第35話 第六章「休憩所は空の上」前編
休む場所は、働く場所より社会をよく表す。
誰が椅子へ座れるか。
水へ手が届くか。
立ち止まった者を怠け者と呼ぶか。
休息を能力の不足として数えるか、安全の一部として数えるか。
王や英雄の像は、たいてい立っている。
座っている人間を記念碑にしない文化では、休むことは歴史へ残りにくい。
王立星航学院の第一外壁には、十三か所の休憩所があった。
その全てが空に浮いていた。
「夜間の試験設備侵入です」
ティアの声が、工具の音を止めた。
学院外壁の裏側。保守用の細い桟橋へ、ハル、エリア、マオ、ロロが並んでいた。並んでいた、と言っても、ロロは床板を一枚外して半身が下へ入り、マオは低い箱へ座り、エリアは壁面図を広げ、ハルは『立入禁止』の札を裏返して読もうとしている。
「これ、何て書いてある?」とハル。
「いま私が言いました」とティア。
「聞くのと読むのは別」
「戻しなさい」
「向き?」
「札と身体の両方」
ティアは右膝へ黒い支持帯を巻いていた。
制服の裾は風門で切れたまま、左右の長さが違う。急な補修を拒み、事故記録として明朝まで残すことにしたらしい。
「侵入じゃない」とロロ。
「許可証は」
「整備士契約」
「対象はゼロスター号」
「学院工具で船を直すなって言うから、自分の工具を取りに来た」
「いま外している床板は学院設備です」
「工具が下に落ちた」
「なぜ」
「床板の隙間を測ってたら」
「それを侵入と呼びます」
ロロは四本の補助腕で、それぞれ違う物を持っていた。
細い回し金、歯車測り、油差し、半分食べた揚げパン。
「その工具、名前は?」とマオ。
「こいつが細麺、こっちが太麺、これは蜜匙、これは夕飯」
「最後だけ本当」
「工具名は覚えにくい。食い物は覚える」
「貸して。太麺」
「一時間三ルク」
「高い」
「装具へ使うなら摩耗する」
「私が研いで返す。二ルク」
「研ぎ角を守れる?」
「十二度」
「十三」
「この刃先は十二・五」
「……二・五ルク」
「半ルク硬貨ない」
「作業五分で払え」
「成立」
ティアが眉間を押さえた。
「学院設備の中で私的取引を成立させないでください」
「税金払う?」とロロ。
「そういう問題ではありません」
「じゃあ何の問題」
「まず、何をしているのです」
エリアが地図を一枚差し出した。
「外壁の実測。休憩所、給水、掲示板、医務箱の位置が、地上経路からどれだけ離れているかを測る」
「許可申請は明朝の異議審査後に」
「その審査へ出す資料よ」
「資料を作るための侵入を、資料の必要性で正当化しないで」
「では、正式な安全点検に変更して」
「学院長権限を使いますか」
「使わない。あなたの権限で」
ティアの親指が規則刃の目盛りをなぞる。
「私に規則違反へ許可を出させるのですか」
「違反を継続させず、いまから条件を決める」
「事後許可は前例になります」
「無許可部分は記録し、処分する。調査部分は正式にする。善行で違反を消さないのでしょう」
ハルが笑った。
「言葉、返ってきた」
「あなたが笑う場面ではありません」
「俺、まだ何も壊してない」
「立入禁止札を裏返しています」
「戻せる」
「戻せる違反も違反です」
ティアは床へ足先で円を描いた。
迷った時の癖だ。実際に術を発動するのではなく、考えの境界を置く。
「第一条、調査範囲は保守桟橋と休憩所支持部。第二条、外壁転換機構へ触れない。第三条、二人一組。単独行動禁止。第四条、異常発見時は修理より報告を優先。第五条――」
「長い」とハル。
「必要なだけあります」
「誰と組む?」
「あなたはルーンベルグ生」
「答えを全部教えられる」
「教えないわ」とエリア。
「今の速さ、信用できない」
「必要な時だけ一つ言う」
「二つ言いたくなったら?」
「口を閉じる」
「できる?」
「やってみる」
「ケルン生はロロ・ピクスと」とティア。
「生徒じゃない」とロロ。
「特別実技登録前です」
「じゃあロロ生?」
「その呼び方、気持ち悪いからやめろ」
「私は単独ですか」とティア。
「二人一組、自分で言った」とマオ。
「監督は組数に含めません」
「監督が転んだら?」
「転びません」
「今日、扉に裾を食われた」
「転倒ではありません」
「じゃあ私と組む。ロロはピコと」
「機械鳥を一人に数える?」
「壊れたら報告する。ロロより規則を守る」
工具箱から真鍮の小鳥が顔を出した。
「ピコ」
巻鍵の尾を鳴らす。
「こいつ、七分ごとに勝手に寄り道するぞ」とロロ。
「おまえより短い」とハル。
ティアは拒否しかけ、右膝の支持帯を見た。
「……ケルン生と行動します。身体へ触れる必要がある場合は先に確認します」
「第一条さん、学習した」
「呼称は学習しません」
外壁の裏側には、表から見えない街があった。
歯車の谷。星脈管の川。鐘を動かす重錘の塔。壁が九十度回るたび、荷重を別の梁へ渡す巨大な蝶番。保守員はそこを『裏町』と呼ぶ。表の学生が空へ向かって英雄になる間、裏では名もない職人が螺子を締めていた。
文明は、正面玄関より裏口で長持ちする。
ハルとエリアは細い桟橋を進んだ。
北の標識は見ない。ハルは匂いを使う。
「油が甘い。機関科側」
「正解」
「一つだけ言う約束」
「正解は一つよ」
「説明が始まりそうな顔してる」
「顔を読まないで」
桟橋が三つへ分かれる。
左は薬草紙の匂い。右は焦げた麦茶。中央は風だけ。
「航路科、救難課、外壁中央」とハル。
「どれへ行く?」
「休憩所は飛行者の平均軌道。風が一番通る中央」
「正解」
「また」
「……進んで」
エリアは口を閉じた。
代わりに、地図筆でハルの選んだ線だけを描く。
中央路は途中で切れていた。
幅三歩の空白。下には回転機構。落ちれば歯車へ巻き込まれる。
「橋、ない」とハル。
「右に保守梯子」
「言った」
「危険情報は言う」
「二つ目」
「これは命に関わる」
「じゃあ数えない」
ハルは梯子を見た。
右へ二十歩下り、回転軸を迂回し、反対側へ三十歩上る。安全だが遠い。
空白の向こうには、古い鎖が一本垂れている。
「跳べる」とハル。
「固定帯」
「肩は使わない。足で鎖を挟む」
「落下した場合、救助経路がない」
「じゃあ梯子」
すぐ決めた。
エリアが目を見開く。
「何」
「あなたなら跳ぶと思った」
「昨日、落ちたら試験が中止になるって言った」
「覚えていたの」
「言われたこと全部忘れるわけじゃない」
「三割くらいかと」
「ひどい」
「四割へ訂正する」
「誤差みたいに褒めるな」
梯子を下りる途中、ハルの視界が揺れた。
回転軸の中央に、北を示す大きな星形が刻まれている。見た瞬間、耳の奥が反転し、足が一段外れる。
エリアは手を伸ばしかけ、止めた。
「右手を持つ?」
「梯子の横桟を指して」
「あなたの右へ半歩。銀の横桟」
ハルは自分で掴んだ。
呼吸を三つ数える。
「一、二、三」
「跳ばない時も数えるのね」
「身体への連絡」
「記録する?」
「そこまで何でも書く?」
「迷った時の手順は航法よ」
「恥ずかしいから小さく」
「地図の字の大きさまで指定するの」
北を見ず、歯車の音を左右で比べる。
大きい音を背にして上れば、反対側へ出た。
ハルは自分で道を選んだ。
エリアは一つだけ手掛かりを渡した。
たったそれだけのことが、二人には新しい訓練だった。
マオとティアは、休憩所の支持梁を調べていた。
マオは梁へ足を乗せ、傾斜を測る。左足、右足、もう一度左。装具の三角骨が小さく鳴る。
「三・二度、外側へ傾いてる」
「設計許容は四度です」とティア。
「許容内なら平ら?」
「安全上の範囲です」
「座る椅子が三度傾いてたら、私は落ちる」
「休憩所床は姿勢制御されています」
「そこへ行けない」
「支持梁の話をしています」
「梁が安全でも、使う道がない」
「問題を混ぜないで」
「分けた結果、片方を忘れるな」
ティアは記録板へ二つの欄を作った。
『構造安全』
『利用到達性』
「これでよいですか」
「私に採点させる?」
「当事者確認です」
「じゃあ、利用到達性の下に『誰が』を足す」
「誰が?」
「金翼、銀翼、鉄翼、無翼。飛べるかだけじゃない。身長、腕の長さ、装具幅」
「項目が増えすぎます」
「人間が多い」
ティアは一瞬、ため息をついた。
紙の余白を定規で四つに分ける。
「身長別は別紙」
「また別」
「忘れないための別紙です」
「番号」
「本紙六番に参照記号を置きます」
「ならいい」
マオは休憩所へ続く古い橋の蝶番を見つけた。
白石へ埋まった二つの金具。錆びているが、切断面は滑らかだ。
「撤去記録は?」
「三十八年前。飛行訓練の障害」
「戻す申請は」
「鉄翼枠設置時に一度。予算不足で保留」
「金翼用の新しい風幕は去年付いた」
「寄付指定です」
「橋へ使えない金?」
「寄付者が用途を限定した」
「それ、誰の便利?」
ティアは答えず、支出欄へ赤い印を付けた。
マオは彼女の右膝を見る。
「痛み」
「二」
「私の五段階」
「二」
「今日は正直」
「申告済みです」
「申告すると痛くなくなる?」
「なりません」
「じゃあ何が変わる」
「他人が、私の速度を前提にしなくて済む」
マオは単眼レンズを上げた。
近くのティアの顔は、レンズなしでも見える。
「それ、私にも言えた?」
「言うべきでした」
「次に言え」
「はい」
ティアが年下へ素直に返事をした。
上下関係は、失われたのではない。必要な時だけ脇へ置かれた。
ロロは一人と一羽で、外壁裏の給水管へ潜っていた。
「ピコ、青線だけ記録。赤は熱管だ。触るな」
「ピ」
「それ赤」
「ピコ」
「名前で返事すんな!」
真鍮の小鳥は青い観測眼を回し、配管へ嘴を当てる。流量、振動、温度が小さな紙帯へ穴として刻まれる。
ノクスは、いつの間にか付いてきていた。
七本並ぶ栓のうち一本を前足で押す。
「触るな!」
栓が開き、ロロの顔へ水が噴いた。
「ノゥ」
「勝ち誇るな!」
水は下へ落ちず、壁の回転用重力溝へ沿って横へ流れた。途中の分岐を一つ、二つ、三つ通り、空中休憩所の給水槽へ上がる。
ロロは濡れたゴーグルを拭いた。
「全給水管、休憩所へしか行ってねえ」
地上経路沿いには蛇口がない。
仮設の水筒を置くたび、人が運ぶ必要がある。飛行者なら補給所へ飛べる。歩行者は水を持って出るか、監督へ頼む。
「設計者、足のあるやつが水を飲むって知らなかったのか」
ピコが紙帯へ穴を開ける。
ロロはその記録を読み、配管の太さを測った。
「流量は余ってる。分岐一本で地上へ出せる。部品代四十八ルク、工賃――学院価格なら百二十」
誰も値段を聞いていない。
ロロにとって、直せるという言葉は費用まで含めて初めて意味を持つ。
彼は床板の裏へ白墨で『水、ここまで来てる』と書いた。
綴りの二文字を間違え、ピコが嘴で一つ突いた。
「おまえ、字を直す機能あったか?」
「ピ」
「たまたまだな」
ノクスは七つの栓から、今度は何も外さなかった。
水を浴びるのが嫌だっただけである。