第261話 第十一章「ただいま」前編
表と裏から一つずつ。
双灯港アケヨイ。
歩雲群。
星脈市。
逆雨原。
十の結節が、違う声で返る。
「村の重さを、遠くへ押しつけない!」
ナギが先に言った。
「返事だけ借りる!」
遠い場所は支柱にならない。
カゲノハ村を背負わない。
ただ、道の向こうに現在があると知らせる。
帰る場所は孤立した箱ではない。
別の場所と返事を交わしながら、今ここにある。
「返事、十!」
ナギが数える。
「村の現在、十三!」
アカリ。
「支え、まだ足りない!」
ルゥが叫ぶ。
白旗はカナタの手にある。
最後の重さ。
一人ぶん。
どうしても、残る。
「俺が持つ!」
「また!」
「一人ぶんだけだ!」
「その一人が、ずっと一人になる!」
ルゥは歯を食いしばる。
銀糸は十三杭へ伸びきっている。
誰にも余裕がない。
アカリが現在図を見る。
「一人ぶんじゃない」
「何が?」
「一回ぶん」
八番目の小旗を抜く。
八つの足跡。
「《輪番》」
薄青い光が、白旗へ触れる。
カナタが持っていた重さが、半歩ぶんアカリへ移る。
「重っ!」
「無理するな!」
「一呼吸!」
次にルゥ。
「今、両手!」
銀糸を口で咥える。
「一呼吸だけ!」
白旗の重さが渡る。
次、ナギ。
「返事、途切れる!」
「五つ鳴らして!」
第一歩号が五回鳴る。
ナギが一呼吸、受け取る。
ザンバ。
「俺は監視役だ」
「今は持ち役!」
「勝手に作るな」
灰旗を片手へ持ち替え、白旗の重さを受ける。
その次。
オウギ。
マツバ婆。
フィオ。
セノ。
ハルガ。
村長。
旅人宿の客。
帰還広場の子ども。
持てる者が、一呼吸ずつ。
持てない者は、次の名を呼ぶ。
「次!」
「ここ!」
「受け取った!」
「返す!」
重さは消えない。
けれど、同じ腕を折り続けない。
「これが新しい支え?」
カナタが訊く。
「支えじゃない」とルゥ。
「当番!」
「帰還路の当番?」
「道を持つ当番」
「毎日?」
「毎日じゃない。帰る人がいるとき」
「いないときは?」
「休む!」
五番目。
止まること。
今いる者を数えること。
「道が休む!」
新しい帰還路の当番表は、その日のうちには完成しなかった。
最初の案では、力の強い者へ順番が偏った。二案目では、返事できない病人が当番から消えた。三案目では、旅人宿の客を毎回「外の者」として外してしまった。
アカリは三枚とも捨てず、失敗理由を赤糸で囲う。
「持てない日は、次の名を呼ぶ役も当番」とナギ。
「手を使えない人は、時刻を確認できる」とルゥ。
「反対する者を一人、必ず入れろ」とザンバ。
セルクは例外帳から規則へ書き移す前に、試用期間を三十日とした。帰還者が一人も来ない日は、わざと道を休ませる。週に一度、空の帰還門へ現在名だけを返し、昔の名が道を引いていないか確かめる。
道をみんなで持つとは、全員が同じ重さを持つことではない。持てる形も、休む日も、断る権利も別々に記録することだった。
カナタが目を輝かせる。
「当たり前!」
「今までずっと働いてた!」
「アステルがね」
白旗の重さが、少しだけ軽くなる。
帰還路は、帰る人がいないときまで誰かを引かない。
過去を再生しない。
呼び声を勝手に作らない。
到着の知らせが来たとき。
現在地を確認する。
迎え手が返事をする。
一歩手前まで道を出す。
最後は、帰る人が踏む。
それだけ。
「名前」
ルゥが新しい設計板へ書く。
――帰還路。
一度、消す。
「同じ?」とカナタ。
「同じ名前でいい」
「父ちゃんのと混ざる!」
アカリが横へ書く。
――旧帰還路、アステル記録。
その下。
――現帰還路、輪番式。
「今の道」
「格好よくない!」
「分かりやすい」
「《万界超帰還大道》!」
「却下」と全員。
十三本の現在杭が、一斉に光る。
沈んでいた大枝が止まった。
一呼吸。
二呼吸。
少しだけ、元へ戻る。
元の高さではない。
今の家々が水平になる位置。
旅人宿の新しい柱。
薬師渡り。
機巧小屋。
現在の重さへ合わせた位置。
モトノママの最後の欠片が、空で崩れた。
崩れた光の中から、薄い鱗が何枚も剥がれ落ちた。
鱗ごとに匂いが違う。古い家。壊す前の橋。父の上着。使われなかった机。触れた者の記憶へ合わせて一度だけ景色を返し、それ以上は足を引かない。
ナギが問いを変えても、新しい返事はない。ルゥが銀鋲を当てても、現在の道へ勝手につながらない。
「死骸じゃない」とザンバ。「昔の名へ誰かが返事を重ねれば、また形を集める」
アカリは回収札へ書いた。
――原郷獣の鱗。記録閲覧用。現在名を確認してから触れる。戸口・進路として使用禁止。複数枚を同じ家形へ並べない。
倒して終わりではなく、再び巨大化させない運用が始まった。
最初の保管試験では、鱗を三枚、同じ向きへ並べた途端、旅人宿の壁へ古い屋根の輪郭が浮いた。
「離して!」
ルゥが一枚を裏返し、ナギが現在名を五つ、アカリが今日の住所を読み上げる。輪郭は戸口になる前にほどけた。
セルクは例外帳へ追記する。
――鱗は一枚ごと別の箱。
――閲覧者の昔の呼称を先に読まない。
――現在の受取人が不在なら開かない。
――匂い・声・戸口が一致し始めた場合、閲覧中止。
ザンバは保管箱の刃を外した。危険になった時、切って消すのではなく、まず距離と返事を分けるためだ。
モトノママの生態は、勝利の記念ではなく、帰還路の保守項目として残った。
昔の村の像は、記録棚へ細い光となって収まる。
白旗から、重さが抜けた。
カナタの手に残ったのは、最初から持っていた一本の旗だけ。
無数の道が手を取り合う紋。
中央の空白。
何も増えていない。
「十一番目は?」
広場の子どもが訊いた。
「ない」
カナタは答えた。
「今の、すごい標術だった!」
「十本と、みんなの仕事」
「じゃあ、十一番旗!」
「違う」
白旗を見上げる。
「これは、最初の旗だ」
「最後じゃないの?」
「まだ立ててない」
カナタは帰還広場の中央を見る。
空いた一歩。
今度は穴ではない。
次に帰ってくる人が踏む場所。
そこへ旗を立てれば、また埋めてしまう。
「どこへ置く?」
アカリが訊いた。
「その前に」
カナタは村人たちを見る。
喉に残っていた言葉。
今度は、誰かの声に邪魔されない。
父の記録も。
獣の声も。
ただ、今いる人の前で言う。
言葉を出す前、カナタは階段の最後の一段を跳んだ。
右膝に痛みが走る。今度は「助走」とごまかさず、着地してから一呼吸待つ。
「到着」
平静時より小さな声だった。
アカリの《宛標》は答えを代わりに言わない。ナギの鈴も、父の記録も鳴らない。ルゥは工具を投げず、ザンバは椅子を動かさない。
カナタが自分の声で、今いる者へ言う余白を残した。
カナタは、白旗を肩へ担いだ。
帰還広場の中央へ立たない。
一歩手前。
アカリが、現在札を持つ。
「氏名」
「カナタ!」
「最初の朝は?」
「十四!」
「今は?」
「十六!」
「二年近くぶん増えた」
「知ってる!」
「現在地」
「カゲノハ村、帰還広場!」
「帰還先」
カナタは村を見る。
旅人宿。
新しい橋。
毎日来る朝。
父のいない道。
自分の家ではなくなった家。
ルゥの机を使う見習いたち。
ナギを名前で呼ぶ人。
ザンバへ請求書を渡す人。
アカリが作った現在図。
「今のカゲノハ村」
「先頭」
「アカリ」
「二歩目」
「俺」
「持って帰ったもの」
「十本の旗」
「ほか」
「船の傷」
「弁償」
「仲間」
「ほか」
カナタは少し考えた。
「帰れなかった道」
ザンバが片目を上げる。
「終わった道」
ヨイ。
「間違えた道」
シノ。
「別々の道」
ミオ。
「返事」
ナギ。
「今いる人」
リラ。
「空いてる一歩」
ユラ。
「次へ渡す途中」
キリ。
「先頭を渡した足跡」
メグ。
「数えきれなかった一」
アマネ。
遠い仲間の名が、連標網の鈴で一つずつ鳴る。
その場にはいない。
だから、返事を勝手に作らない。
届いた現在の音だけ。
「最後」
アカリが現在札の空欄を指す。
「帰ってきた人の言葉」
カナタは息を吸う。
父へ言うつもりだった。
昔の家へ言うつもりだった。
出発した日の村へ言うつもりだった。
今は違う。
今いる人へ。
待ちながら変わった場所へ。
変わって帰った自分から。
「ただいま」
声は、思ったより小さかった。
誰か一人が答える前に。
村中から返った。
返事はそろわなかった。
声の早い者。遅れて泣く者。仕事の確認を先にする者。まだカナタを知らず、隣の人へ名前を聞いてから「おかえり」と言う旅人。
キヌ婆は鍵束を二度鳴らし、「今夜は客室一」と返した。セルクは帰還時刻。マツバ婆は温石。セノは机の右半分を譲らない条件。フィオは明日の風路案内。トウヤは次の競争では自分が先頭だという宣言。