第30話 第三章「壁が床になる鐘」後編

 第三鐘後の第一外壁は、毎年「空壁迷宮」と呼ばれる。

 迷宮という名は、通路が複雑だから付いたのではない。

 人によって床が違うから付いた。

 飛行者にとって、空そのものが床である。

 滑空者にとって、風向きが床である。

 装具者にとって、爪を掛けられる縁が床である。

 ハルにとって、手と足が届くもの全部が、一秒だけ床になり得た。

 彼は白い石壁を駆け上がった。

 窓枠。排水樋。彫像の肩。風見板の支柱。壁に貼られた試験案内。案内板の文字は読めないが、金具の強度は足裏で分かる。

「掲示を足場にするな!」とティア。

「読めないから別の使い方!」

「読めないことを破損理由にしない!」

「壊してない!」

 ハルは案内板の上端を掴み、身体を振って上の梁へ移る。

 地図は読めない。

 一度通った道の段差、匂い、風、音は覚える。

 機関科工房は油と揚げ生地の匂い。

 救難課は焦げた麦茶。

 航路科は地図紙を乾かす薄い薬草。

 その三つを背中側へ置けば、内門は上だ。

「北を使わず進んでる」とエリア。

「使うと吐く!」

「方位以外の手掛かりを、地図へ記録するわ」

「俺専用?」

「いいえ。方位を読めない人、暗所、煙、鏡砂、耳だけで進む人にも使える」

「俺だけのためじゃないなら、気が楽」

「あなた一人の必要から始めても、他の人へ役立つことはある」

「じゃあ最初は俺のため?」

「走りながら恋愛問題へ変換しないで!」

「してない!」

「では、なぜ顔が赤いの」

「登ってるから!」

 エリアは右手で口元を隠した。

 笑ったのか、呼吸を整えたのか、ハルには見えなかった。

 マオは最短路を使わなかった。

 壁の中央には窓と梁が多い。だが人も多く、翼具の風がぶつかる。彼女は外壁の縁へ回り、石の摩耗した細い帯をたどる。

「そっち、遠い!」とハル。

「中央は爪が滑る!」

「縁、道じゃないだろ!」

「使われた跡がある!」

 確かに、白い石の角だけが黒く磨かれている。

 星鉄の爪が何年も同じ場所を擦った痕だ。

 エリアは上空から歩数を記録する。

「中央直線、金翼で六百八十歩相当。銀翼の誘導弧、八百二十。鉄翼の縁路は――」

「まだ測ってる!」とマオ。

「九百七十を越えた」

「同じ十二分」とハル。

「二十四分の後半十二分。しかも、装具検査の差は前半から引かれている」

 ティアが追いついた。

 彼女自身は翼布で短く飛び、監督点を移動する。高出力の翼具ではないが、訓練された姿勢と身体の強さで距離を稼ぐ。

「距離が違うことは、能力に応じた経路分けです」

「時間は同じ」とエリア。

「到達基準は同じです」

「道が長い人へ、同じ時刻に着けと言う?」

「長い経路を補うための装具です」

「装具検査で時間を取る」

「安全確認です」

「安全のための時間を、能力不足として引くの?」

 ティアは答えず、受験生の一人へ進路指示を出した。

 答えがないのではない。今の彼女には、答えを出すより試験全体を安全に終える役目がある。

 役目は、質問から逃げる盾にもなる。

 質問へ後で戻るための印にもなる。

 ハルたちは、最初の休憩所へ着いた。

 着いた、と呼ぶには二十歩ほど足りなかった。

 休憩所は壁から十六歩離れた空中に浮いていた。

 白い円盤。給水槽。治療箱。現在位置の掲示。風除け布。金翼の受験生が二人、そこで水を飲んでいる。

 ハルとマオの立つ壁からは、橋も梯子もない。

「休憩所、空の上」とハル。

「見れば分かる」とマオ。

「使う?」

「どうやって」

「飛んで」

「喧嘩売ってる?」

「制度へ」

「制度は買わない。人へ売れ」

 ハルが壁を蹴り、飛び移る距離を測る。

 十六歩。助走を取れば届くかもしれない。届かなければ雲海。

「禁止」とエリア。

「まだ数えてない」

「数える前に禁止」

「監督補助が答えを」

「休憩所を使わないことは試験不正ではありません」

「水がほしい」

 マオは腰の小瓶を振った。

 空だった。

 外門検査で中身を抜かれ、補給所で入れ直す前提だったからだ。

 ティアが自分の水筒を出す。

「共有します」

 マオは手を出さない。

「無料?」

「水です」

「値段」

「学院支給」

「誰の章で取った」

「監督備品」

「受験生用じゃない」

「脱水を放置する理由にならない」

「飲んだら特別扱いって言われる」

「誰に」とハル。

「周りに。自分に」

「飲まないで倒れたら、倒れないやつの普通が基準になる」

「分かってる」

「じゃあ飲めば」

「分かってるから腹が立つ!」

 マオの声が高くなった。

 泣きそうな時ほど早口になり、丁寧語へ逃げるという癖を、まだ誰も知らない。

「私は監督へ水を要求します。配慮ではなく、受験設備の不足に対する代替です。記録してください」

 ティアは一瞬だけ目を見開いた。

「記録します。ケルン生へ、受験生用給水の代替として監督水筒から百五十量」

「百でいい」

「体格と運動量から百五十」

「私が決める」

「医学上――」

「先に聞け」

 ティアの編み込みが耳へかけ直される。

「必要量を選んでください」

「百二十」

「分かりました」

 マオは百二十量だけ飲んだ。

 残りをハルへ渡す。

「おまえは?」

「借り」

「水で借り作る?」

「返せる形にしておく」

「じゃあ次、俺の水を百二十」

「同じ量で返すな。必要な時に聞け」

 エリアはその会話も記録した。

 地図には距離だけでなく、水が届かなかった場所が一つ増えた。

 金翼の受験生が円盤の縁から下を見た。

「水筒、落とそうか」

「落とすな」とマオ。

「受け取れるように紐を――」

「それなら先に聞いた。紐で下ろして。容器は私が持つ」

 金翼の受験生は戸惑い、それから長い給水紐を結んだ。親切は、渡す側が考えた形でなければ親切ではない、と思い込みやすい。形を変えても届くと知るには、受け取る側の注文を聞く必要がある。

 白い円盤の裏へ、古い橋の蝶番が二つ残っていた。橋板だけが外されている。

「昔は壁とつながってた?」とハル。

「設計図を見ないと断定できない」とエリア。

「でも金具はある」

「観測事実。記録する」

 発着桟橋のゼロスター号から、四本腕が望遠筒を取り合った。

「そこ、十六歩じゃねえ!」とロロの声が風管を通って飛ぶ。「壁が回る前の水平距離なら十六。回った後の足場線から測ると二十一半! 設計者、重力変わった後の寸法を変換してねえぞ!」

「試験への助言は禁止!」とティア。

「設備の悪口だ!」

「悪口は助言の形式になり得ます!」

「じゃあ請求書にする! 測量費二ルク!」

「誰に!」

「学院!」

 ノクスが望遠筒の先へ乗り、二本の尾で視界を塞いだ。ロロの怒声が途中で潰れる。

「ノゥ」

「おまえ、どっちの味方だ!」

 黒い小獣は返事の代わりに、休憩所の手すりから外れかけた七本の小旗のうち一本だけを咥えた。何かを見抜いたのではない。ただ七つある物の一つを外す癖が、たまたま落下防止になっただけである。

 ティアは旗を回収し、留め具の緩みを記録した。

「試験後、全休憩所を点検します」

「使えない人のため?」とハル。

「使う人が落ちないためです」

「使えない人の方は?」

 ティアの親指が剣の目盛りを一度なぞる。

「……別に検討します」

 別。

 その言葉は、問題を分けて考えるためにも使える。考えなくてよい場所へ移すためにも使える。

 第四鐘まで、残り五分。

 内門は見えた。

 白い壁の最上部――現在の重力では平らな縁に、青い二枚扉が立っている。門前には受付台が三つ。金翼、銀翼、鉄翼・その他。

「またその他」とハル。

「分類の外は、全部一つにされる」とマオ。

「人数少ないから?」

「少ないんじゃない。数えてないから少なく見える」

 ハルは最後の百歩を走った。

 左肩が熱を持つ。足裏の皮が石へ擦れ、スニーカーの溝へ白い粉が詰まる。

 金翼受験生は門へ触れ、翼章から三つの受付印が自動で読み取られ、十秒ほどで通過する。

 銀翼は二十秒。

 鉄翼の列では、装具番号、労働免除、奨学枠、機関科の個人術保留が一件ずつ確認されていた。

 門の前へ着いた時刻なら、鉄翼の少女は金翼の最後尾より早かった。

 受付を終えた時刻なら、金翼の最後尾より遅かった。

 歴史は時刻を好む。数字にすれば争いが終わるように見えるからだ。だが、どの瞬間を数字にしたかを書かない歴史は、勝者の時計に似る。戦場へ着いた時か。命令を受けた時か。剣を抜いた時か。帰還した時か。

 学院の時計は、受験生が門へ触れた時ではなく、学院が受験生を読み終えた時を「到着」と呼んでいた。

「受付机、増やせないの?」とハル。

「予備係を鉄翼列へ回す申請は出した」とドラン。「ただし担当章の変更には監督印が要る」

「いま押せば」

「監督は壁面上だ」

「伝羽」

「飛行経路が試験中で封鎖されている」

「人を飛ばせば」

「受付係の持ち場離脱になる」

「遅れないための規則が、遅れを直す人を止めてる」

「それは勘定が合わない。だが、合わない帳簿でも勝手に数字を変えれば、次に誰が変えたか分からなくなる」

「じゃあどうする」

「合わないまま記録する。あとで全員の前へ出す」

 ドランは金翼の列だけでなく、鉄翼列の待機開始時刻も赤で書き始めた。昨日までなら必要ないと思った欄である。人間は考えを変えた瞬間に別人になるのではない。以前は数えなかったものを、まず数え始める。

「到着!」

 ハルは門前の青線へ飛び込んだ。

 ドランが時刻を書く。

「第四鐘まで、四十二秒」

「間に合った!」

「受付を」

 窓口係が仮札を取る。

「所属章」

「ない」

「出生環」

「地球」

「環番号を」

「ない」

「初誓日」

「してない」

「誓紋位置」

「ない」

「三受付印は……救難課、条件審査。航路科、合格。機関科、合格。救難課の条件審査理由を確認します」

「あと何秒?」

「処理中です」

「俺はもう着いてる」

「受付完了をもって到着とします」

「青線を越えた!」

「線は待機線です」

「到着線じゃないの?」

「掲示に――」

「裏面?」

「門柱左側」

 左側の掲示は、第四鐘を知らせる青い灯の陰に隠れていた。

「二十秒!」とドラン。

 窓口係は救難課へ伝羽を送る。

 返事が来ない。

「口で聞いてこい!」とハル。

「受付を離れられません」

「俺が行く!」

「候補者が書類を運ぶことは認められません」

「誰のための確認だよ!」

「十秒!」

 ティアが内門へ着いた。

「救難課条件は、無許可離脱の審査保留。受験資格を妨げません」

「責任者署名を」

 ティアが左手で記録板へ署名する。

 公式欄は右手署名を前提に、筆が右側へ固定されている。彼女は身体をひねり、左手で届かせる。

「五秒!」

 署名板が光る。

『規律責任者確認』

「通せ!」とティア。

「受験者氏名の共通空字に照合差異」

「左右逆の字だ!」とエリア。

「本人へ確認します」

「俺!」

「氏名を口頭で」

「凪野ハル!」

 第四鐘が鳴った。

 内門が青から赤へ変わる。

 窓口板に文字が出た。

『受付完了 第四鐘後三秒』

『遅刻』

『不合格』

 ハルは門の前にいた。

 手は門へ触れていた。

 呼吸も、影も、靴底の白い粉も、第四鐘より前にそこへ着いていた。

 記録の上では、三秒遅れて到着した。

「俺はいつ着いた」とハル。

「青線通過は四十二秒前」とドラン。

「試験では?」

「受付完了時」

「受付が遅れた」

「事実だ」

「じゃあ遅れたのは俺?」

 ドランは答えられない。

 ティアが内門の赤い表示を見る。

「規則上は、不合格です」

 ハルは笑わなかった。

 怒鳴りもしなかった。

 本気で怒った時ほど、声が低くなる。

「門の前にいる人間を、門の外にいることにできるなら」

 赤いマフラーの結び目を締め直す。

「この学校で最初に習うのは、道じゃなくて言い換えか」