第28話 第二章「第一条、遅刻者は失格」後編
航路科受付へ行く道は、三本あった。
空を直線で渡る上段。
外壁の斜面を巻く中段。
設備配管の間を通る下段。
掲示には古い学院文字で、こう書かれていた。
『飛翔資格甲種、上段使用可。乙種、中段誘導灯へ従う。装具運用者は荷重申告後、指定路を選択。無登録者は係員の指示を待て』
ハルは見上げた。
「つまり?」
エリアが口を開く。
「上の道は――」
「待って」
「質問したでしょう」
「答えじゃなく、読む順番を教えて」
エリアの言葉が止まった。
彼女は教える時、相手が迷わない最短路を描く。最短路は親切だ。しかし、毎回そこを運ばれた人間は、自分で迷う力まで持てない。
「……自分に関係する語を先に探して」
「無登録者」
「次に動詞」
「待て」
「では、あなたへの指示は待機」
「待つの嫌い」
「好き嫌いは読解を変えない」
「待ってたら遅刻する」
「それが、掲示の条件よ」
係員は上空の金翼受験生を処理しており、下を見ない。
ハルは手を振った。返事がない。
マオは杖の先で掲示板を叩いた。
「『待て』じゃなく、『呼鈴を三回』って書け」
「勝手に書き換えるな」とティア。
「待つ終わりが書いてない」
「係員が対応するまでです」
「いつ?」
「手が空き次第」
「空の手は見えない」
マオは白墨を取り出し、古い文の下へ大きく書いた。
『飛べない人は、鐘を三回』
「施設掲示への無許可加筆」とティア。
「消す?」
「試験終了後に」
「今は?」
「……機能している」
ハルが呼鈴を三回鳴らす。
係員がようやく下を向いた。
「無登録者は下段路です。荷重制限四十」
「四十何?」
「標準荷重」
「俺、五十五キロ」
「携行品を下ろせば」
「身体を十五キロ置いていけない」
係員は困った顔で台帳をめくる。
「無登録者の成人想定がありません」
「俺、十五」
「王国成人は初誓後です」
「誓紋がないと子供?」
「制度上は保護対象です」
「子供扱いで荷重制限を軽くされて、重いから通れない?」
「私は規定を読み上げているだけで」
「読んだ人まで規定に隠れるなよ」
ティアが間へ入る。
「中段路の一時使用を認めます。ただし飛行者の進路を妨げないこと」
「特例?」
「未規定条件の暫定処理」
「言い換えると別物?」
「理由を記録すれば別です」
ハルとマオは中段へ入った。
道幅は二人分。左は壁、右は雲海。銀翼受験生が後ろから滑空してくるたび、二人は壁際へ寄らなければならない。
「飛ぶ方が止まればいいだろ」とハル。
「止まると失速する」とマオ。
「じゃあ道を分ける」
「分ける場所がない」
「作れば」
「入学前から建築計画か」
「学校も小さい国らしい」
「誰が言った」
「請求書の友達」
航路科の課題は、三枚の簡易地図から避難路を選ぶことだった。
一枚目は最短だが、途中に風裂け。
二枚目は長いが安全。
三枚目は中間で、最後に一人しか通れない梯子。
「負傷者三名、歩行可能二名、担架一名。追風が七分後に強まる。どれを選ぶ」と教官。
ハルは地図を回した。
北が上に来ると吐き気がする。右へ回しても、北は紙のどこかに残る。
「地図を回すな」と隣の金翼受験生。
「道は回らない」
「方位が変わる」
「俺が変わる」
エリアの指が動きかけ、止まった。
ハルは目を閉じ、紙の線を指でなぞる。
「一枚目は風裂けで担架が無理。三枚目は梯子で一人ずつだから、担架を下ろす間に追風が来る。二枚目」
「到着が最も遅い」と教官。
「全員が着く中では一番早い」
青い直線印が仮札へ押された。
隣の机では、金翼の少年が一枚目を選び、教官へ褒められていた。
「風裂けは私の翼膜なら突破できます」
「担架は?」とハル。
「牽引する」
「中の人、風に当たる」
「保護膜を張る」
「魔力が切れたら?」
「切れない」
「切れた時を聞いてる」
少年は答えられなかった。
教官が減点するかと思ったが、記録板には『高出力翼具運用、最短路適性』と書かれただけだった。
「試験は、その人の長所を測っている」とティア。
「マオの長所は想定外で保留、あいつの長所は適性?」
「学院認可翼具は、故障率と継続時間が登録済みです」
「登録されてる長所だけ長所になる?」
「未知の能力を同じ安全性で採点できない」
「じゃあ未知を測る試験じゃなく、登録に似てるか測る試験だ」
ティアは反論しかけ、オルトが先に言った。
「試験は、現場へ出してもよい範囲を測る。未知を面白がる場ではない」
「現場では未知が出る」
「だから、既知の手順を身体へ入れる」
「既知だけで足りない時は?」
「足りないと報告できる者を通す」
オルトの答えは、ティアより柔らかく見えた。
柔らかいのではなく、何度か折れた後の形だった。左肩を上げないのも、白濁した眼を隠さないのも、その折れ目を教本の外へ捨てていないからだ。
マオは三枚目を選んだ。
「歩ける二人を先に梯子へ。担架は私の足留めで斜面へ固定して、追風が過ぎてから下ろす」
「個人誓術の使用は想定外だ」と教官。
「禁止?」
「書いてはいない」
「なら選択肢」
ティアがまた記録する。
マオはその筆先を見る。
「減点?」
「条件未提示のため保留」
「保留は、後で偉い人が好きな方へ倒せる箱だ」
「だから、理由も併記している」
「見せろ」
ティアは記録板をマオへ向けた。
『個人術を含む避難計画。成功可能性あり。ただし術不発時の代替路なし。再設計を要す』
マオは少しだけ黙った。
「……そこは正しい」
「正しい時も言うのね」とハル。
「間違ってる相手にだけ喋るほど暇じゃない」
機関科受付は外壁の中腹へ張り出した黄色い工房だった。
ロロが受付台の上で寝転び、四本の補助腕を使って別々のネジを並べている。横にはピコがいて、仮札の角を磁石の嘴で引こうとしていた。
受付板には、ロロ自身が書いたらしい札が掛かっていた。
『きかんか こわれてるもの さわるまえに きけ』
共通空字の綴りが二つ間違っている。下に、別の手で正しい綴りが小さく加えられていた。
「誰が直した」とロロ。
「私」とマオ。
「勝手に掲示を書き換えるな」
「意味が変わる間違いだった」
「読めりゃいい」
「『触る前に聞け』が『触った後で聞け』になってた」
「現場ではよくある」
「それを事故って言う」
ロロの補助腕が四本とも不機嫌に下がる。
「字が得意だからって偉そうにすんな」
「得意じゃない。間違いで装具を逆へ締められたことがあるから見る」
「……修正料は」
「一ルク」
「高い」
「人の字を無料で直すと、次も無料だと思う」
「気に入らねえ。払う」
ロロは穴あき硬貨を一枚、机の上で弾いた。マオは受け取らず、まず綴りをもう一度確認してから工具帯へ通す。
ハルは二人を交互に見る。
「友達になれそう」
「ならない」と二人が同時に言った。
「息は合ってる」
「請求するぞ」
「何を」
「観察料」
「機関課題。壊れたものを直せ」
「何が壊れてる?」とハル。
「それを見つけるところから」
「採点者が雑」
「現場は故障名を名札に書いて待ってねえ」
台には小型の浮遊灯が三つ。
一つは光らない。
一つは浮かない。
一つは光って浮くが、五秒ごとに横へ跳ねる。
ハルは光らない灯を持ち上げる。
「重い」
「感想一点」とロロ。
「底が温かい」
「二点」
「光は出ないけど、力は流れてる。出口が詰まってる?」
「三点。直せ」
「工具」
「選べ」
工具箱には、レンチ、細針、鏡、油差し、布、そしてなぜか木の匙がある。
「匙」
「理由」
「工具っぽくないから、逆に必要そう」
「試験を罠だと思いすぎだ!」
「罠じゃない?」
「匙は俺の昼飯用だ!」
ハルは鏡で底を照らし、排熱孔へ小石が詰まっているのを見つけた。細針で外す。灯が青く光った。
「合格。直したんじゃなく、詰まりを取っただけだけどな」
「動いた」
「元の設計が悪けりゃ、動かすのが正解とは限らねえ。今日は正解」
マオは横へ跳ねる灯を選び、床の傾きを足裏で測った。
「灯じゃない。台が傾いてる」
「正解」とロロ。
「壊れたものを直せって言った」
「台の脚を直せ」
「灯を分解した受験生、二人いたぞ」
「壊れてない物を壊した。修理代を請求する」
「試験で儲けるな」とハル。
「壊した分だ。利益じゃなく損失回収」
「友達価格は?」
「おまえが受かったら考える」
黄色い歯車印が押された。
三つそろった。
「壁が回るまで、あと何分」とハル。
ドランが時計を見る。
「五分四十秒」
「余裕」
「受付処理を含む」とティア。
「またそれ?」
内門は、現在の床から三百歩先。
ただし、その間には外壁第一訓練面がある。
ハルが走り出す前に、ドランが台帳の一頁を見つめた。
「待て」
「遅れる」
「過去記録が変だ」
「今?」
「今見つけたから今だ!」
彼は五年分の失格者一覧を指す。
金翼は時刻がばらけている。早い者も遅い者もいる。銀翼も広い。
鉄翼の失格者だけ、毎年、第四鐘の直前と直後へ密集していた。
五年前、鉄翼受験者四十一名のうち失格十二名。十一名が第四鐘の前後四十秒以内。
四年前、三十八名中十名。九名が同じ範囲。
三年前は装具検査が厳格化され、失格者が十七名へ増え、その十五名が第四鐘へ重なった。
数字は人を公平に見せる。名前を消し、同じ桁へ並べるからだ。だが、並び方が不自然な時だけは、数字の方から制度へ声を上げる。
「毎年、ほとんど同じ終鐘だ」とエリア。
「受験者の能力が五年連続で同じ分布になる確率は低い」とドラン。「しかも、金翼は雨天の年に遅れ、晴天の年に早い。鉄翼だけ天候差が出ない」
「どういうこと?」とハル。
「飛行速度ではなく、飛ぶ前の処理時間に支配されている可能性がある」
「装具検査」
「それだけとは断定できない。だが、少なくとも『鉄翼生は全員遅い』で終わらせる数字ではない」
ドランの青い目は、紙へ近すぎた。遠くの細字が滲むためだが、本人は首を伸ばしているだけのふりをする。
ハルが台帳を近づける。
「見えてない?」
「見えている!」
「じゃあ戻す」
「待て! その位置が最も照明効率がいいだけだ!」
「眼鏡」
「その単語を採点対象外にしろ!」
鉄翼の失格者だけ、毎年、第四鐘の直前と直後へ密集していた。
無翼または所属照合不能者はさらに少ないが、全員が同じ鐘の前後で落ちている。
「下のやつが遅いだけだろ」と金翼の受験生が言った。
ドランは顔を上げる。
「遅いなら、もっとばらける。能力差には分布がある。全員が同じ時刻へ集まるのは、個人より手順が時間を使っている時だ」
「会計の話?」とハル。
「会計は、誰が払ったかを見る学問だ。時間も同じだ」
エリアが台帳へ身を寄せた。
「受付開始時刻は?」
「翼章別に違う。だが試験開始は同じ」
「装具検査の平均は」
「鉄翼が三分十一秒。金翼は二十二秒」
「その差は持ち時間へ含まれる?」
「含まれる」
ティアが台帳を閉じた。
「試験後に監査します。今は受験を続行」
「数字が出ても?」とハル。
「数字だけでは原因を確定できない」
「落ちた後に調べても、落ちたやつは?」
「異議手続があります」
「三日」
「三日です」
「第一条さん、鐘」とロロ。
第二鐘から十一分が過ぎていた。
外壁の目盛りが、下から上へ一斉に青くなる。
オルトの低い声が響く。
「全員、足場確認。壁面転換まで十息。復唱!」
「壁面転換まで十息!」
受験生たちが叫ぶ。
「何が起きる」とハル。
マオが装具を締める。
「床が壁になる」
「比喩?」
「この学校、比喩へ金をかけすぎだ」
鐘が鳴った。
ごうん、と学院の底で巨大な歯車が回る。
空が横へ倒れた。
正確には、空は動いていない。
王立星航学院の第一外壁が、重力の向きを九十度変えたのだ。
ハルの足元だった白い石床が、一瞬で垂直の壁になる。
内門は、三百歩先ではなく、三百歩上へ移った。
「聞いてない!」
「掲示にある!」とティア。
「どこ!」
「裏面第六項!」
「だから表に書けって言っただろ!」
受験生たちが翼を開く。
マオの装具が壁へ爪を立てる。
ハルだけが、落ちながら笑った。
「やっと、門より壁の方が話が早い!」