第32話 第四章「同じ条件の違う重さ」後編
記録閲覧室は、学院の心臓より墓地に近かった。
棚には合格者より不合格者の記録が多い。合格者は教室へ進む。不合格者は紙の中へ残る。
ドランが台車を押してきた。
奉仕処分の白腕章を付け、右手首を固定し、左手だけで帳簿を運んでいる。
「過去五年分。翼章別、受付処理、途中失格、第四鐘判定」
「早い」とエリア。
「会計資料は分類が命だ。もっとも、学院は金翼の欄だけ妙に細かく、無翼を『その他』へまとめている」
「その他から分け直した?」
「三時間かかった。褒めるなら、侯爵家の名ではなく作業時間を褒めろ」
「三時間、正確で助かるわ」
「……そう言われると困る」
「なぜ」
「皮肉の準備をしていた」
「使えば」
「褒められた後では赤字だ」
ロロは閲覧机の下から出てきた。
「何してるの」とエリア。
「机の脚が一ミリ短い」
「資料閲覧の許可は?」
「ない」
「出て」
「机の修理許可はある」
「資料を見ないで」
「字は見ても半分読めねえ」
「それを免罪符にしないで」
「綴りを直すなら授業料払え」
「逆でしょう」
ロロは短い脚へ紙片を挟んだ。紙には『鉄翼・その他』と印刷されている。
「これ、いらねえ紙?」
「原本を脚に使わないで!」
エリアは奪い返し、代わりに白紙を渡した。
紙一枚にも用途がある。人間を分類する紙が机の傾きを直すことはあっても、人間の傾きを直すとは限らない。
彼女は記録を並べた。
金翼。受付平均十七秒。外門から内門まで平均六百八十三歩相当。休憩利用率七十八パーセント。
銀翼。受付平均二十九秒。経路八百二十四歩。利用率五十二。
鉄翼。受付平均三分二十六秒。経路千百八十から千二百四十。利用率六。
無翼。件数が少なく、平均処理十二分十一秒。経路は記録なし。利用率ゼロ。
「経路の歩数が記録と違う」とエリア。
「公式換算は全部六百八十だ」とドラン。「飛行直線を標準距離として、他経路は『補助装具による能力差』へ入れている」
「距離を消して、能力へ付け替えた」
「会計なら、送料を商品の欠陥へ入れたようなものだ」
ハルは固定帯を付けたまま、古い地図を上下逆に持った。
「これ、道が一つしかない」
「百七十二年前の設計」とエリア。「受験者全員が金翼だった時代の図よ」
「今の鉄翼路は?」
「保守用の縁を後から経路指定した」
「休憩所の橋は?」
「初期図にはある。三十八年前、飛行訓練の障害になるとして撤去」
「飛べる人の邪魔だから、歩く人の橋を外した?」
「当時、鉄翼受験枠はなかった」
「今はある」
「あるのに戻していない」
記録だけでは、数字を嫌う者に「紙の上の差」と言われる。
そこでエリアは、閲覧室の隣にある装具計測廊へ全員を連れ出した。
計測廊は、長さ百歩の白い直線である。床へ五歩ごとに黒線が引かれ、天井から荷重袋、翼布、風圧板が下がっている。飛行生理を測る場所だが、今日は歩く速さを測ることにした。
「同じ距離を、同じ時刻に歩く」とエリア。
「さっきティアが言ったことと同じ」とハル。
「違う。まず、違う重さで歩く」
彼女は三つの条件を用意した。
一つ目。何も持たない。
二つ目。鉄翼受験生の平均装具重量に合わせ、腰と左脚へ十一キロの荷重袋を付ける。
三つ目。金翼の翼布を開き、廊下の横風を揚力へ変える。
「俺が全部?」
「同じ人で比べなければ、身体差が混ざる」
「肩を診た直後」
「走らない。痛みが出たら中止する。選ぶ?」
「やる」
エリアは先に条件を示し、撤回方法を言い、本人へ選ばせた。三回目でやっと、説明しすぎずに聞けた。
第一走。ハルは百歩を五十六息。
第二走。左脚へ荷重を寄せると、七十三息。歩幅が崩れ、右腰が先に疲れる。
第三走。翼布が横風を受け、四十九息。足が軽くなるだけでなく、転びかけた時に身体を戻せる。
「同じ人でも、道具で違う」とハル。
「道具を能力へ含めるのが星航学院です」とドラン。
「なら、道具を検査する時間も能力へ含めるの?」
「それは――勘定を分けるべきだ」
マオは廊下の端で見ていた。
エリアが左脚の荷重袋を外すと、彼女は言った。
「それ、私の脚の再現じゃない」
「分かっているわ」
「十一キロなら同じと思う人がいる」
「だから『装具重量だけを再現した』と書く」
「痛みも、股関節の角度も、怖さもない」
「ない。あなたを測定器にはしない」
マオは単眼レンズを下げ、エリアの顔を確かめた。
「じゃあ、何が分かる」
「重さだけでも時間が変わる。重さ以外が加われば、もっと変わり得る。分からない部分があることも結果よ」
「分からないを、空欄で残す?」
「勝手に埋めない」
「それならいい」
学問は、空欄を嫌う。空欄が多いほど論文は弱く見える。政治はさらに空欄を嫌う。知らないと書けば、決断できない者に見えるからだ。
しかし、人間の痛みを他人が推定で埋める時、空欄より危険な誤答が生まれる。
「私も歩く」とマオ。
「比較のため?」
「違う。明日の安全確認。推進を切った状態で、どこまで行けるか私が知る」
「付き添いは」
「要る。触る場所は先に聞け」
「私でいい?」
「地図を持つ人がいい」
マオは自分で装具の小噴気弁を閉じた。
一歩目で、左脚が半歩短くなる。二歩目で骨盤が傾く。十歩目、右肩が上下し始める。三十歩目で額へ汗が出た。
「中止する?」とエリア。
「まだ」
「痛みは」
「三」
「十段階?」
「私の五段階」
「定義を」
「一、気になる。二、言われれば止まれる。三、自分で止めたくない。四、止める。五、もう遅い」
「三は危険な定義ね」
「だから報告してる」
五十歩で、マオは止まった。
「四」
「座る?」
「低い椅子」
エリアは高さを聞き、荷重箱を二つ重ねた。勝手に身体を持たない。マオは自分で腰を下ろし、装具の留め具を一度、二度、三度と確かめる。
「明日の百歩は無理?」とハル。
「この条件なら、五十で止まる。休めば続ける。休憩所が使える位置なら」
「空の上」
「だから、空の上にあることが距離だけじゃなくなる」
エリアは記録へ書いた。
『推進遮断時、五十歩で本人選択による停止。休憩後の継続可否は未測定』
できなかった、とは書かない。
条件を変えれば、結果も変わる。人間の能力は一つの数字ではなく、条件との組合せである。
「次、俺も十一キロを付けて外壁路を――」
「今日は終わり」とエリア。
「本人へ聞けって言ったのに」
「あなたは左肩の固定帯を外しかけている」
「暑い」
「中止理由は医学。選択肢は、固定したまま休むか、医務室へ戻るか」
「選択肢が狭い」
「失敗してよい範囲を先に作った」
「学院長の言葉を武器にするな」
「便利だから使っているの」
マオが口の端を上げた。
「それ、誰の便利?」
「いまは私と彼の肩」
「答えた。合格」
「あなたに採点されたくないわ」
閲覧室へ戻ると、ドランが時刻表を床いっぱいに並べていた。
第四鐘の前後を中心に、五年分の失格票を一枚ずつ置く。金翼は散らばり、銀翼は鐘の少し前へ集まり、鉄翼と無翼は鐘の直後へ黒い帯を作った。
「同じ人間が毎年妨害している形ではない」とドラン。「担当係は交代している。天候も違う。装具型も違う。だが失格時刻だけは同じ場所へ溜まる」
「犯人がいない」とハル。
「人が悪くなくても帳簿は悪くなる」とドラン。「一行の式が、毎年同じ損を出す」
「式は逮捕できない」
「だから直すのが遅い。誰か一人を処分すれば終わった顔ができない」
エリアは二枚の地図を重ねた。
古い地図へ新しい経路を描く。淡緑の線が壁の縁を遠回りし、空中の休憩所を避け、内門前で細くなる。
線には太さがある。
人が多ければ太くなる。装具が重ければ濃くなる。止まる場所では滲む。
金翼の線は空へ広がり、鉄翼の線は石の一条へ集中した。
「縮尺欄、二つある」とハル。
古地図の左下に『実歩尺度』、現在の記録図には『等価航程尺度』とあった。言葉だけ見れば、後者の方が進歩しているように聞こえる。
「等価って何と同じ?」
ハルの問いに、ドランが別冊をめくる。
「金翼標準者が無風で飛行した場合の消費誓力へ換算、とある」
「鉄翼が千二百歩進んでも?」
「金翼なら六百八十歩相当の誓力で着くから、六百八十と記録する」
「歩いた方の千二百はどこへ消える」
「能力差」
「またそこ」
エリアは地図筆の先を止めた。
「古い設計図と現在記録の縮尺が一致しないのは、壁が伸びたからではない。遠い道を、標準者ならどれだけで飛べるかへ縮めていた」
「地図が嘘をついた?」とハル。
「正確ではあるわ。何を測ったかを書けば」
「小さい字で書いてある」
「小さい字は、嘘ではない」
「読まれない場所へ正しさを隠すのは、嘘より便利だな」
等価航程という考えは、もともと軍艦の燃料計算から生まれた。異なる艦が同じ航路を進む時、帆の面積と星脈炉の消費を一つの単位へ換算する。艦は文句を言わない。壊れれば部品を替えられる。
学院はその単位を学生へ移した。
人間を艦へ見立てる教育は、勇ましい言葉を多く生んだ。翼は帆、心臓は炉、規律は舵。だが、人間の脚は交換部品ではなく、疲労は燃料不足だけではない。
「この『標準者』、誰?」とマオ。
ドランが初版規程の署名欄を読む。
「初代飛行教官の実測値。身長百八十二、体重七十一、金翼二枚、右利き。試験路を三回飛び、平均を取った」
「一人?」
「一人」
「百七十二年前の一人を、いま全員の平均って呼んでる?」
「改訂のたびに係数は変えている」
「身体は変えた?」
「……飛行速度だけだ」
ハルが笑った。
「標準って、多数派ですらないんだな」
「最初に測られた人」とエリア。
「最初って強い」
「地図でも、最初の線は強いわ。後から描く線は、前の線を避けるから」
「消せば」
「消す前に、なぜそこへ引かれたかを記録する。でないと同じ線をまた引く」
マオは古地図の余白へ白墨で書いた。
『標準者、一名。全員ではない』
「資料への加筆!」
ティアの声が扉から飛んだ。
マオは振り返らず言った。
「鉛筆。消せる」
「消せることは許可ではありません」
「読めることは必要」
「まず申請を」
「申請文が標準者向けの字」
扉に立つティアの後ろで、リディアが静かに肩を揺らした。
「その一行は複写へ残しましょう。原本は消して」
「学院長」とティア。
「規則違反を許したのではありません。改善提案を採用し、原本保全を命じました」
「言い換えです」
「学院で最初に習うことらしいですよ」
ハルが咳払いした。
「俺の台詞、勝手に校風へするな」
「同じ開始時刻で、同じ終点」とティアの声。
入口に立っていた。
閲覧許可証を左手に持ち、右手で扉の縁へ見えない円を描く。
「条件は公開されています。経路も翼章に応じて指定される。選抜試験が能力差を測ること自体は不公平ではありません」
「何の能力を測る試験?」とエリア。
「星航生として、制限時間内に複数課程へ到達する総合力」
「では、受付係が読む速度も星航生の能力?」
「そこは改善対象です」
「装具の検査時間は」
「安全運用の一部です」
「休憩所へ届かないことは」
「持久力の差として――」
「水へ届く能力を持久力と呼ばないで」
ティアの口元が固くなる。
エリアは地図筆で二本の線を示した。
「金翼の六百八十歩と、鉄翼の千二百歩。同時に出て同時に着けと言う。これは能力を測っているようで、最初から違う距離を与えている」
「鉄翼装具は長距離走行を補助します」
「その装具を検査で止め、休憩所へ入れず、狭い縁へ集める」
「ならば装具差も飛行差も除き、全員を同じ経路へ置けばいい」
「人間の違いを消して?」
「試験条件を揃えるためです」
「飛べる人へ飛ぶなと言い、装具を使う人へ装具を使うなと言えば、同じ身体になると思う?」
「少なくとも、同じ距離を同じ足で進む」
「同じ足ではない」
ティアの右膝が、ごく小さく曲がった。
長時間立っていた痛みを逃がす動きだった。次の瞬間には、また左右同じ角度へ戻る。
エリアはそれを見た。
見たが、言わなかった。
他人が隠している身体を、議論の証拠として勝手に使えば、正しさが別の暴力になる。
「あなた自身も入って」とエリア。
「監督責任者です」
「全員と同じ条件を課すのでしょう。術者も例外になれない」
「当然です」
「なら、身体で確かめられる」
ティアは双規刃を抜いた。
柄をつなぎ、規則刃〈アレイオン〉を一本の巨大なコンパスへ変える。
「明日の再試験では、第一外壁全域へ飛行禁止を宣告します」
ロロが机の下で頭を打った。
「全域?」
「金翼、銀翼、鉄翼の浮揚補助、監督者を含む。足で接地し、同一の地上経路を使う。受付は事前に完了させ、開始時刻を揃える」
「鉄翼の装具は歩くためにも浮揚補助を使う」とマオ。
「推進を切り、支持機能だけ残します」
「私の装具、左右差を小噴気で補正する。切ったら同じ足じゃなくなる」
「規定上、機械支持のみで歩行可能です」
「規定を書いた人、私の脚を使った?」
ティアは一瞬、言葉を失った。
そして、規則文を書く声へ戻る。
「個別装具の安全確認を行います。危険なら棄権を認める」
「試すか、出ないかの二択?」
「危険な参加を強制しないためです」
「出たいって言ってる」
ハルが古地図を机へ置いた。
「飛べるやつから飛ぶのを取って、歩けるやつから歩き方を取って、俺だけいつもどおり走る。俺に有利すぎない?」
「あなたも壁面走行、手すりへの跳躍を禁止します」
「じゃあ何していい?」
「歩く」
「歩くだけで星航士を選ぶの?」
「同じ条件が公平かを確認する試験です」
ティアは全員を見た。
その視線は傲慢ではない。逃げてもいない。自分が正しいと信じている人間の、まっすぐな視線だった。
「例外を作るなら、責任も私が引き受ける。明日は、例外をなくします」
エリアは地図を閉じた。
「正確に言うわ、ティア」
姓ではなく名を呼んだ。
「あなたがなくそうとしているのは、例外ではない。違いよ」
ティアは答えなかった。
規則刃の目盛りだけを、右親指で一つずつ数えた。
翌朝、学院史上初めて、空を飛ぶための学校で「飛ぶな」という公平が試されることになった。