第152話 第四章「ミラの偽物目録」後編
フェン・オルタは、偽物目録を受け取るなり怒った。
「塩霧洗浄だと! 金属疲労が起きたら誰が払う!」
「検討中」とハル。
「実行する気か!」
「小さい字」
「読める!」
「読んで怒った」
「当たり前だ!」
「じゃあ誰かに相談する?」
「お前、私を試しているな」
「俺は反対してる」
「何に」
「試すこと」
「ならなぜ持ってきた!」
「監視」
「誰を!」
「俺たち」
フェンは理解を諦めた顔をした。
人は理解できない相手を、愚かか危険のどちらかへ分類したがる。
ハルは両方へ入ることが多い。
「一刻後に訂正が来る」と彼は言った。
「何だと」
「その間、行動は自由。でも現物へ命令は届かない。目録だけ」
「罠だと認めた!」
「認めない方が嫌だから」
「お前、密偵に向いていない」
「良かった」
フェンは目録を机へ投げた。
伝羽は出さない。
三枚目、四枚目、五枚目。
サディは目録の差分を確認し、質問を五つ書いた。
匿名枠管理人は受領印だけ返した。
競売院内務は、到着時刻変更を航路課へ照会した。
最後の一枚。
受信塔書記へ渡す目録には、受領試験を七音から無音振動へ変えると書かれている。
受信塔は、ラナの尾に近い高台にあった。
高台といっても建物ではない。背びれの先へ布帯を回し、その上に三本の細い柱を立てた塔。羽根に記録して飛ばす通信が、風路へ入る前の発信点である。
塔へ登る階段は、ラナの呼気で一段ずつ傾く。
「右、三十七」とエリア。
「数えてる?」
「歩数」
「階段、今増えた」
「傾いただけ」
「増えた感覚」
「感覚で階段数を変えないで」
「地図屋、上!」
ジルの声が下から飛ぶ。
「呼気終わる! 次、足場が戻る!」
「受領!」
エリアがハルの腕をつかむ。
足元の階段が平らへ戻り、二人の身体が一段分前へ押し出される。
ハルは左肩を使わず、右手で手摺を取った。
「三回」とエリア。
「回してない!」
「引いた」
「回数に入れる?」
「痛みは」
「一」
「では記録だけ」
「増えた」
「何が」
「心配の細かさ」
「あなたの申告が雑だからです」
受信塔書記は、浅黒い肌の青年だった。
耳へ三つの小鈴を付け、机には色でなく切れ込みの違う旗を並べている。
目録を受け取る。
角の折り方を指で確かめる。
「受領試験変更。誰へ転送」
「登録関係者全員へではありません」とエリア。「あなたの内部確認用です」
「七音を無音へ。受信器側の調整が要る」
「まだ実行しない」
「検討なら、外へ問い合わせない」
「理由は」
「問い合わせた記録が価格になる」
青年は目録を引き出しへ入れた。
彼自身は伝羽を出さない。
ハルは塔の外を見る。
ラナの背。町。四枚の翼。後方に薄い霧。
「何も起きない」と言う。
「罠は起きない方がいい」とエリア。
「起きないと調査が進まない」
「進むことと、正しいことは同じではありません」
「分かってる」
「待ちます」
「一刻?」
「一刻」
ハルは待った。
三十秒。
一分。
二分。
「長い」
「まだ二分」
「地球だと信号二十回分」
「信号?」
「道を止める光」
「道が光で命令するの?」
「止まらないと車に轢かれる」
「それは選択肢?」
「生きたいなら」
「強い命令ね」
「でも全員へ同じ」
「歩く速さが違っても?」
ハルは返事を止めた。
ティアとマオの顔が浮かぶ。
「点滅する時間、変える場所もある」
「誰が決める」
「町」
「本人は」
「……多分、会議」
「多分」
「地球も細かく見ると知らないこと多いな」
「帰った時、調べることが増えました」
「一緒に?」
エリアの地図針が、一度だけずれた。
「航路ができれば」
「できる」
「断言」
「選ぶつもりの共有」
「私の言葉を安く使わないで」
「使用料?」
「ミラの真似をしない」
七分が過ぎた。
受信塔の青年は動かない。
だが塔の最上部で、一本の羽根が震えた。
「今の」とハル。
「受信待機羽」とエリア。
白い羽根が、柱から外れる。
普通はラナの進行方向へ向く。
風路を借り、前へ飛ぶ。
その羽根は、後ろを向いた。
霧へ。
「書記!」
青年が立つ。
「私は出してない!」
「自動転送」とエリア。
机の裏で、銀の受信器が一度だけ光った。
七本の細線。
偽目録の六枚目を読んだ誰かが、受信塔へ問い合わせを返した。
そして塔は、その返事をさらに後方へ転送した。
「追う!」
ハルが階段へ走る。
「待って、羽根を止めない!」
「見失う!」
「行先を見る!」
エリアが路図を開く。
淡青の線が、飛ぶ羽根の下へ伸びる。
羽根は速い。
ラナの尾を越え、霧へ入る。
「距離、三百!」
「ゼロスター号!」
「接舷解除に六分!」
「遅い!」
「だから待つ作戦だったでしょう!」
塔の鐘が、別の音を鳴らした。
低く、二回。
受信ではない。
接近警報。
『灰風便、予定変更。輸送小艇、南東より接近』
「一刻早い?」とハル。
「偽目録じゃない」とエリア。「本物の航路信号!」
『前方雷雲のため、到着を繰り上げる。受領台、中央』
市場の人々が空を見る。
南東。
雲の切れ間から、小さな白い艇が現れた。
人は乗っていない。
骨白の箱を中央へ固定し、四枚の短翼だけで飛ぶ保管小艇。
「王獣鈴の欠片」とハル。
「現物確認前」とセレナの声が塔下から届く。「断定しない!」
「箱!」
「それなら観測済み!」
小艇は中央受領台へ向かっていた。
一度、翼が傾く。
進路が変わる。
「北じゃない」とエリア。
「南でもない」
「受領台を外れてる」
小艇の船首に、銀色の手形が浮かんだ。
サディの受信器と同じ形。
ただし指が長く、手首へ黒い括弧印がある。
「遠隔受領」とエリア。
「誰が!」
「後ろ!」
小艇は、ラナの進行方向へ来た勢いを失わないまま、尾側へ曲がった。
霧へ飛んだ伝羽と同じ方向。
その時、ラナが呼吸を変えた。
サーガの長杖が甲板を打つ。
「吸気が早い!」
町の布旗が、全て前へ倒れる。
ラナの背に二つ並ぶ大きな噴気孔。
片方の縁が開き、空気を飲み始めた。
保管小艇は、その真上にいた。
「避けろ!」
ハルが叫ぶ。
無人艇は答えない。
銀の手形が霧の方向を指したまま、吸気へ横から引かれる。
一枚目の翼が折れる。
二枚目が噴気孔の縁へ当たる。
骨白の箱が、固定帯の中で跳ねた。
「エリア、道!」
「届かない!」
「ロープ!」
「三百歩!」
ハルは塔の手摺へ足を掛ける。
一、二――。
三を言う前に、エリアが赤いマフラーをつかんだ。
「飛べば死ぬ!」
「箱が!」
「あなたも箱も、届かない!」
「放す!」
「放さない!」
左肩へ、布が食い込む。
痛み、三。
ハルは跳べない。
小艇が噴気孔の縁へ半分落ちる。
ミラが下の街路を滑ってくる。
義足の小帆を開き、手を伸ばす。
移動物から勢いを盗む風術。
青い輪が、彼女の掌へ生まれかけた。
「距離が遠い!」とジル。
「分かってる!」
「無理に盗れば呼吸を盗る!」
ミラの手が止まる。
小艇の勢いと、ラナが吸う空気の勢い。
どちらを盗むか、触れる前には分けられない。
鯨を止めれば、町ごと傷つける。
「くそっ!」
小艇が消えた。
白い船尾。
折れた翼。
骨白の箱。
全て、ラナの噴気孔の内側へ吸い込まれる。
直後、孔が閉じた。
町の旗が戻る。
市場だけが、何事もなかったように一段持ち上がった。
サーガは長杖を皮膚へ当て、目を閉じる。
「内側で当たった」
「どこ」とハル。
「まだ浅い。だが次の呼気で動く」
「取りに行ける?」
「ラナを傷つけないなら」
「傷つけない」
「先に言う者ほど、近道で忘れる」
ハルは噴気孔を見る。
来ていない宝は、ようやく到着した。
到着した瞬間、誰かの権利へ引かれ、生きた鯨の呼吸へ落ちた。
偽物目録は、外へつながる経路を一つ見つけた。
その代わり、本物の箱を見失った。