第31話 第四章「同じ条件の違う重さ」前編
ものを測るには、基準がいる。
長さなら物差し。重さなら分銅。時刻なら時計。
問題は、人間を測る時である。
人間を物差しにすれば、その人間に似た者ほど正しく見える。違う者は短すぎるか、長すぎるか、重すぎるか、遅すぎると判定される。
物差しの側が曲がっていても、それを百年使えば「直線」と呼ばれる。
エリア・ルーンベルグは地図を描く者だった。
地図とは、世界を正しく小さくする技術である。
正しく小さくできないものを、なかったことにする技術ではない。
「正確に言って」
エリアは内門受付の机へ両手を置いた。
左手には地図筆。右手は白傘の柄を握ったまま。淡い緑の瞳が、赤い不合格表示から窓口係へ移る。
「彼はいつ到着したの」
「受付完了は第四鐘後三秒です」
「質問を変えないで。彼の身体が待機線を越えた時刻」
「第四鐘前四十二秒」
「門へ触れた時刻」
「前四十秒」
「本人確認の開始」
「前三十七秒」
「完了」
「後三秒」
「その四つを、なぜ一つの『到着』で書くの」
「試験規程の定義です」
「定義の理由を聞いているわ」
窓口係は答えられなかった。
彼の仕事は定義を使うことで、定義が生まれた理由まで携帯することではない。
ティアが間へ立った。
「ルーンベルグ生。受付係個人へ制度設計の責任を求めないでください」
「求めていない。だからあなたへ聞く。なぜ?」
「登録前の者を試験区域へ入れないためです。本人確認が終わらなければ、別人、無許可装具、未申告の誓紋が混ざる可能性がある」
「安全上、受付完了まで入れない。それは理解できる。けれど、学院が確認に使った時間を本人の遅刻へ足す必要はない」
「開始時刻を個別にずらせば、監督配置と外壁転換が統一できません」
「では、受付締切を身体ごとに変える」
「事前申告された事情だけ特別に早く呼ぶのですか」
「特別ではなく、処理時間を見積もるの」
「見積りにない事情は」
「当日加算する」
「誰が妥当性を決める」
「その問いを、いま一緒に考えているのよ」
「試験の最中に制度は作れません」
「作られた制度のせいで、試験の前に落ちている人がいる」
エリアの言葉は、速くなるほど冷たく聞こえた。
本当は逆である。興味と焦りが増えるほど、彼女の頭の中では線が増え、一本ずつ言葉へ出そうとして速度が上がる。
ハルが待機線へ座り込んだ。
「二人とも、俺抜きで俺の時間を取り合うな」
「あなたは肩を診てもらって」とエリア。
「それも俺抜きで決めた」
「左肩を二度庇った。壁面転換後、瞳孔の揺れが四回。方位記号を見た時に吐き気もあった」
「数えすぎ」
「数えなければ無理を隠すでしょう」
「数えても隠す」
「では、なおさら診察へ」
「行く。行くけど、命令じゃなくて相談にして」
エリアの口が閉じた。
親切は、正しいからこそ危険になることがある。正しい答えを先に置けば、相手が選ぶ道を全部塞げるからだ。
「……診察を受けることを勧めるわ。受ける?」
「受ける」
「付き添いは?」
「来て。途中で迷う」
「分かった」
マオが単眼レンズを上げた。
「一回で直るなら、最初からそう聞け」
「あなたに言われると腹が立つわね」
「効いた証拠」
学院医務室には、二つの時計があった。
一つは天頂塔の正刻と同じ速度で進む銀時計。もう一つは、少しだけ遅れる木時計。
「こちらは正しい時刻です」とリディア。
銀時計を指す。
「こちらは人間が感じる時刻」
木時計を指す。
「痛い時は一分が長い。楽しい時は短い。会議だけはどちらでも長い」
「学院長が会議を悪く言っていいの?」とハル。
「長い会議を作る者に、短くする責任があります」
リディアはハルの左肩へ指を当てた。左手は小指と薬指の先がなく、三指手袋の形が普通の手と違う。だから触診の動きも違う。違うが、精度は落ちない。
「亜脱臼の腫れは減っています。壁を登るなら固定帯。落ちるなら禁止」
「落ちる予定はない」
「落ちる人は予定表へ書きません」
「受験は?」
「本日の判定は失格。異議審査は明朝」
「明日まで何もできない?」
「何も、という言葉は広すぎます。試験設備の調査、再受験の申請、読み書きの練習、睡眠。選べます」
「睡眠だけ急に弱い」
「あなたには最も難しい課題でしょう」
固定帯を巻かれる間、ハルは外を見た。
空壁はゆっくり元の向きへ戻っている。さきほど床だった壁が、また壁へなる。人間は床が戻れば安心する。戻った床の傾きまでは、見ないことが多い。
「学院長」とエリア。「過去の受験記録を見せて」
「理由は」
「遅刻の分布、受付処理時間、翼章別の経路距離を比較する」
「個人情報が含まれます」
「氏名は要らない」
「目的外利用です」
「同じ試験の異議審査」
「審査委員ではありません」
「では、委員へ申請する」
「明朝までに間に合わないでしょう」
「だから学院長権限で」
リディアは二つの時計を見比べた。
「改革を急ぐ人は、よく私の権限を便利な近道にします」
「近道を使わず間に合わないなら」
「間に合わない理由を記録した上で、限定閲覧を許可します。氏名、家名、医療情報は伏せる。閲覧室から持ち出さない。複写は統計表だけ」
「ありがとう」
「感謝は、条件を読んでから」
「読んだわ」
「速いですね」
「地図より短い」
リディアの肩が少し揺れた。笑ったらしい。
「失敗してよい範囲を先に作りなさい。数字を見て最初の仮説へ恋をしないこと」
「仮説と恋愛は別よ」
エリアは即答した。
ハルが固定帯越しに首を傾ける。
「俺を見て言う必要あった?」
「見ていない」
「いま目が合ってる」
「視線と意味を混ぜないで」
「地図と恋愛を混ぜたのは学院長だろ」