第262話 第十一章「ただいま」後編
歓迎は一つの大声ではなく、これから続く関係の条件だった。
カナタは全部へ同じ返事をしなかった。
「受け取った」
「あとで聞く」
「そこは相談!」
違う声へ違う言葉を返しながら、ただいまの中へ入っていった。
「おかえり!」
アカリ。
「遅かったねえ」
マツバ婆。
「帰還確認!」
セルク。
「像の弁償は残ってるぞ!」
オウギ。
「机、一個空いてる!」
セノ。
「半分だけ!」
フィオ。
「屋根も!」
ハルガ。
「おかえり、船長!」
子どもたち。
旅人宿の客も。
「今日から知る!」
第一歩号が五回鳴る。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「船も、おかえりって」
ナギが言う。
「違う。今ここ、だろ!」
「今は両方」
ルゥが笑う。
カナタも笑おうとした。
顔がうまく動かない。
目から水が落ちる。
「雨!」
「泣いてるの!」
「帰還広場に雨が!」
「顔から!」
「父ちゃんの帰還路が――」
「もう記録!」
「じゃあ俺か!」
「最初から!」
ルゥが抱きつく。
工具帯が脇腹へ当たる。
「痛い!」
「帰った人は黙って受け取って!」
ナギも横から腕を回す。
「今、ここ」
「重い!」
「船長が言う?」
アカリは少し離れて見ている。
カナタが手を伸ばす。
「先頭も!」
「私は迎え手」
「同じだ!」
「違う」
それでも、手を掴む。
ザンバだけは一歩外にいる。
カナタが鼻をすすった。
「お前も帰った」
「俺は、ここから出た者ではない」
「父ちゃんと行った!」
「村人ではなかった」
オウギが屋根板を指す。
「そこ、まだ持ってるか」
「ああ」
「なら戻せ」
ザンバが屋根へ板を置く。
オウギは釘を一本渡した。
「帰ってきた者の仕事だ」
「おかえりとは言わん、と言ったな」
「言わん」
「今もか」
「請求を払い終えたら考える」
「長いな」
「十年ぶんだ」
ザンバは釘を打つ。
一度。
二度。
三度。
灰旗の黒い点から、細い道が一本、帰還広場へ伸びた。
帰る道とは言わない。
今いる道。
それで十分だった。
ルゥは機巧小屋へ戻る。
古い机。
フィオとセノの道具。
隣に作った新しい机。
ルゥは工具箱を置く。
「ただいま」
セノが顔を上げる。
「机に?」
「ここに」
「おかえり」
フィオが言った。
「でも、この鋲、借りた」
「返して!」
「帰ってきたのに?」
「帰ったから使うの!」
機巧小屋に金属音が戻る。
ナギは響路台へ座る。
まず、青い鈴。
トマリギ島。
「ナギ。現在地、カゲノハ村」
少し待つ。
ちりん、ちりん。
『聞こえてる』
母イオラの今の返事。
「ただいま」
遠い島へ。
ちりん。
三度。
一度。
ナギの名前を呼ぶ音。
次に、黄緑の鈴。
カゲノハ村。
「響路士、現在地」
「ここ!」
アカリが返す。
「ただいま、って言っていい?」
少しだけ、声が震える。
アカリはすぐ答えない。
現在図を見る。
トマリギ島の名。
第一歩号。
カゲノハ村。
別々の場所。
「ここを帰る場所に選ぶ?」
「選ぶ」
「トマリギ島を消さずに?」
「消さない」
「じゃあ」
黄緑の旗を響路台へ立てる。
「おかえり、響路士」
「ただいま」
二つの帰る場所。
一つへ重ならない。
どちらも、現在の返事がある。
帰還広場では、カナタがまだ泣いていた。
「長い!」とアカリ。
「二年近くぶん!」
「一日一滴?」
「数えるな!」
「アマネに送る?」
「余りにするな!」
笑い声の中で、朝の鐘が鳴る。
一つ。
二つ。
三つ。
六つまで。
出発した日と同じ数。
でも、同じ朝ではない。
今の村が、今の一日を始める音だった。
白旗を立てる穴は、十三人で掘った。
カナタが最初の一鍬を取ろうとして止まり、持ち手をトウヤへ渡す。二鍬目はフィオ。三鍬目はセノ。深さを測るのはアカリ。支柱の負荷はルゥ。音の空洞はナギ。切ってよい根はザンバが一人で決めず、セルクの例外帳へ照合する。
「俺の旗なのに!」
「立つ場所はみんなの広場」とアカリ。
カナタは最後の土だけを踏み固めた。最初を譲っても、旗へ自分の名が消えるわけではない。
白旗を立てる場所は、帰還広場の中央ではなかった。
「ここ!」
カナタが指したのは、英雄像の台座だった。
鼻と胸を失い。
第一歩号の形にへこんだ石台。
「像を直すんじゃなかった?」
アカリが訊く。
「直した!」
「鼻、ない」
「俺の顔じゃなくした!」
台座の上には、像の代わりに長い石板が置かれていた。
カゲノハ村を出てから、十本目の旗を得るまで。
旅先の名。
壊した物。
弁償済み。
未払い。
助けた人の名ではなく、関わった人の名。
カナタだけを大きくしない記録板。
石像の腕は、帰還広場のベンチになった。
鼻は、帰還門の減速杭。
「俺の鼻が船を止める!」
「像の鼻」とルゥ。
「同じだ!」
「違う!」
台座の横。
最後の一歩を空けたまま。
帰ってくる人の邪魔をしない位置。
そこへ、白旗の穴を掘る。
「深さ、三十指」
ルゥが言う。
「百!」
「抜けなくなる!」
「最後の旗だぞ!」
「倒れたら立て直せる深さ!」
「倒れる前提!」
「風が吹く前提!」
カナタは土を掘る。
ザンバが横から一度だけ石を砕く。
「《終点》?」
「ただの力だ」
「標術じゃない?」
「何でも旗でやるな」
アカリが小さな薬箱を持ってくる。
二年近く前、熱冷ましが入っていた箱。
今は配達札と小さな工具が入っている。
「これ、まだ使ってる!」
「直した」
「俺が届けた!」
「私が使った」
箱から、古い紙の旗を一枚出す。
病床を抜けたアカリが、村人たちへ呼びかけた最初の紙旗。
端は破れ。
字は幼い。
――カナタが来る。
――私たちも、行きたい場所を示す。
「これも立てる?」
「立てない」
「なんで!」
「記録棚へ戻す」
「一緒のほうが格好いい!」
「私の旗は、私が持つ」
黄緑の旗を掲げる。
「白旗の中に入らない」
「三番目!」
「覚えてる」
カナタは頷く。
白旗を見る。
最初は、何も描かれていなかった。
道なし。
不吉。
その空白へ、最初の一歩を作った。
村人たちの道が手を取り合う紋が生まれた。
旅の途中で、十本の旗を得た。
けれど、白旗へ十個の紋を詰め込まなかった。
中央は空白のまま。
「最後って書く?」
子どもが訊く。
「書けない!」
「そこ?」とルゥ。
「書かない!」
「今、直した」
「最初から言うつもりだった!」
白旗の布を広げる。
風が、どこから来るか迷う。
世界の果て。
トマリギ島。
三番港。
ミナモ。
遠い十の結節。
そして、今のカゲノハ村。
旗は一つの方角へ固定されない。
帰還広場へ人が来るたび、その人のいる方角へ少し向く。
「標術?」
カナタが目を輝かせる。
ルゥが旗竿を調べる。
「風」
「特別な?」
「普通の」
「もっとすごい!」
「普通でいいの!」
村長が杖をつく。
「カナタ」
「おう!」
「この旗を立てれば、お前の旅は終わるのか」
広場が静かになる。
千声湖。
伏流森。
まだ見ていない場所。
世界には先がある。
「世界は終わらない」
「お前は?」
「俺も、たぶんまた行く。でも今は、帰ってくる人を受け取る側をやる」
「冒険をやめるのではないのだな」
「先頭を渡すだけだ!」
「なら、最後ではない」
「違う」
カナタは旗竿を握る。
「俺が最初じゃないと嫌だった旅は、これで終わる」
八番雲。
メグの先頭。
アカリの案内。
今度の帰還路。
「次に行くときは、誰かの二歩目かもしれない」
「それでも行く?」
「行く!」
「先頭じゃないのに?」
「面白そうなら!」
ルゥが笑う。
「少しは成長した」
「すごく!」
「少し」
カナタは穴へ旗竿を下ろす。
途中で止めた。
「みんな、持て!」
「何を?」
「旗!」
「立てるのはカナタでしょ」とアカリ。
「最後の旗を、一人で立てたら違う!」
ルゥが旗竿へ手を添える。
ナギ。
ザンバ。
アカリ。
村長。
マツバ婆。
村人たち。
全員が触れる必要はない。
触れない者は、位置を見る。
「少し右!」
「俺の右?」
「旗の!」
「全員、別の右!」
「現在図で北へ二指!」
「最初からそれを言え!」
旗竿が穴へ入る。
一指。
二指。
最後に、カナタが土を踏む。
白旗が立った。
光は出ない。
新しい紋も。
十一番目の標術もない。
ただ、最初の旗が。
世界の果てではなく。
出発した故郷へ。
最後の旗として立っている。
「名前!」
子どもが叫ぶ。
「《最終帰還超――》」
「白旗」とアカリ。
「短い!」
「最初から白旗」
「最後の旗!」
「それは物語の名前」
「誰の?」
アカリが訊く。
カナタは少し考える。
「俺の」
白旗の中央には、空白。
カナタ一人の次の目的地を書かない。
これから出発する誰か。
帰ってくる誰か。
まだ会っていない足跡。
そこを空けたままにする。
風が吹く。
旗は、帰還広場の外側へ向いた。