第150話 第三章「最初に受け取る権利」後編
第二受領者、フェン・オルタは、何度も時計を見た。
小柄な男で、指先へ樹脂が付かないよう銀の指鞘をはめている。盗難申告を出した本人。資料室へ入る前から「私は被害者だ」と六回言った。
「七回目」とセレナ。
「何が」
「被害者という自己申告」
「数える必要が?」
「反復は事実です」
「私は権利を奪われた!」
「具体的に」
「バルドから買った第一受領順位を、モロウ・ナインへ売る契約を撤回した。印が乾く前だ。にもかかわらず、順位が移った」
「撤回方法」
「印面へ水を一滴戻し、契約板を二者の前で割る」
「実行した?」
「水を戻した」
「板は」
「モロウが持ち去った」
「二者の前で割っていない」
「相手が逃げたからだ!」
「撤回完了ではない」
「だから盗難だ!」
セレナは声量を変えない。
「モロウ・ナインの外見」
「灰色の外套。帽子。顔は薄布」
「身長」
「私より高い」
「どの程度」
「頭半分」
「声」
「若い。いや、加工されていた」
「利き腕」
「右で印を押した」
「歩き方」
「見ていない」
「印環」
「黒い括弧」
セレナの筆が止まる。
「形を」
フェンが紙へ描く。
向かい合う二本の黒い線。
文字を囲う括弧に似ている。だが右側だけ、下端が短い。
「組合印ではない」とベルナ。
「競売院の匿名仲買枠に似ています」とセレナ。
「匿名枠は円の中に番号」
「この内側は」
「空だった」
「空欄を印に?」とハル。
「名前を隠す時、普通は別の番号を置く」とエリア。「空白をそのまま記号にするのは、隠すこと自体を示す」
「目立つ隠れ方」
「目立てば、誰も中身がないとは思わない」
ミラがフェンの指鞘を見る。
「水を戻したのは何分」
「二十一分」
「印を押したのは十四分」
「そうだ」
「七分濡れてた」
「海霧の側だった。乾燥卓が冷えていた」
「モロウは待った?」
「待たない。次の契約へ行った」
「自分が権利を受け取る前に?」とハル。
「予約売買は普通です!」
「普通、逃げ足まで予約する?」
「知らない!」
ノクスがフェンの靴を嗅ぐ。
樹脂臭へくしゃみをした。
二本尾が一緒に丸くなる。
「決定打にならない」とセレナ。
「本人、傷つくぞ」とハル。
「ナァ!」
「ほら」
「樹脂臭が強すぎて、破約残香を分けられないという観測です」
「翻訳した」
「推定です」
ノクスはセレナの裾を噛んだ。
第四契約の名義人、サディ・グレイスは会場にいた。
受領代行を仕事にする若い女で、髪を左右違う高さへ結び、胸元へ受信器を下げている。受信器は小さな銀の手形。遠隔で受領順位を受け取る術具だった。
「第五契約のL・Oへ売った」とサディ。
「本人を見たか」とセレナ。
「見てない。伝羽と受領器だけ」
「代金」
「全額、競売院預かり」
「来歴説明」
「付属板を送った」
「七名条項を含む?」
「含む。少なくとも、私が送った時は」
「証拠」
サディは受信器の裏を開いた。
細い紙帯が巻かれている。
羽根に記録して飛ばす通信〈メッセージ・フェザー〉の送信控え。
九の鐘十六分。
宛先、モロウ・ナイン。
内容、第四契約条件全文。
九の鐘十八分。
宛先、L・O。
内容、第五契約条件。
「全文」とセレナ。
「自動複写」
「二つ目、短い」とエリア。
第四契約の控えは、紙帯を三周している。
第五は二周半。
「何が減った」とカイル。
「圧縮書式です」とサディ。
「誰が圧縮した」
「受信先指定。長い付属条件を共通参照番号へ置き換えた」
「参照先」
「モロウ・ナインの保管庫」
「存在しない仲買人の?」
「匿名枠には倉庫がある」
「個人はいないが、口座はある」とミラ。
「そう」
「誰が開いた」
「競売院の旧規則。船、組合、共同体、仮名でも取引できる」
「署名できない人も?」
「証人が二人いれば」
「パルも」
「年齢登録がなくても、拒否印は持てる」
ミラは一瞬、黙った。
自由港で、契約できない者を制度から落とした記憶がある。
匿名枠は悪用できる。だが名を出せない者を守ることもある。
「枠を消せば解決じゃない」とハル。
「誰も消すと言ってない」
「顔」
「私の顔を読むな」
「ジルがよくやる」
「悪い手本」
「良い悪口だな」とジル。
セレナは第五契約の紙帯を光へ透かした。
「共通参照番号、MN―九―終」
「終?」とロロ。
「登録簿に、その枝番号はありません」とベルナ。
「作られた?」
「正規の親番号へ、未登録の終端枝を足している」
「つまり」とハル。
「正式な家の住所に、存在しない部屋番号を書いたようなものです」とエリア。
「伝羽は届いた」
「家の中の誰かが、部屋を作った」
ロロが紙帯の端をゴーグルへ近づける。
「これ、羽根粉が逆だ」
「何が」とセレナ。
「普通、伝羽は行先の風紋を表へ焼く。これは裏側に残ってる。受信してから別方向へ飛ばした」
「転送?」
「一回」
「行先を追える?」とハル。
「羽根があれば。控えだけじゃ無理」
ミラがサディを見る。
「本体は」
「飛んだ」
「戻らない?」
「伝羽は戻す契約でなければ」
「誰が受け取った」
「L・O」
「どこで」
「非公開」
「有効になってれば開示」とミラ。
「そうです」
セレナは五つの契約を、床の四札へつなぐ。
物体は、まだ灰風便。
保管責任は、ユラたちと競売院。
輸送責任は、灰風便。
受領順位だけが、バルド、フェン、モロウ、サディ、L・Oへ移る予定だった。
「予定」とセレナ。
「まだ確定しない?」とカイル。
「押印順だけでは、誰がいつ権利者だったか分からない」
「乾いた順」
「はい」
「全部、同じ卓じゃない」とエリア。
「第一は中央温卓。第二は北卓。第三は西の海霧卓。第四は南の体温卓。第五は移動中」
「移動中?」
「サディが受信器を持って、競売院東廊下を歩きながら押した」
「鯨が曲がった時刻を」とエリア。
ベルナが航路鐘の記録を出す。
九の鐘十六分。
ラナ、右旋回開始。
二十二分。
上昇風へ乗り、背面温度上昇。
二十五分。
短い海霧通過。
セレナは時刻を見つめる。
第三契約は西の冷えた卓。
第五契約は東廊下を移動。
鯨の旋回で、風上と風下が入れ替わる。
「押した順は、作られた順です」とセレナ。
「乾いた順は、鯨と風が決めた」とジル。
「ラナが所有者を選んだ?」とハル。
「選んでない」とサーガの声。
資料室の入口に、鯨守が立っていた。
「ラナは人の紙を読まない。風へ腹を向けただけだ」
「でも結果は変わった」とハル。
「人が、鯨の動きを契約へ入れた」
「じゃあ責任は」
「鯨ではない」
サーガの長杖が床へ触れる。
「鯨は所有者を覚えない」
その言葉を、セレナは証羽へ記録した。
比喩としてではない。
ラナが契約の当事者ではないという事実として。
「乾燥順を復元します」とセレナ。
「どうやって」とロロ。
「印の縁、卓の温度、旋回、湿度」
「再現装置なら作れる」
「許可を取ってから」
「作ってから見せた方が早い」
「その発言を記録しました」
「今のなし!」
「撤回は記録後です」
「乾く前なら!」
「会話に樹脂はありません」
「不公平!」
ハルは五枚の契約板を見下ろす。
「モロウ・ナインは、人じゃない。でも誰かが使った」
「匿名枠です」とセレナ。
「隠れるための場所」
「隠れなければ生きられない者にも必要です」
「今回の誰かは」
「まだ判断しません」
「でも存在しない仲買人が、権利を渡した」
「正確には、存在する匿名取引枠を、存在する誰かが操作した」
「長い」
「消してはいけない差です」
資料室の窓外で、白い伝羽が一枚、風を逆らって飛んだ。
普通の伝羽は、ラナの進行方向へ風路を借りる。
その一枚だけが、背後の霧へ向かっていた。
見えたのは一瞬。
誰も、まだ追えなかった。