第263話 第十二章「旗を置いた朝」前編
ちょうど、天頂門から一隻の小さな配達舟が下りてくるところだった。
「帰還者!」
アカリが現在札を取る。
ナギが鈴へ耳を当てる。
「現在の呼び声。記録じゃない!」
新しい帰還路が光った。
一歩手前まで。
小舟はそこで止まる。
道は最後を作らない。
舟から、一人の若い薬師が降りた。
足を上げる。
少し迷う。
広場を見る。
「聞こえるか!」
カナタが叫ぶ。
「聞こえる!」
「行き先!」
「薬師渡り!」
「今いる人!」
「マツバ婆!」
「いるよ!」
老婆の返事。
若い薬師が最後の一歩を踏む。
「ただいま!」
「おかえり」
新しい帰還路は、その一歩が終わると消えた。
アカリは成功札をすぐ掲げなかった。
「氏名、体調、今の住所」
薬師本人へ一つずつ聞き、返事を現在図へ書く。ナギは鈴を外し、声だけで聞き取れなかった一語を本人へ聞き直した。ルゥは帰還路の残熱を測り、左手首の痛みをセノへ申告する。ザンバは切る道がないことを確認して、初めて灰旗を下ろした。
「成功だろ!」とカナタ。
「一人目は」とセルク。例外帳を開いたまま答える。
若い薬師はマツバ婆へ抱きつかず、まず荷袋を地面へ置いた。
「帰ったら薬師渡りを継ぐって言った。でも、今の当番と話してから決めたい」
「いい返事だよ」とマツバ婆。
帰還は役目まで昔へ戻す命令ではない。白旗が働かなかった時間に、現在の人同士が次の生活を相談する。その空白まで含めて、最初の運用記録になった。
休む。
誰も背負わない。
白旗だけが、静かに風を受けている。
「できた」
ルゥが座り込む。
「最後の旗、働いてない!」
カナタが言う。
「働かなくていい」
「旗なのに!」
「示してる」
「何を?」
アカリが答えた。
「ここに、帰ってきた人を迎える場所があるって」
カナタは白旗を見る。
自分の到達を示す旗ではない。
誰かが、最後の一歩を自分で踏めるように空けておく旗。
それなら。
世界の果てへ立てるより、ずっと遠くまで届く気がした。
旗を置いた翌朝。
カナタは世界を救わなかった。
落ちる島も。
閉じる世界の果ても。
星を食う鯨もいない。
アカリから渡されたのは、平たい木箱だった。
「何が入ってる!」
「根芋三つ。修理した靴紐。宿の洗濯札」
「命より大事?」
「受取人には」
「任せろ!」
「走らない」
「右膝、申告済み!」
カナタは配達先の線を指で追い、文字を読み飛ばしかけてアカリへ聞く。
「受取人、誰?」
「南荷道のソウ。本人へ最後に確認」
先に荷物を置かず、戸口で返事を待つ配達だった。
「急ぎじゃないのか!」
「三つ鐘まで」
「今は一つ鐘!」
「だから歩く」
アカリは黄緑旗を背負い、配達帳を開いた。
最初の届け先は、旅人宿の食堂。
根芋三つ。
昨夜泊まった紫岸の家族が、朝食へ使う。
「俺の家へ配達!」
「今は宿」
「知ってる!」
言いながら、カナタは昔の近道へ曲がりかけた。
そこには今、荷下ろし台がある。
朝の荷車が二台。
道はふさがっていた。
「現在」
アカリが指す。
「見えてる!」
「足は昔」
カナタは一歩戻る。
正規路を歩く。
旅人宿へ着いても、屋根へ飛び乗らない。
玄関から入る。
「配達!」
「声が大きい」
キヌ婆が根芋を受け取った。
「三つ、確認」
「助かった?」
「朝食が一品増える」
「小さい!」
「朝はそれでいい」
二件目。
修理した靴紐。
宛先は南荷道二段目の子ども。
カナタは旧住所の札を先に読んだ。
「薬師橋の横!」
「古い住所」とアカリ。
「今は?」
「本人へ聞く」
アカリが返事の鐘を五回。
南荷道から、細い木片が五回返る。
「ここ!」
黄緑旗が現在の方角へ傾く。
カナタは古い札を捨てない。
裏へ書く。
――旧住所、薬師橋横。
――現在、南荷道二段目。
「九番目!」
「今日は番号じゃなく配達」
「覚えてるってこと!」
子どもは片方の靴を履いたまま待っていた。
「世界の果ての英雄が靴紐を!?」
「世界の果てより難しいぞ!」
結び目を二度間違えた。
アカリが三度目を見せる。
カナタは自分で結び直す。
「走っていい?」と子ども。
「切れたら返事!」
「普通は戻る」とアカリ。
三件目。
洗濯札。
受取人は、カナタの旧部屋を使っている旅人だった。
客室一の戸口で、カナタの足が止まる。
中には知らない荷物。
窓辺には、父が削った古い傷。
「入る?」
アカリが訊く。
「配達先は」
「今いる客」
カナタは戸を叩いた。
「洗濯札!」
旅人が開ける。
「ありがとう」
それだけ。
部屋を返せとも。
傷を見せろとも言わなかった。
札を渡し、戸を閉める。
「終わり?」
「箱を返す」
「救助は!」
「なし」
「壊れた橋!」
「なし」
「迷子!」
「いない」
「本当にこれだけ?」
「これだけを届ける日もある」
帰還広場へ戻るころ、三つ鐘が鳴った。
白旗は静かだった。
誰も帰ってこない朝。
新しい帰還路も休んでいる。
カナタは空の木箱をアカリへ返した。
「配達、完了!」
「屋根は?」
「壊してない!」
「橋」
「壊してない!」
「洗濯物」
「さらってない!」
「成長」
「世界を救うより難しかった!」
「今日は、世界が普通だっただけ」
カナタは白旗の横へ座った。
普通の朝を退屈だとは思わなかった。
一か月後。
原郷獣の鱗を収めるまでに、保管案は六度書き直された。
一度目は、古い家ごとに分類して同じ形が集まりかけた。二度目は、帰還者の旧名で並べ、鱗がその呼称へ温かくなった。三度目は、英雄像の欠片と同じ棚へ置き、カナタの父の声が夜中に一度だけ継がれた。
どれも破棄せず、失敗札を残す。
最後は、現在の宿泊者と閲覧者の名で一枚ずつ貸し出し、見終えたら別々の箱へ戻す形になった。昔の家の所有権を証明する道具にも、現在の部屋を取り戻す鍵にも使わない。
「懐かしい、って言ったら駄目?」と宿の子。
「言っていい」とキヌ婆。「そのあと、今どこにいるかも言うんだよ」
過去を好きなことまで禁じれば、誰も隠れたところで鱗へ返事をする。現在を隣へ置ける運用のほうが、獣を眠らせた。
旅人宿の食堂壁には、モトノママの鱗を一枚ずつ収める小窓ができていた。
キヌ婆が鍵束を二度鳴らし、閲覧札の現在名を読む。触れる者も、自分の今の名と宿の場所を返してから鱗へ手を置く。
ツヅラには根割れ前の家。ソウには、同じ家でも兄姉が出発したあと自分一人で直した台所。景色は食い違い、どちらも記録として残る。
鱗は戸口にならない。足を運ばない。問いへ新しい声を返さない。
「昔の家、こっちの味じゃなかったな」
ソウは懐かしい煮物を、昔より少し苦く作った。
「変えたのか」とツヅラ。
「今の俺が好きな味」
ツヅラは古い鍵を食卓の端へ置き、今日の匙で食べた。昔を持ったまま、今の家族の味へ入る小さな帰還だった。
カゲノハ村では、毎日朝が来た。
朝窓が開く。
上枝から集めた光が、家々の屋根へ落ちる。
苔灯りも消えない。
昔の暗い村を消すのではなく、夜の灯として残る。
六つ鐘が鳴る。
その前に、小さな現在鐘が一つ。
――今日の村を始める。
帰還広場の白旗は、朝ごと違う方向を向いた。
風のせい。
帰ってくる人のせい。
子どもたちは後者だと信じた。
「標術だ!」
「風だ」とルゥ。
「夢がない!」
「旗は風で動くの!」
英雄像は、もうなかった。
石の腕は二つのベンチ。
足は帰還門の補強材。
胸は現在図を置く台。
鼻は減速杭。
説明板には、こう書かれている。
――カナタが帰還時に破損。
――本人の希望により、現在の村で使用中。
「破損を先に書くな!」
「事実」とアカリ。
旅人宿では、カナタの旧部屋を使う客が毎日変わる。
カナタは最初、戸口の前で足を止めた。
今は、宿の荷物を運ぶ。
「ここ、俺の家だった!」
「知ってる」と宿の子。
「天井の傷、俺!」
「昨日も聞いた」
「聞く人が変わる!」
「話す人は同じ」
機巧小屋では、机が二つ並ぶ。
古い机。
フィオとセノ。
新しい机。
ルゥ。
間に、少しだけ空き。
道具を渡すための場所。
「その鋲、返して!」
「昨日、次稿に書いた!」
「借りる期限は書いた?」
「未定!」
「それは未完成じゃなく返却拒否!」
ナギは響路台を、トマリギ島とカゲノハ村の両方へ持っていた。
青い札。
黄緑の札。
第一歩号の移動札。
どれか一つを本当の帰る場所と決めない。
返事のある場所を、返事のあるまま残す。
ザンバは屋根を直していた。
請求書は、一枚減った。
新しく二枚増えた。
「増えてる!」
「お前が昨日、足場を壊した」とオウギ。
「船長が下から呼んだ」
「俺のせい!?」
「主に」とザンバ。
「そこだけ息が合うな!」