第153話 第五章「盗まれたことになった宝」前編
盗難届は、失った物を書く書類である。
財布。
鍵。
指輪。
船。
ところが人間は、目に見えない物も失う。
信用。
名前。
帰る場所。
先に選ぶ権利。
目に見えない物を失った時、書類は不自由になる。
欄へ入る語がないからである。
そこで人は、近い言葉を借りる。
奪われた。
消えた。
盗まれた。
近い言葉は理解を助ける。
同時に、本当は何が失われたかを隠す。
「申告書を最初から読みます」
「また?」とハル。
「最初からです」
「さっき読んだ」
「声に出して」
「字、小さい」
「私が読みます」
「じゃあ俺いらない?」
「聞いてください」
「役割、耳」
「普段より安全です」とエリア。
「言い方」
競売院の小会議室。
噴気孔へ保管小艇が落ちてから、二十分。
ラナの呼吸は安定している。
サーガの診断では、小艇は第一気道の外袋へ引っ掛かっている。次の大きな呼気まで約一刻。救出準備はロロ、ジル、鯨守が進めている。
ハルは今すぐ走りたかった。
走る先が生物の内側である以上、先に呼吸を理解しなければならない。
待つ代わりに、セレナの朗読を聞く。
「『第一受領順位が、本人の認識しない契約発効により失われた』」
「そこ」とセレナ。
「どこ」
「何が失われたと書いてありますか」
「第一受領順位」
「欠片は」
「書いてない」
「箱」
「書いてない」
「盗難」
「言ってない」
ハルは申告書を見直す。
「盗まれたって、ベルナが言った」
「緊急告知用の短縮語です」とベルナ。
競売主は十本の印環を外し、卓上へ並べていた。
責任者が装飾を外す時、実務の顔になる。
「市場で『受領順位の認識外発効による喪失』と叫んでも止まりません」
「『権利が勝手に移った』なら」とエリア。
「半数は契約の値上がりと思います」
「『盗難』なら全員止まる」とミラ。
「だから使いました」とベルナ。
「嘘?」とハル。
「広い意味では盗難の疑い」
「狭い意味では」
「現物は当時、輸送中」
「言葉で事件が変わった」
「事件は同じです」とセレナ。「見る側――市場の理解が変わった」
「今、言い直した?」
「していません」
「証羽」
「自分の発言は自分で記録できます」
「強い」
セレナは申告書へ戻る。
「申告者フェン・オルタは、品を失ったと一度も書いていません」
「本人は被害者って七回言った」とハル。
「八回です。先ほど追加」
「増えた」
「失ったのは、自分が第一受領者になるはずだった時間」
カイルが腕を組む。
「権利を自分でモロウへ売った」
「撤回しようとした」とエリア。
「完了しなかった」
「本人の認識では、印はまだ濡れていた」
「実際は」
「不明です」とセレナ。「その不明を確定するのが次の作業」
ミラは申告書の末尾を指で叩く。
「時刻。九の鐘二十五分」
「はい」
「フェンは何を見て、その時刻に失ったと分かった」
「受領順位板」
ベルナが壁の小窓を開く。
競売院中央に、五つの名を並べる公開板がある。
契約が発効するたび、現在の第一受領者だけが金色に光る。
「二十五分、表示がフェンからL・Oへ移った」とベルナ。
「途中のモロウとサディは」とハル。
「一呼吸未満」
「一呼吸?」
「三つの契約が、ほぼ同時に発効した」
「順番を飛ばした?」
「法的には通った。表示が追いつかなかっただけ」
「何で」
「乾燥順が押印順と違った可能性があります」
セレナはまだ断定しない。
「二十五分に最終受領者が表示された。フェンは同時に停止申請」
「停止はいつ」とミラ。
「緊急鐘を三回、関係者へ確認羽、競売院封印。二十五分に受付、三十二分に発効」
「七分」
「はい」
ミラの風鈴が鳴る。
「L・Oが有効な受領者だった時間」
「七分間」
「その間なら、何ができる」とカイル。
ベルナはサディの銀手形を借り、机へ置いた。
「遠隔で権利物を受領する術〈リモート・ハンド〉」
銀手形が開く。
掌の中央へ小さな文字が浮かぶ。
『有効受領者の印へ、輸送物の受け渡し先を合わせる』
「物を飛ばす?」とハル。
「飛ばしません」とサディ。
受領代行の女は、第五契約の写しを抱えて会議室へ来ていた。
「日用品で見せる」
彼女は扉外へ声を掛ける。
「パンを一つ。受領番号、三十二」
しばらくして、廊下の向こうから小さな配達盆が滑ってきた。
盆には丸パン。
車輪はない。床下の風索へ沿い、指定された受領台へ進む仕組みである。
サディが銀手形へ自分の印を置く。
配達盆の前に、小さな手形が浮かんだ。
盆は会議室の入口で止まらない。
右へ曲がり、サディの席へ来る。
「これが遠隔受領」とサディ。
「パンが消えて、手に出るわけじゃない」とハル。
「輸送器が行先を変える」
「遠隔って、遠くから道を曲げる」
「有効な受領印へ」
「壁があったら」
「止まる」
「海へ落ちたら」
「沈む」
「危険だ」
「だから輸送責任の同意が要る」
「今回、灰風便は同意した?」とセレナ。
「標準遠隔受領へは」とベルナ。「競売院半径五百歩以内、認証受領台間のみ」
「小艇は五百歩を越えた」とエリア。
「受信印が移動していた」
「どこへ」
「不明」
「霧」とハル。
「観測では、尾側の霧方向」とセレナ。
サディは銀手形を閉じた。
「遠隔受領は、契約にない条件を作れない。第一受領権が有効。輸送物番号が一致。受信器が認証されている。それだけ」
「それだけで小艇を鯨の外へ引ける?」
「本来は引けない。半径制限がある」
「破った?」
「受信器が、競売院の中にあると認証させた」
「外なのに」
「認証印だけ中」
「受信塔」とエリア。
偽目録へ反応した銀の受信器。
塔から後方へ転送された伝羽。
「受信塔が、中継点になった」とハル。
「塔は競売院内」とサディ。「塔から先を、別の受信器へ転送した」
「契約の住所だけ中で、手は外」
「正確ではありませんが、近い」
「近いならいい」
「セレナが嫌がるぞ」とカイル。
「嫌がりません。近似として記録しなければ」
「記録しないなら?」
「会話上は許容」
「細かい許可」