第36話 第六章「休憩所は空の上」後編
三組は、第一休憩所の真下で合流した。
休憩所そのものへ行くには、飛ぶか、保守用の籠へ乗るしかない。
籠は一人用と書かれていた。
実際には、ロロが床板へ腹這いになり、荷重軸を調べた結果、総重量百八十キロまで耐える。
「一人用って嘘?」とハル。
「人数じゃなく、標準保守員一人と工具四十キロの意味だ」とロロ。
「また標準」
「機械なら重さが分かればいい。人間を一人で測るから変になる」
「俺とエリアで百二十くらい」
「私は五十二」とエリア。
「俺、五十五」
「上着と鞄で五十八」
「何で知ってる」
「医務記録」
「見るなよ!」
「治療補助で閲覧権がある」
「便利な権限」
「籠の使用許可は出しません」とティア。
「何で」とハル。
「錆びた主索、検査期限超過、夜間風速。三つ」
「じゃあ飛んで」
「調査目的で飛行許可を出せば、到達できない問題を飛行者だけで確認することになります」
「歩けない」
「だから明朝、正規保守員と新しい索を」
ロロが古索を指で弾いた。
「主索は錆びてねえ。赤錆は外皮だけ。芯は生きてる。期限超過は紙。風速は籠の姿勢羽を直せばいける」
「いける、を安全証明にしないで」
「荷重試験する」
「どうやって」
ロロは工具箱から砂袋を出した。
一つ、二つ、三つ。合計百四十キロ。さらにドランの持ってきた帳簿箱二つを載せる。
「私の資料を重りにするな!」
「中身は複写だろ」
「紙は重りではない!」
「重量のある物は重りになる」
籠を半分まで出し、戻す。
索は伸びない。姿勢羽をピコが記録する。風圧で二度揺れたが、許容角内。
ティアは記録を読む。
「一回の試験では不足です」
「二回やった」とロロ。
「いま私が見たのは一回」
「見る前に一回」
「記録は」
「ピコ」
機械鳥が紙帯を吐いた。荷重、揺れ、索音。字ではなく穴なので、綴り間違いがない。
ティアは長く黙った。
「調査者二名。命綱二系統。途中停止位置を三か所。風速上昇で即時帰還」
「許可?」
「限定許可です」
「誰が行く」とハル。
「私と――」
エリアが言いかける。
「先に聞け」とマオ。
全員が黙った。
マオが肩をすくめる。
「行きたい人に」
「行きたい」とハル。
「私も」とエリア。
「二人」とティア。
「あなたは?」とマオ。
「監督で残ります」
「膝が痛いから?」
「籠の荷重を減らすためです」
「理由を分けろ」
ティアは一度、目を閉じた。
「膝の状態から、揺れる籠での着地を避けます。監督役も必要です」
「聞いた」
ハルとエリアは籠へ乗った。
命綱を二本。ハルの左肩へ負担が来ないよう腰と腿で固定する。エリアは白傘を畳み、地図槍を籠の外へ出さない。
「出すぞ」とロロ。
「一、二、三」
「落ちる時だけじゃないの?」とエリア。
「今は落ちるかもしれない」
「縁起が悪い」
「身体への連絡」
籠が壁を離れた。
一歩。
二歩。
十六歩。
歩いては渡れない距離が、ゆっくり縮まる。
下には雲海。上には学院の塔。夜の窓へ学生の灯が並び、寮の洗濯物が風に揺れる。食堂の煙突から、豆煮と焼きパンの匂いが来た。
「学校って、夜も生きてるんだな」とハル。
「人が住んでいるもの」
「俺、まだ外側」
「仮受験生としては内側よ」
「門には落ちた」
「異議審査中」
「どっち」
「境界の上」
「地図屋らしい答え」
籠が風で揺れた。
エリアの左肺が浅くなる。白い指が籠縁を握る。
「休む?」とハル。
「籠でどうやって」
「話さない」
「呼吸は話さなくてもするわ」
「じゃあ、ゆっくり」
「命令?」
「相談」
「採用」
ハルは黙った。
エリアは四息で吸い、六息で吐く。
人を助ける方法が、何かすることとは限らない。余計な言葉を止めることが、足場になる時もある。
休憩所へ着いた。
白い円盤は、下から見たより広い。金翼用の翼掛け、風向計、給水槽、治療箱。掲示板は床から百六十センチの高さにあり、立った飛行者の目線へ傾いている。
エリアが座る。
座った高さからは、掲示の下半分しか見えない。
「マオなら文字の上端しか見えない」とハル。
「単眼レンズを上げても、首を反らす必要がある」
「休む場所なのに、読むと疲れる」
給水栓は翼掛けの反対側。籠が着く位置から、円盤を半周しなければならない。
治療箱の開閉紐は頭上。
椅子は固定され、全て同じ高さ。
「あるのに使えない物ばっかり」
「使える人には、よくできている」
「それが困るんだな」
「ええ。誰にも使えないなら、すぐ壊すか直す。誰かには便利だから、便利な人が『問題ない』と言える」
ハルは給水槽の裏へ回った。
古い引っかき傷がある。爪の跡ではない。工具で刻んだ短い線が、五本ずつ束になっている。
「何これ」
「保守員の点検回数。表の記録より多い」
「休憩所に入れるの、金翼だけじゃない」
「保守員は籠で来る」
「じゃあ橋がなくても困らないと思った?」
「保守する人は仕事として危険を引き受ける。受験生が使えないこととは別」
「別だけど、裏では誰かが毎回来てた」
円盤の裏面には、表から見えない低い手すりがあった。籠で来る保守員用だ。
低く、太く、握りやすい。
「こっちの方がマオに合う」
「利用者を想定すると、形が変わる」
「表は飛ぶ人。裏は直す人」
「どちらも人なのに、同じ設備が別の顔を持っている」
ハルは手すりの角へ赤い糸が絡んでいるのを見つけた。古い安全索の切れ端。先に結び目が残る。
「持って帰る?」
「物証として記録してから」
「一つだけ言う約束」
「それは道案内」
「分類で勝つな」
エリアは糸の位置を描き、ハルに採取させた。
自分で全部しない。彼ができる作業を残す。
戻りの籠で、姿勢羽が一度引っかかった。
籠が三十度傾く。
「停止!」とティアの声が下から飛ぶ。
ロロが巻上げ機を止める。
エリアは槍へ手を伸ばさない。狭い籠で広げれば、索を切る危険がある。
「右上に整備索」と彼女。
一つだけ手掛かり。
ハルは見た。
右上。短い鎖。届かない。
「もう一つ」
「籠は左が重い」
ハルは右へ身体を寄せる。傾きが十五度へ戻り、鎖が近づく。
右手で掴み、姿勢羽へ足を伸ばした。
「触っていい部品?」
「黄色い板だけ。赤線は固定軸」
「二つ言った」
「命に関わる」
黄色い板を蹴る。
羽が開き、籠が水平へ戻る。
下からマオの声。
「無事?」
「二人!」とハル。
「人数じゃない!」
「怪我なし!」
「最初からそう言え!」
オルトがいない場面でも、点呼の言葉が残っていた。
教えるとは、自分の声がない場所で誰かが使える形を残すことである。
籠が桟橋へ戻る。
エリアが降りた瞬間、踵の痛みで身体が揺れた。
ハルは手を出さずに聞く。
「どこ持つ?」
「左肘。軽く」
「持つ」
エリアは一秒だけ体重を預け、すぐ離れた。
マオが見ている。
「学習した」とハル。
「一回で自慢するな」
「第一条さんより早い」
「比較対象にしないでください」とティア。
休憩所へ行くための短い冒険は、終わった。
だが、その十六歩は、地図の上で数字以上の距離になった。
エリアが実測線を描く。
ハルが歩数を言う。
「外門からここまで、地上路で四百三十二。昨日の鉄翼縁路なら五百十一。空を直線なら二百七十くらい」
「二百六十八」とエリア。
「言わない約束」
「測定値は共同資料」
「それ、便利な例外」
「別条件よ」
マオが橋の蝶番を示す。
ロロが給水管図を広げる。
「橋は戻せる。水も出せる」とハル。
「技術的には」とロロ。「金があれば」
「いくら」
「十三か所全部で、橋が――中古材なら四千、地上蛇口六百、掲示板移設が二百。安全検査、申請、俺の高級工賃を足して」
「高級を自分で言うな」とマオ。
「安く言う職人は材料で抜く」
「私は抜かない」
「おまえはまだ職人賃を取らなさすぎ」
「奨学金ある」
「奨学金は仕事の値段じゃねえ」
マオが口を閉じた。
無料を嫌う彼女が、自分の技術だけは安く扱っている。
「装具の調整、いくら払えばいい?」とロロ。
「さっき二・五ルク分、工具借りた」
「もう七分作業した。二分超過」
「請求する?」
「逆。おまえの労働が余ってる。俺が払う」
「いらない」
「無料は借りだろ」
「……一ルク」
「安い。二」
「払う側が値上げするな」
「成立」
硬貨が一枚ずつ交換される。
金額より、仕事が仕事として数えられたことに意味があった。
ティアは全資料を床へ並べた。
休憩所十三。
給水十三。
医務箱十三。
掲示板二十六。
全てが、外壁から十六から二十二歩離れた空中にある。
点を結ぶと、一本の曲線になった。
「金翼の平均飛行軌道」とエリア。
「正確には、百七十二年前の標準者へ今の風量補正を掛けた軌道」とドラン。いつの間にか帳簿を持って来ている。
「歩行路へ一つもない」とハル。
「仮設を除けば」とティア。
ロロが古い設計図を床へ広げた。
「こっち、休憩所が壁から十二歩。現物は十六から二十二。増築で壁の厚みが変わってる」
「縮尺を合わせて」とエリア。
「合わせた。合わねえ」
現在の到着記録図を重ねる。
休憩所の位置は古図と同じ点に印刷されている。だが、実物は外へ移されている。地上経路は増築で長くなったのに、記録上の距離は変わっていない。
「等価航程で縮めたから」とドラン。
「それだけではない」とエリア。
彼女は古図の端と、現在図の内門を合わせた。
外門がずれる。
外門を合わせれば、内門がずれる。
「同じ壁の地図なのに、両端が同時に一致しない」
「地図が伸び縮みしてる?」とハル。
「現在図は、物理距離ではなく到着時刻で描かれている。金翼標準者が一分で進む距離を、どの区画も同じ長さへした」
「時間の地図」
「一人の時間の地図よ」
エリアは実測図を三枚作った。
空を進む金翼の時間。
風路を使う銀翼の時間。
石を進む鉄翼と無翼の時間。
三枚を重ねる。
休憩所は金翼図では等間隔。
銀翼図では間隔が不規則。
地上図では、疲労が最大になる上りの前後に一つもない。
「同じ設備が、人によって違う場所にある」とハル。
「場所は同じ」とティア。
「届くまでの時間が違う」
「だから、使える場所としては違う」とエリア。
ティアは膝の支持帯を締め直した。
「昨日まで、私は休憩所を十三あると数えていました」
「いまは?」とマオ。
「金翼へ十三。銀翼へ七。鉄翼へ、実質一。無翼へ零」
「数え直した」
「はい」
外壁の奥で、古い鐘機構が一度鳴った。
正刻ではない。保守員が重錘を試した音だった。
エリアは三枚の地図を見た。
縮尺が違う。
距離が違う。
休む場所が違う。
それでも学院の到着記録では、全員が同じ六百八十歩を進んだことになっている。
「到着記録を、実距離へ戻す必要がある」とエリア。
「戻せる?」とハル。
「元の通過時刻が残っていれば」
ドランが帳簿をめくる。
「外門と内門の時刻はある。途中印は課程ごと。だが『到着』欄は受付完了だけ」
「青線を越えた時刻は?」
「今年から私が書いた。過去は一部の異議票だけ」
「足りない」とハル。
「足りないから、分かることがある」とエリア。
「何」
「学院は、受験生がどこで待ったかを測る必要があると思っていなかった」
記録されない時間は、存在しなかった時間になる。
休めなかった場所は、休憩所があったことになる。
歩いた千二百歩は、飛べば六百八十だったと縮められる。
古い設計図と現在の到着記録は、縮尺が一致しない。
それは製図上の誤差ではなかった。
片方が建物を描き、もう片方が「標準とされた一人の人間」を描いていたからである。