第34話 第五章「飛ぶなという公平」後編

 五十歩目。

 仮設休息帯。

 マオは止まらなかった。

「使わないの」とエリア。

「まだ痛み三」

「昨日は五十歩で四」

「今日は身体が温まってる」

「申告は」

「三」

「止まりたくない、という定義ね」

「覚えてた?」

「地図に書いた」

 エリアは座れと言わなかった。

「次の休息帯まで四十八歩。途中に低い窓枠が二つ。必要ならどちらを使う?」

「二つ目。最初で休むと再起動が増える」

「分かった。触る時は」

「右の工具帯」

 ハルが横から口を挟む。

「俺は?」

「何が」

「助け要る?」

「まだ要らない」

「分かった」

「……それだけ?」

「要らないって言った」

「本当に何もしないのも腹が立つ」

「難しいな!」

「並んで歩け。話すと歩幅が一定になる」

「最初にそう言え」

「先に聞けって言ったのは私」

「聞いたら答えを増やせ!」

 ハルはマオの右側へ並んだ。

 彼女の左右違う歩幅に合わせ、五歩ごとに少し速度を変える。

「合わせすぎ」とマオ。

「どっち」

「私の遅い方へ全部合わせるな。右は普通に進む」

「置いていかない?」

「身体の中で置いていかないよう調整してる。外から両方遅くするな」

「難しい!」

「だから先に聞け」

 後ろの金翼生が苛立つ。

「道を塞ぐな」

「追い越すなら声」とハル。

「いま言った」

「どっちから」

「左」

「マオ、左いい?」

「一歩寄る。触るな」

 金翼生は追い越した。

 三歩先で、滑った。

 飛べば転倒は失速になる。地面では、失速は膝と顎へ来る。

 ハルが手を伸ばしかける。マオが先に杖を差し出した。

「掴む?」

「……掴む」

 金翼生は杖を掴み、転ばずに済んだ。

「ありがとう」

「次、靴底の粉を落としてから追い越せ」

「はい」

 マオは礼を受け取った後、硬貨を求めなかった。

 助けたのが自分の選択で、貸しにしないと決めたからだ。無料を嫌う人間が、無償を知らないとは限らない。値段を決める権利まで他人に渡したくないだけである。

 第三鐘が鳴った。

 外壁が九十度回転する。

 昨日と違い、全員が接地を強制されていた。

 白い規則文字が足元で光り、身体を壁面から一尺以上離せない。飛行者は反射的に翼を開くが、揚力が生まれる前に光が筋肉へ「下りろ」と命じる。

 百人分の体重が、一斉に新しい床へ落ちた。

 どん、と壁全体が鳴った。

「支持点確保!」とオルト。

「接地を保て!」とティア。

 同じ命令が、違う意味で響く。

 金翼生は手すりへ殺到した。銀翼生は翼を開けず、風へ身体を預けられない。鉄翼生は爪を立てられるが、中央路の表面は飛行靴を傷めないよう滑らかに研磨され、爪掛けが少ない。

 ハルは床へ手をついた。

 跳べば次の梁へ届く。規則円が離床を拒む。身体の中で、いつもの逃げ道だけが閉じる。

「飛ばないって、歩くことじゃないな!」

「今さら?」とマオ。

「落ちる方法が増えた!」

 中央路の先で、三人が折り重なった。

 先頭は金翼生。二人目は銀翼生。三人目は鉄翼の少年。翼も爪も使えず、床の斜面を滑ってくる。

「右へ避けろ!」

 オルトの声。

 右には壁。左には雲海。

 避ける幅がない。

 ティアが刃を床へ突き、身体で止めようとした。右膝へ三人分の衝撃が来る。膝が一度だけ内側へ入った。

 エリアが息を呑む。

「ティア!」

「問題ありません!」

 問題がない声は、問題を隠す時ほど大きい。

 ハルは規則の範囲で走ろうとした。片足を床へ残したままでは間に合わない。

「解除して!」

「全域解除は試験条件を失わせます!」

「人がぶつかる!」

「救難班が――」

 救難班も同じ規則円の中にいる。

 翼を使えない。

 担架を上から降ろせない。

 マオが左足を床へ押しつけた。

「接地、三呼吸」

「個人術は移動補助規程に抵触します!」とティア。

「移動しない。止める!」

 黄白い光が靴底へ集まる。

「足裏の摩擦を一瞬だけ固定する術〈アンカー・ステップ〉!」

 マオの左足が床へ固定された。

 彼女は右手で手すり、左手で救難索を掴む。

「ハル、右の工具帯!」

「持つ!」

「エリア、索を三人の腰へ!」

「描く!」

 エリアの地図槍が空気へ淡緑の輪を描く。実体化した路線が三人の身体を横から支え、ハルはマオの工具帯を掴み、自分の身体を重りにする。

「一呼吸!」

 三人が索へ引っかかる。

「二呼吸!」

 ティアは右膝を床へつき、二本の刃で滑る靴底を受ける。

 左右対称の武器。非対称な身体。

「三呼吸、解除!」

 摩擦が戻る。

 三人は止まった。

「人数!」とオルト。

「六!」とハル。

「負傷!」

「打撲二、膝一、たぶん!」

「たぶんを確認しろ!」

 医務員が徒歩で駆ける。飛べないため、到着まで三十息かかった。

 ティアは立ち上がった。

 右膝を伸ばす瞬間、口元から息が漏れる。

「グランツ生」とリディアの静かな声が風管から届く。「あなたも診察対象です」

「試験責任者です」

「だからです」

「歩行可能です」

「可能と安全を同じ言葉へしないで」

 ティアは返事をしなかった。

 記録板を開き、マオの欄へ筆を置く。

『個人誓術による移動補助――』

「移動してない」とマオ。

「規程では、摩擦、推進、浮揚を含む身体移動補助術の使用を禁じています」

「人を止めた」

「救助成功は加点します。術使用は減点です」

「また別々?」とハル。

「善行で違反を消さない」

「違反で善行を消さない」とマオが続ける。「知ってる。でも、その規則が救助を違反にしてる」

 ティアの左手が止まった。

「規則は、試験条件を揃えるためです」

「揃えた結果、救難班まで飛べなかった」

「想定外でした」

「想定外を助ける学校じゃないの?」

 オルトが二人の間へ来た。

「記録しろ。減点も救助も、規則の失敗も」

「規則の失敗、という判定はまだ」とティア。

「なら事実を書け。救助者が使える能力を、試験規則が禁止した。医務員到着、三十息。解除判断、なし」

 ティアの編み込みが耳へかけ直される。

 彼女は消さなかった。

『救助に必要な個人術を規程が禁止。医務員到着三十息。全域規則、解除せず』

 その下へ、マオの減点を記した。

 マオは仮札を見た。

「失格?」

「総合判定まで保留」

「救ったから通す?」

「それだけで通しません」

「違反したから落とす?」

「それだけで落としません」

「面倒」

「人を測るのは、面倒であるべきです」

 ティアはそう言い、右膝を一度も曲げずに次の監督点へ歩いた。

 ハルはその背中を見た。

「公平って、痛い方へ揃えることじゃないだろ」

 ティアは振り返らない。

「では、何へ揃えるのです」

 問いだけを置いた。

 第四鐘が鳴る。

 再試験は終了した。

 金翼の平均到達時刻は昨日より七分遅れた。

 銀翼は四分遅れた。

 鉄翼は一分早くなった者と、装具補助を失って棄権した者に分かれた。

 無翼のハルは、昨日より二分遅かった。

 全員を同じ道へ置いた結果、順位は変わった。

 公平だったかどうかは、まだ決まらなかった。

 試験後、ティアは医務室へ行った。

 右膝の支持帯を受け取り、申告欄へ自分で書く。

『旧靱帯損傷。飛行時は影響軽微。地上長距離で休息を要する』

「家の記録では完治」とドランが言った。

 会計記録を届けに来ていた。遠くの診療札を読むため、いつもより近くへ立っている。

「訂正するのか」

「学院記録だけ。家へは私から伝えます」

「不利になる」

「不利になる事実を隠して、他人へ申告を求められません」

「立派だな」

「その言い方をやめてください」

「なぜ皆、褒めると怒る」

「褒めれば議論を終えられるからです」

 ドランは白手袋の縫い目を数えた。

「では数字だけ言う。飛行禁止後、金翼の通過率は八十一から四十四へ低下。鉄翼は三十二から三十七へ上昇。ただし装具型による分散が三倍。途中救助は昨日の二件から九件。医務到着時間は平均二十七息増加」

「勘定は」

「合わない。同じ条件にしたら、測る能力そのものが変わった」

 ティアは結果表を受け取る。

「明日の異議審査へ提出します」

「自分の試験案が失敗した証拠だぞ」

「だから提出します」

「侯爵家なら、別紙へ回す」

「グランツ家でも回すでしょう」

「では、なぜ」

「学院の規則を作ったのは家ではない。守る責任も、直す責任も、いまは私にあります」

 ハルが医務室の戸口から顔を出した。

「直すって認めた?」

「調査すると言いました」

「似てる」

「違います」

「違うけど、昨日より近い」

 マオは固定帯の端を自分で切りそろえながら言った。

「第一条さん。私の減点、消す?」

「まだ消しません」

「じゃあ、何を直す」

「救助を違反にする規程を、救助の目的と分けて審査する。あなた個人を通すためでなく、次の受験生が同じ選択をした時の基準として」

「私も審査に入る」

「受験生は委員ではありません」

「当事者なしで決める?」

 ティアは即答しなかった。

 編み込みへ触れ、右膝の支持帯を見て、左手で申請書を一枚取る。

「異議陳述人として席を設けます。議決権はありません」

「発言時間」

「十分」

「十五」

「十二」

「成立」

「契約ではありません」

「でも決まった」

 ただ一つ、数字になったことがある。

 飛ぶなという規則の中で、最も速く人を救ったのは、規則を破って足を止めた少女だった。