第260話 第十章「受取人のいる一歩」後編

旗の宛先札が光った。

――カゲノハ村、帰還広場。

――到着日、今日。

――迎え手、現在地にいる者。

『曖昧だ』

「現在は、毎日変わる」

『弱い』

「だから、毎日確かめる」

ナギが十個の鈴を掲げた。

「連標網。現在の返事を確認!」

黒い鈴。

ちりん。

アカリの黄緑鈴。

ちりん。

機巧小屋。

薬師渡り。

旅人宿。

帰還門。

村の十か所から、生きた返事が返る。

「聞こえてる!」

「現在地、広場!」

「薬師渡り、異常なし!」

「旅人宿、屋根一枚だけ異常あり!」

「それはザンバが持ってる!」

「今、持った」

ザンバが片手で屋根板を上げる。

第一歩号も、船腹を五回鳴らした。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

「船まで返事した!」

「今ここ、だって」

ナギが笑う。

モトノママの巨大な頭が、現在の広場を覗き込む。

『昔の村より多い』

「増えた」

『知らぬ者がいる』

「今いる」

『帰る者を知らぬ者も』

旅人宿の客が手を上げた。

「昨日、着いたばかりだ」

「カナタのこと、像でしか知らない」と別の女。

「像、鼻がなかった」と子ども。

「船長本人が壊した!」

「でも、今いる」

アカリが現在図を広げる。

「帰る場所は、知ってる人だけで作るんじゃない」

現在図には、カナタの知らない線もある。

けれど、空白ではない。

今の誰かが歩いている道。

白旗が、カナタの手から広場へ引かれる。

重い。

村を支える重さ。

帰りたい者の願い。

昔の形。

父の役目。

全部が、旗を地面へ突き立てろと言っている。

中央へ。

一人の柱として。

「カナタ!」

ルゥの声。

「立てないで!」

「でも、重い!」

「持つんじゃなく、渡して!」

「誰に!」

「今いる人!」

銀鋲が飛ぶ。

一本目は白旗へ。

二本目はアカリの黄緑旗へ。

三本目は帰還広場の現在杭へ。

銀糸は三つを重ねない。

離れたまま、力だけを渡す。

ルゥの両足が道へ沈む。

「重っ……!」

「全部渡すな!」

「一人に渡してない!」

銀糸が枝分かれする。

ナギの鈴。

ザンバの灰旗。

アカリの宛標。

村人たちの旗。

一本ずつ。

一歩ぶんだけ。

「受け取れる人!」

ルゥが叫ぶ。

「手を上げて!」

鍛冶師が旗を上げる。

「一歩!」

薬師。

「一歩!」

宿守。

「一歩!」

配達人。

「一歩!」

見習いたち。

「半歩でもいい!?」

「いい!」

子どもの小旗から、細い糸。

半歩。

旅人宿の客。

「帰る側じゃなくても?」

「今、迎える側なら!」

一歩。

重さが分かれる。

白旗は軽くならない。

けれど、カナタ一人の腕だけを折ろうとはしなくなる。

「最後の一歩!」

アカリが呼ぶ。

「道を出すな!」

「なんで!」

「帰る人の足!」

「落ちるかもしれない!」

「一歩ぶんだよ!」

「一歩が一番大事なんだ!」

「だから、自分で踏んで!」

カナタは足元を見る。

未踏路の端。

その先に、何もない。

一歩ぶんの空白。

向こうには、今日の村。

記憶の苔玉ではない。

旅人宿。

新しい薬師渡り。

十三枚目の地図。

鼻のない英雄像。

白い朝。

「行き先!」

アカリが訊く。

カナタはすぐ答えず、右膝を一度曲げた。白旗の中央ではなく端を持つ。

「アカリの旗が示す、今の広場。俺が踏んでいいところまで」

「最後は、自分で」

「受け取った」

「カゲノハ村!」

「いつの!」

「今日の!」

「先頭!」

「アカリ!」

「二歩目!」

「俺!」

「返事!」

カナタは村を見る。

「聞こえてるか!」

「聞こえてる!」

アカリ。

「聞こえてるよ!」

マツバ婆。

「聞こえてる!」

子どもたち。

「うるさいほどな!」

オウギ。

「現在、確認!」

ナギ。

「早く来なさい!」

ルゥ。

「自分で踏め」

ザンバ。

アカリの黄緑の線が、カナタの足元から帰還広場の縁まで伸びた。

 ツヅラの試験では、一歩手前で細くなり、途切れた線。

 今度は、切れない。

現在図にはカナタの名がある。

 カナタ自身が「今日の村」と答えた。

 広場からは、今いる者の返事が生きた呼吸で返り続けている。

それでも黄緑の線は、最後の一歩を光で埋めなかった。

 《宛標》は昔の記憶を消して道を作る力ではない。

 帰還者が自分で選んだ現在の宛先を、一歩の手前まで示し続ける力だった。

アステルの声はない。

今の返事だけ。

カナタは白旗を肩へ担ぐ。

光板を出さない。

走る。

未踏路の最後を蹴る。

一歩ぶんの空白へ、体を投げる。

空に、道はない。

だから、自分の足を前へ出す。

右足。

帰還広場の石畳へ着く。

左足。

今の村へ続く。

「着いた!」

声が裏返った。

アカリがカナタの胸を押す。

「まだ」

「足は着いた!」

「言葉」

ただいま。

喉まで来る。

けれど、モトノママが空で身をよじった。

昔の家々が最後の悲鳴を上げる。

『現在だけでは、枝を支えられない』

帰還路の古い光糸が、一斉に消えた。

天樹の大枝が沈む。

家々が傾く。

帰還門の柱が折れる。

「村が落ちる!」

カナタは白旗を地面へ突こうとする。

ルゥが両手で止めた。

「立てたら、また一人になる!」

「今支えないと!」

「支える! でも、そこじゃない!」

現在杭が十三本、広場の周囲で光る。

十三枚目の地図。

新しい村が作った、十三か所の現在地。

一つ。

機巧小屋。

二つ。

旅人宿。

三つ。

薬師渡り。

帰還広場。

朝窓。

発着場。

村人が今使う場所。

「帰還路を作り直す!」

ルゥが叫ぶ。

「今度は、誰か一人を柱にしない!」

カナタは白旗を抜いたまま、沈む広場を見た。

最後の一歩は踏んだ。

だが、帰った場所を今のまま残す仕事が、まだ終わっていなかった。

十三か所の崩落へ、十三通りの身体が向かった。

フィオは古傷の肩を上げきれず、翼風を二人へ分ける。トウヤは右肩の痛みを申告し、先頭ではなく荷重の二番へ入る。セノは耳鳴りが始まり、帽子を深くして視覚札へ切り替えた。

マツバ婆は温石を運ぶが、アカリの旗を取り上げない。セルクは規則帳と例外帳を同時に開き、今だけの停止条件へ自分の名を書く。ハルガは右膝をかばいながら、「今日は三十歩目まで見える」と遠景の限界を申告した。

一人の強さではなく、弱くなる場所まで共有したから、道は十三か所へ分かれても切れなかった。

カゲノハ村は、十三か所から落ち始めた。

一か所ではない。

だから、一人の力では止められない。

「一番杭、機巧小屋!」

ルゥが走る。

「フィオ、左の重路!」

「今、朝窓を押さえてる!」

「セノ!」

「机ごと行く!」

「机は置いて!」

「工具が全部乗ってる!」

「じゃあ机ごと!」

フィオとセノが、ルゥの新しい机を担いだ。

三人分の作業台。

銀鋲。

現標板。

十二年前の設計図ではない。

昨日、書き直した現在図。

「二番杭、旅人宿!」

宿守が屋根の旗を掲げる。

旅人たちも窓から縄を下ろす。

「泊まって一日目でも、持っていいのか!」

「今日の宿にいるなら!」

ザンバが灰旗を振る。

《岐点》!」

落下の重さへ、黒い点。

一本を三つへ分ける。

村を支える道。

帰還者を導く道。

過去の記録へ戻る道。

「重ねるな!」

「分かっている!」

「言いたかった!」

「今、言うな!」

灰旗の十本の線が、それぞれ別の杭へ入る。

同じ長さにはしない。

機巧小屋は重い。

薬師渡りは揺れる。

旅人宿は人が多い。

必要な支えを、必要な場所へ。

「三番杭、薬師渡り!」

マツバ婆が杖を打つ。

「年寄りへ一番揺れる場所を回すんじゃないよ!」

「婆ちゃん、下がって!」

「ここは私の道だよ!」

若い薬師が隣へ立つ。

「半分ください!」

「返すんだよ」

「次の一歩で!」

二人の旗が別々に光る。

同じ薬師の紋でも、形が違う。

古い雫。

新しい薬草。

ルゥの銀糸が、二つを一枚へ潰さずつなぐ。

「四番杭、発着場!」

アカリが走る。

黄緑の旗を、現在札へ突き立てる。

「宛先!」

札が震える。

古い発着場。

新しい発着場。

旅人宿の屋根。

帰還路が、記憶の場所をいくつも候補に出す。

「今日の発着場!」

アカリは十三枚目の地図を開く。

「図面じゃ足りない!」とルゥ。

「分かってる!」

アカリは広場へ向かって叫ぶ。

「今、発着場にいる人!」

「いる!」

荷運びの男。

「朝窓側の索、切れかけ!」

別の返事。

「第一歩号、半分浮いてる!」

「船はいつも半分浮く!」とカナタ。

「今日は半分落ちてる!」

「悪い!」

生きた返事を、宛先へ書き足す。

――発着場、現在使用中。

――支柱二本、破損。

――第一歩号、一隻。

昔の地図ではなく、今の状態。

宛標が、今日の場所へ定まる。

「ナギ!」

「聞いてる!」

十個の鈴が空へ上がる。

連標網。

遠い返事。

トマリギ島。

『現在地、次標桟橋!』

三番港。

『現在地、再会塔!』

ミナモ。

『現在地、次稿工房!』

無灯泊。

五つの音。

迎え岸。