第33話 第五章「飛ぶなという公平」前編
不公平をなくす方法として、全員から同じものを奪うという考えがある。
金持ちも貧しい者も同じだけ空腹にする。強い者も弱い者も同じ重さの鎖を付ける。飛べる者も飛べない者も飛ばせない。
差は見えなくなる。
苦痛まで同じになるとは限らない。
歴史上、「平等」の名で作られた制度の一部は、全員を同じ高さへ持ち上げたのではない。高い者の足を切り、低い者へ背伸びを命じ、横から見た頭の位置だけを揃えた。
ティア・グランツは、その朝、本気で公平を作ろうとしていた。
悪意がないことは、失敗しない保証にはならない。
むしろ、本気の善意ほど広い範囲へ届く。
「規則を宣告します。聞こえた者は答えなさい」
第一外壁の根元へ、百十二人が並んでいた。
臨時補充試験の再受験者十二人。比較訓練へ参加する在校生七十二人。監督、救難、医務、記録員。ハルたちはその中央にいる。
ティアは二本の規則刃をつないだ。
巨大なコンパスの刃先が白石へ触れる。円は昨日より大きい。外壁一面、内門、休憩所の投影位置、救難待機帯までを囲む。
「試験開始から第四鐘まで、規則円内の全員は、身体の支持点を一つ以上、指定外壁面へ接触させ続ける。翼具、滑空布、浮揚術による完全離床を禁ずる。術者、監督者、受験者の別はありません」
白い文字が円周を走った。
「聞こえた」とオルト。
「聞こえました」とエリア。
「聞いた」とハル。
「文章が長い」とロロ。
「応答だけを」とティア。
「長いって応答」
「成立条件を満たす語で」
「聞こえた!」
マオは左脚の装具弁を確かめた。一度、二度、三度。
「支持機能の小噴気は完全離床じゃない」
「片足が常時接地する範囲なら使用可能です」とティア。
「切替時に半呼吸だけ両足が浮く」
「その型式は歩行ではなく跳躍補助へ分類されます」
「歩幅差を戻すため」
「分類上は」
「私の脚より分類を見る?」
ティアの編み込みが右耳へかけ直された。
「安全試験の結果、推進弁を閉じても五十歩ごとの休息で走路完了は可能です」
「昨日の私の結果を使った?」
「本人申告と測定値を」
「私、五十歩で痛み四って言った」
「休息帯を五十歩ごとに仮設しました」
壁面沿いに、低い椅子と給水筒が置かれている。高さは三種類。マオが昨夜求めた高さもあった。
ティアは聞かなかったわけではない。聞いた上で、自分の答えへ組み込んだ。
「選べる?」とマオ。
「休息は任意です」
「使ったら減点?」
「しません」
「時間は止まる?」
「全員共通の試験時間です」
「なら、使う人だけ遅れる」
「休息を必要としない者まで止めることはできません」
「できる。全員五十歩で休ませれば」
「それでは不要な者へ待機を強いる」
「やっと分かった?」
ティアの眉が動く。
マオは白墨の端を噛み、すぐ口から出した。
「必要な人だけ休める。必要ない人は進める。違う条件が公平になる時もある」
「その場合、到達時刻の調整が必要です」
「だから最初から言ってる」
「開始前の討論は終了」とオルト。
右眼で全員を見渡し、左の白濁した眼は光だけを受ける。
「危険申告。痛み、装具不調、恐怖。形容詞も情報だ。途中撤退は失格ではなく記録。復唱」
「途中撤退は失格ではなく記録!」
百十二人の声が壁へ返る。
ティアは自分の右膝へ支持帯を巻いていなかった。
エリアは気づいた。言わないまま、地図板へ小さく『監督者装具申告なし』と書いた。
第二鐘。
「開始!」
飛べる者は、歩けないわけではない。
ただ、歩く必要が少なかった。
金翼課程の生徒たちは、最初の三十歩で互いの肩へぶつかった。空なら上下へ避ける。床では左右しかない。翼布を畳んだ背中は意外に広く、金具が隣の袖を引っかく。
「前へ詰めろ!」
「詰めると踏む!」
「いつもなら上へ――」
「上は禁止だ!」
銀翼生は風を読めるが、足元の摩耗を読めない。滑空靴の底は薄く、白石の粉で滑る。
鉄翼生は床へ強い。ただし、装具の小噴気を封じられた者は、左右の歩幅を機械だけで揃えられず、いつもより早く腰へ負担が来る。
ハルは歩くのが下手だった。
正確には、走らず、跳ばず、手すりへ乗らず、壁の出っ張りを足場にせず、決められた線だけを歩くのが下手だった。
「そこ、二歩で越えられる」とハル。
「跳躍は離床」とティア。
「片足残せば?」
「脚の長さ以上の跨越は壁面走行扱い」
「俺の普通を細かく禁止するな」
「全員の移動方法を揃えるためです」
「揃ってない。俺だけ遅くなった」
「金翼生も遅くなっています」
「全員遅くすれば公平?」
「比較条件は明確になります」
ドランが後ろで泥の付いた長靴を見て、絶望の顔をした。
「白石粉が縫い目へ入った」
「昨日、皿拾ってたのに床の汚れは嫌?」
「皿は洗える。靴は革だ!」
「侯爵家では歩かない?」
「歩く! ただし床が磨かれている!」
ドランは金翼を畳み、時刻板を胸へ抱えている。軽い乱視のため遠い標識を睨み、誰にも気づかれないよう一歩ずつ近づく。
「字、見えてない?」とハル。
「見えている」
「赤と青、逆に読んだ」
「照明の反射だ」
「眼鏡は」
「必要ない」
「使った方が速い」
「速さの問題ではない!」
「何の問題?」
「……後で説明する」
「後でって便利だな」
最初の障害は、斜度十五度の長い上りだった。
昨日なら金翼は上空を直線で抜け、銀翼は風を滑り、鉄翼は縁の爪掛けへ回った。今日は全員が中央の歩行路へ集まる。
前の一人が遅くなれば、後ろ全員が遅くなる。
速い者は追い越したい。遅い者は追い越されるたび身体を縮める。道幅は四人分あるのに、人は順位を意識すると中央へ寄る。
「左右二列! 速度別に分けろ!」とオルト。
「同じ経路を使う規則です」とティア。
「同じ経路内の列分けだ。禁止か」
「禁止していません」
「なら命令。速行列、壁側。休息列、外側。追越しは声をかけてから」
「今は一つにする」とオルトは言った。
命令は一つだが、列は二つにした。
統一とは、全員を同じ動きへすることではない。互いの次の動きを予測できる状態を作ることでもある。
ティアはその運用を記録した。
次の区画は、風門廊だった。
外壁へ等間隔に並ぶ十二枚の薄い扉が、風向きに合わせて開閉する。飛行者は開いた門を選び、銀翼は風の周期へ乗り、鉄翼は下の保守隙間を通る。今日の指定地上路は、全員が中央六枚を順番に抜ける一本だけだった。
「一枚目、開く。二枚目、閉じる。三枚目――」
エリアが周期を読む。
「全部言わないで」とハル。
「挟まれるわ」
「最初の二枚だけ」
「では、三枚目から自分で見て」
ハルは一枚目を抜け、二枚目の縁へ手を置いた。跳び越えれば早い。規則円が足を床へ残させる。
扉は閉じる前に、蝶番が低い音を一度、風受け布が高い音を二度鳴らす。
「低、一、高、高」
「音で読むの?」とエリア。
「目だと上と下が混ざる」
「記録する。煙中経路へ応用できる」
「何でも授業にするな」
「学校へ入りたいのでしょう」
「入りたいけど、まだ休み時間も知らない」
三枚目を抜けた先で、金翼生が立ち止まっていた。
翼なら風門の上を越えられる。足では扉の閉じる速さへ身体が追いつかない。
「怖い」と彼は言った。
昨日、鉄翼の少年が落ちかけた時には言えなかった形容詞を、別の者が先に使った。
「報告受領」とオルト。「閉鎖周期、四息。次の開放で俺と入る。今は一つにする。足音だけ聞け」
「復唱。足音だけ」
オルトは右足を強く踏み、一定の拍を作った。左肩は動かない。片眼も見えない。その不足を隠さず、他人が予測できる音へ変える。
二人は同じ拍で門を抜けた。
「教官は特別に付き添ってよいのですか」とティア。
「恐怖申告への安全介入。加点も減点もしない」
「他の候補へ同じ対応が可能ですか」
「全員へ同じ教官は無理だ」
「なら――」
「同じ対応ではなく、必要な対応を記録する。俺が足りなければ次は人を増やす」
ティアは板へ書く。
書きながら、風門へ入った。
第一扉。正確。
第二扉。正確。
第三扉の前で、右膝が一拍遅れた。
閉じる扉が制服の裾を挟む。
ティアは左の刃で布だけを切った。身体は傷つかない。黒い目盛り線が一本、途中でなくなった。
「止まって」とエリア。
「続行可能です」
「膝の状態を申告して」
「監督者の個人情報です」
「規則円の術者が転倒すれば、全員の条件へ影響する」
「安全判断は自分で行えます」
「マオにも同じことを認める?」
ティアは答えなかった。
マオが後ろから来た。
「痛み、何段階」
「あなたの尺度は共通規格ではありません」
「私には聞いた」
「医務尺度で二」
「私の五段階なら」
「……三」
「止まりたくない痛み」
「歩行不能ではない」
「私もそう言った」
ティアは目を伏せた。
自分の身体を規則の外へ置けば、規則を課す者だけが例外になる。彼女が最も嫌う形だった。
「右膝、旧損傷。長距離歩行と急着地で増悪。現時点で痛み三。次の休息帯で医務確認を受けます」
声は条文を読む時と同じ拍だった。
恥を隠すためではなく、恥にしないために事実へした。
マオは頷く。
「聞いた」
ハルがティアの切れた裾を見る。
「左右、揃わなくなった」
「試験後に補修します」
「片方短い方が動きやすそう」
「規律制服は左右対称です」
「身体は違う」
「知っています」
その返事は、昨日より少しだけ速かった。
風門廊を抜けると、仮設休息帯がある。
その十六歩上――現在の重力では壁から横へ――公式休憩所が浮いていた。金翼生は昨日なら一息で届いた。今日は規則円に押され、誰も離床できない。
給水槽から水が満ちる音だけが聞こえる。
「全員、使えない」とティア。
「同じ」とハル。
「はい」
「公平?」
ティアは仮設の低い椅子へ座った。右膝へ医務員が冷却布を巻く。公式休憩所には屋根、治療箱、風除けがある。地上の仮設帯は椅子と水だけ。急な雨が降れば濡れる。
「同じ不便を与えることはできます」とティア。「不便をなくしたことにはならない」
「昨日の答えより進んだ」とハル。
「採点をしないで」
「今のは加点」
「不要です」
「善行で違反を消さない人なのに、加点だけ消す?」
「人の言葉を武器へしないでください」
ティアは香辛料の入っていない医務用飴を受け取り、甘すぎる顔をした。すぐ飲み込まず、四つに割ろうとして硬さに負けた。