「弁償旅行!」
「主にお前のな」
「俺が行かないのに!?」
「名前は先に着いている」
「有名!」
「未払いで」とルゥ。
カナタは第一歩号を見る。
自分の船。
自分が最初に立つ船首。
今、ナギが地図を確認し。
ルゥが操舵輪を握り。
ザンバが船尾にいる。
乗りたい。
すぐにでも。
けれど、嫌ではない。
自分がいなくても、船が道を進めることが。
「帰ってくる?」
カナタが訊く。
ナギが笑う。
「返事がある場所へ」
「いつ?」
「七日予定」
「長い!」
「一年八か月より短い」
「俺の計算!」
「借りた」
「返して!」
「帰ってから」
白旗が、二つの出発を見ている。
アカリの小さな翼。
第一歩号。
別々の行き先。
同じ出発鐘を使わない。
アカリは配達鐘を一つ。
第一歩号は五つの点呼。
それぞれが、自分の一歩を始める。
カナタは帰還広場へ立った。
白旗の隣。
見送る側。
今いる側。
見送る朝、カナタは冷たい根芋へ息を吹き、右膝へ温石を当てたまま発着場へ出た。
ルゥは片眼鏡をかけ、第一歩号の遠い帆を確認するとすぐ工具帯へ戻す。左手首の痛みを隠さず、操舵の最初をセノへ任せた。
ナギは右耳に鈴、左耳に栓。五拍を数えてから、出発の返事と帰る場所の返事を別々に記す。ザンバは壁のない広場でも、椅子を誰かの進路へ背を向けない位置へ置いた。
カナタは船首へ乗らない。
出ていく者の一歩を、自分の冒険の続きへしないためだった。
朝の風が、二つの旗を揺らした。
黄緑の旗。
第一歩号の白い帆。
アカリは滑空翼の留め具を確かめる。
「行き先!」
以前なら、答えを聞く前に自分の道を出した。
今は白旗を地面へ立てたまま、相手の言葉を待つ。
カナタが叫ぶ。
「上枝診療所!」
「方角!」
「上!」
「方角じゃない!」とルゥ。
「天樹では上で合ってる!」
「初めてカナタ側が正しい!」
「俺はいつも正しい!」
「今だけ!」
第一歩号では、ナギが鈴を鳴らす。
「現在地、カゲノハ村」
ちりん。
「行き先、トマリギ島」
ちりん、ちりん。
「船員」
「ルゥ!」
「ザンバ」
「第一歩号!」
船腹が五回鳴る。
「船員じゃない!」とルゥ。
「返事した!」
「船!」
「四人目は?」
ナギが帰還広場を見る。
カナタ。
「今回は、ここ」
自分で答える。
胸が少し痛む。
でも、空白ではない。
帰還当番。
今の村を覚える仕事。
次の行き先を、みんなと決めるまでの時間。
「返事、確認」
ナギが頷く。
アカリが発着台の端へ立つ。
カナタは胸の奥に、父の声を思い出した。
新しい声ではない。
出発の日に聞いた、古い記憶。
――行ってこい。
それを記録として抱えたまま。
今度は、自分の声で次へ渡す。
「アカリ!」
「何!」
「行ってこい!」
少女は一瞬、目を見開く。
それから、黄緑の旗を高く掲げる。
「行ってきます!」
滑空翼が朝風を受ける。
一歩。
アカリは、自分の足で発着台を蹴る。
未踏路はない。
光板も。
少女の一歩。
翼が空へ乗る。
少し右へ傾く。
「右!」とカナタ。
「右に枝!」とルゥ。
「左!」
「左に光索!」
「上!」
「行き先!」
「じゃあ前!」
「毎回それ!」
アカリは笑いながら翼を立て直す。
上枝診療所へ向かう。
次に、第一歩号。
ナギが船首へ立つ。
「出航路、返事あり!」
「操舵輪、異常なし!」
ルゥ。
「船長が触っていないからな」
ザンバ。
「聞こえてるぞ!」
「現在の返事」とナギ。
「カナタ!」
「おう!」
「行ってきます!」
カナタは、少しだけ迷った。
追いかける言葉。
道を出す力。
船首へ飛び乗る一歩。
どれも使わない。
「行ってこい!」
返事が遠ざかるまで、カナタは次の計画を叫ばなかった。
最後の一段を跳ばず、発着場の端へ歩く。白旗の隣には、これから帰る誰かのための一歩ぶんが空いている。
第一歩号が発着場を離れる。
右膝が、追いかける一歩を半分だけ作った。
カナタはその足を地面へ戻す。痛いからではない。乗らないと決めた自分の道を守るためだった。
「次の冒険、決めた?」と帰還広場の子どもが訊く。
「まだ!」
「世界の果てを見たのに?」
「見たから、聞く場所が増えた!」
白旗の横へ、今日帰る予定のない旅人の札を一枚置く。帰還路は休んでいる。カナタの仕事は、道を無理に起こさず、夕方の点検で現在名を読むことだった。
遠ざかる第一歩号へもう一度手を振り、次に広場へ来た知らない旅人へ向き直る。
「どこから来た?」
自分の話より先に、相手の行き先を聞いた。
船首の鍋蓋が一枚、少し下がる。
「触ってないのに!」
カナタが叫ぶ。
「整備したから!」
ルゥの声が返る。
「成長した!」
「機巧が!」
「俺も!」
「帰ってから確認する!」
第一歩号は朝の空へ上がる。
先頭はナギ。
操舵はルゥ。
船尾にザンバ。
カナタは追わない。
帰還広場へ戻る。
白旗の前へ立つ。
遠ざかる二つの道を、村人たちと一緒に見送る。
「帰ってこい!」
カナタが叫ぶ。
空から、二つの返事。
「おかえりって言って!」
アカリ。
「現在の返事を聞いてから!」
ナギ。
「任せろ!」
「全部って言わないの?」とルゥ。
「両手が空いてる!」
「関係ない!」
笑い声が朝の村へ広がる。
白旗は、世界の果てへ向いていない。
帰る者の方角へ、風のたび向きを変える。
道がないなら、最初の一歩になればいい。
けれど、いつまでも自分だけが最初でなくていい。
誰かの一歩へ、二歩目を重ねてもいい。
別々の道を選んでも、返事を交わせばいい。
自分が歩けない続きを、次の人へ渡してもいい。
急ぐ前に、今いる者を数えてもいい。
先客がいたなら、一歩ぶん空けて迎えればいい。
歩き終えた道には、「ここまで」と言っていい。
先頭を渡しても、自分の足跡は消えない。
道が違うと分かったなら、選び直す場所まで戻ればいい。
十歩ぶんの足跡を残したまま、次の一へ渡せばいい。
そして、すべての旗を持って帰ったなら。
出発した日の自分へ戻らなくていい。
変わった足で。
変わった場所へ。
待ちながら変わった人たちの前へ。
最後の一歩を、自分で踏めばいい。
帰る場所は、昔のまま止まっている場所ではない。
帰ってきた者と、待っていた者が、今の互いを選び直す場所だ。
カナタは、最初の白旗を、最後の旗として故郷へ置いた。
中央の空白は、まだ残っている。
けれど、その空白はもう、カナタ一人の次の冒険を待つものではない。
これから出発する誰か。
これから帰ってくる誰か。
まだ会っていない足跡のための場所だ。
最初の一歩を踏んだ少年は、最後の旗の前で、誰かの出発を見送っている。
次の一歩は、もう彼だけのものではなかった。
了