第29話 第三章「壁が床になる鐘」前編
人間は、床を信用している。
朝、目を覚ました時に床が下にあること。机から手を離せば物が落ちること。昨日まで廊下だった場所が、今日も横へ続いていること。
その信用は契約書へ書かれない。床へ礼を言う者も少ない。
だから床が壁になった瞬間、人は世界そのものに裏切られたような声を出す。
王立星航学院では、その声を「第三鐘」と呼んでいた。
ハルは落ちた。
「一、二――」
三を言う前に、右手が訓練梁を掴んだ。
左肩へ体重が流れかける。身体を振り、右足を白い石壁の継ぎ目へ叩きつけた。さっきまで床だった面が、いまは雲海へ向かって垂直に延びている。
上も下も、まだ耳の中で決まらない。
零星解錠の代償で壊れた方向感覚は、三日休んだからといって律儀に戻ってはくれなかった。視界では内門が上。身体は昨日の床を下だと思っている。吐き気が二つの重力の間で綱引きをする。
「ハル!」
エリアの白い日傘が開く。
銀の骨が風を受け、彼女は横向きになった外壁へ滑るように降りた。右手で傘、左手で地図筆。淡緑の光が壁へ一本の線を引く。
「右足から二歩上、梁。そこから左へ三歩」
「俺の右?」
「あなたの右!」
「今、身体がどっち向いてるか分からない!」
「赤いマフラーの結び目がある側!」
「首の後ろ!」
「では、私の槍先へ!」
白傘が細身の地図槍グリムリリーへ変わる。
穂先が壁へ刺さった。
ハルは梁を蹴り、槍の柄へ右手を伸ばす。エリアは引き上げようとしたが、左肺の奥で息が詰まる。顔へ出る前に姿勢を変え、槍を斜めへ寝かせた。
「引かなくていい。足場にする!」
「分かった。三秒だけ固定」
「三秒あれば多い!」
一秒目、ハルは柄へ足を乗せる。
二秒目、壁の窓枠へ跳ぶ。
三秒目、エリアが槍を抜き、踵へ走った痛みを何でもない顔で飲み込む。
「助かった」
「監督補助は受験生へ直接手を貸せない」
「今、槍貸した」
「地形を示しただけ」
「言い方で不正が合法になる?」
「あなたが落下して試験そのものが中止になるより、影響が小さいと判断した」
「理由を記録?」
「もう書いた」
彼女の地図板には、時刻、位置、介入理由、代替手段なし、と四行が記されている。
親切を親切だけで済ませない。その面倒さが、エリアの誠実さだった。
周囲では、受験生たちが一斉に翼具を展開していた。
金翼の三人は、重力転換を予測していたように身体を水平へ返し、内門へ直線上昇する。金の翼膜が朝日に光り、壁から十歩以上離れた空を飛ぶ。
銀翼の五人は、壁へ打たれた青い誘導灯をたどる。風を受けて円弧を描き、落下を前進へ変える。
鉄翼の四人は、星鉄の爪を石へ噛ませ、巻上げ索で一段ずつ登った。装具が重いほど、転換の瞬間に壁へ叩きつけられる。飛ぶための道具ではなく、落ちないための道具を持つ者たちだった。
同じ壁面転換を受けている。
同じ出来事を経験しているとは言いにくかった。
金翼の一人が速度を上げた。
翼膜が空気を押し、後ろへ透明な渦を置く。渦は飛ぶ者にとっては追い風になり、壁へ爪を立てる者にとっては横から来る転倒だった。鉄翼の少女が装具ごと半歩ずれる。
「飛行線、高さ十二へ移せ!」
ティアの刃が空へ白線を引いた。金翼の三人は壁からさらに離れ、鉄翼の列は風圧を免れる。
「いま、別の道にした」とハル。
「衝突を避ける安全分離です」
「同じ場所を使わせるより公平?」
「同じ場所で互いを落とすより安全です」
「じゃあ、違う道が悪いわけじゃない」
「違う道でも、同じ能力を測れる設計なら」
「いま測ってるのは?」
ティアは上を見た。金翼は内門へ近づき、鉄翼はまだ最初の配管帯にいた。
「星航学院へ必要な、総合到達力です」
「便利な言葉」とマオ。「何が遅いか分からなくなったら、総合って付ける」
ティアは反論しなかった。かわりに、壁へ打たれた風向旗の一本を直した。旗は飛行者の胸の高さにあり、マオの目線からは三歩上だった。
王立星航学院の第一外壁は、もともと防壁ではなかった。百七十二年前、貴族の子弟へ艦上戦を教えるため建てられた巨大な訓練甲板である。当時の受験者は全員が金翼を持ち、教師は空を床として扱った。のちに銀翼が入り、鉄翼が入り、無翼の志願者も制度上は応募できるようになった。
制度は入口を広げた。
建物は、入口の向こうをほとんど変えなかった。
新しい人間が古い床へ入る時、最初に摩耗するのは床ではない。人間の方である。
「ケルン生、応答!」とティア。
「聞こえてる!」
マオは十歩下で、左脚の装具爪を壁へ立てていた。右手で細索、左手で手すり。丸い単眼レンズが落下の衝撃で跳ね上がり、遠くがぼやけている。
彼女の横を、鉄翼の少年が滑った。
巻上げ索の先が外れ、身体が雲海側へ傾く。
「救助要請!」とマオ。
「位置を報告!」とオルト。
「第一面、黄配管の下、鉄翼一名。索外れ!」
「近接者、支えろ。単独で引くな!」
ハルが壁を蹴った。
「凪野受験生、待機!」とティア。
「近い!」
「報告は済んだ。指示を――」
「落ちる方が速い!」
少年の指が石から離れる。
ハルは窓枠を二つ下り、身体を横へ振った。右手で少年の手首を掴む。左肩が抜けそうになり、反射で腕を離しかける。
「離すな!」とマオ。
「分かってる!」
「分かってる顔じゃない!」
マオは左足を壁へ押しつけた。
装具の三角骨が開き、靴底の誓紋へ黄白い光が走る。
「接地、三呼吸。足裏の摩擦を一瞬だけ固定する術〈アンカー・ステップ〉!」
彼女の靴底が、壁へ釘を打たれたように止まった。
止まったのは身体ではない。接している面の摩擦だけである。膝も腰も動く。だからマオは重心を低く落とし、ハルの配達鞄の紐を左手で掴んだ。
「一呼吸!」
「数えるの速い!」
「私の呼吸だ!」
ハルは少年を壁へ投げる。
マオが右手で襟を掴む。
「二呼吸!」
オルトの担架が上から降ってきた。
投げたのではない。背中の折畳み担架を片手で展開し、赤い点呼紐を付けて滑らせたのだ。
「三呼吸。解除!」
摩擦が戻る。
マオの左足が一歩滑る。ハルが肩へ手を伸ばし、途中で止めた。
「どこ持つ!」
「工具帯。右側!」
言われた場所を掴む。
三人は担架の網へ収まった。
オルトが上から引く。左肩は上がらないため、右腕一本と腰で索を巻く。
「人数!」
「三!」とハル。
「受験生三、生存。復唱!」
「受験生三、生存!」
救われた鉄翼の少年は、壁へ額をつけたまま言った。
「試験、失格ですか」
「索具の整備不良は調査する」とオルト。「落ちたことは減点しない。報告を遅らせたら減点する」
「怖くて、言えませんでした」
「次は怖いと報告しろ。形容詞も情報だ」
オルトは自分の赤い点呼紐を一度見た。
耳たぶには十一個の小さな鉄輪がある。誰の名を表すか、彼は説明しなかった。説明しなくても、数える時だけ声が少し低くなる。
ティアがハルへ近づく。
「救助行動は記録します」
「減点?」
「監督指示前の離脱」
「間に合った」
「結果が良ければ手順を免除できるなら、失敗した者だけが規則違反者になる」
「助けなかったら落ちてた」
「だから、救助自体は評価する。離脱判断は別に審査する」
「足し算と引き算を同じ紙でやるんだな」
「善行で違反を消さず、違反で善行を消さない」
その言い方は、三日前にセレナがヴィエルの罪と功績を分けた時と似ていた。
ハルは反論を一度飲み込んだ。
「じゃあ、記録を見せて」
ティアは板を向けた。
『無許可離脱。近接性と落下猶予から緊急性あり。救助成功。指示待機による遅延見込み二・一秒。処分保留』
「二・一秒まで測った?」
「測らずに、間に合ったと言わない」
「俺、あんた嫌いだけど、そこは好き」
「感想は不要です」
「好きって言われて怒る人、初めて見た」
「規則の評価と私的好悪を混ぜないで」
「混ぜてない。別々に嫌いで、別々に好き」
「言葉を増やして混乱させないで!」
感情的になったティアは、一語ずつ区切った。
灰銀の髪の後ろで、深紅の編み込みが揺れる。右膝を庇うため、壁へ立つ姿勢が不自然なほど真っ直ぐだった。