第167話 第十二章「霧の砲口」前編
命令は、人より長く生きる。
王が死んでも勅書は残る。
将軍が敗れても進軍表は残る。
戦争が終わっても、誰も止めなかった見張り鐘は、風が吹くたび敵襲を告げ続ける。
人は言葉へ目的を込める。
制度は言葉から目的を削り、手順だけを残す。
機械は、削られたことに気づかない。
誰が命じたか。
なぜ命じたか。
いつまで従うか。
その三つを失った命令は、忠義ではない。
止まり方を忘れた災害である。
金属音は、一つでは終わらなかった。
霧の奥。
左。
さらに遠い右。
カン。
同じ高さ。
同じ長さ。
同じ余韻。
「三隻」とジル。
「音だけで?」とハル。
「右耳が役立たずだから、左へ集まる音に詳しい」
「悪口が自己紹介へ戻ってきた」
「褒めるな。増える」
四つ目の金属音。
今度は背後だった。
エリアが船長室の窓へ地図筆を走らせる。霧の白へ淡青の点が四つ浮かんだ。点は船ではない。音が届いた方向と遅れを置いただけの仮置きだった。
「距離はまだ不明。反響がある」
「全部、《グレイ・リターン》へ返した?」とハル。
「灰色伝羽を受領した可能性はあります。断定しないで」
セレナはレムの拘束輪を二重にしながら言う。
「命令札の内容を開示してください」
「もう送った」とレム。
「内容」
「古い帰投号令です」
「文言」
レムは口を閉じる。
ノクスが低く唸った。
「破約?」とハル。
「違う」とミラ。
ジルの肩へ片腕を預けたまま、彼女は船長室の床へ視線を落とす。
「言わない契約を守ってる顔。守ってる相手がここにいない」
「依頼主?」
「分からない。分からない物へ名前を付けると、そいつの値段で考え始める」
「じゃあ、今ある物」
ハルは数える。
「命令札。返事四つ。霧。古い船。箱」
「それから」とエリア。
彼女の淡緑の瞳が、船体の震えを拾った。
「《グレイ・リターン》自身が、返事を待っている」
床下で歯車が一段、噛み合う。
カン。
船首から船尾へ、古い管が鳴った。
天井の円形蓋が開く。
そこに人の口はない。
真鍮の伝声筒だけが、何十年も前の息を吐き出した。
『――奉還』
一語。
男とも女とも分からない、削れた音声だった。
カイルの顔から冗談が消える。
「知ってる?」とハル。
「古い王家号令だ」
「意味」
「王へ返せ。冠へ戻せ。部隊によって使い方が違った」
「何を」
「今は分からん」
カイルは箱を見ない。
見れば、答えを先に決めてしまうと知っていた。
「王家の物を?」とベルナの通信が割り込む。
「だから断定するな!」
王子の声が低くなる。
「号令が古い。欠片も古い。それだけで同じ話にするな。王家は、古い物を全部自分の物だと思いすぎた」
「殿下がそれを」
「俺が言うから記録しろ!」
「記録済み」とセレナ。
「早い!」
霧が白く光った。
サーガが長杖を床へ倒す。
「伏せろ」
声は大きくなかった。
だから全員、聞いた。
旧艦の左舷窓が、外側から押し潰された。
風圧弾。
透明な塊が霧を円筒形にくり抜き、《グレイ・リターン》の船首脇を通る。外れたのではない。船首前方の雲を吹き払い、まっすぐな通路を作った。
その先に、ラナがいた。
背市カンティレーナがいた。
「狙ってない」とハル。
「何を」とエリア。
「俺たちを。道を開けてる」
ミラの風鈴が鳴る。
「契送艦の仕事。荷の前を空ける」
「荷はここ」とロロ。
「なら、ここから向こうまで邪魔を消す」
第二の白光。
同じ場所。
同じ角度。
「間隔!」とセレナ。
「十三」とハル。
「秒?」
「俺の心臓。走ってるから秒じゃない」
「役に立たない!」とロロ。
「規則的ってこと!」
「正確に」とエリア。
「数える!」
ハルは羅針盤の蓋へ指を置く。
開かない。
零星針へ問わない。
一。
二。
三。
霧の中で、別の砲口が開く。
十二。
十三。
白光。
風圧弾が《グレイ・リターン》の右上を通った。今度はラナの尾側市場へ続く霧を割る。雲の壁が裂け、その向こうに背市の灯が見えた。
「十三拍」とハル。
「あなたの現在心拍は一分百二十前後」とセレナ。
「じゃあ六・五秒くらい」
「くらいを証拠にしない」
「時計!」
ロロの補助腕が胸ポケットから三つ出す。
「一個でいい!」
「全部ずれてるから平均!」
「時計の意味!」
三つの針。
六・四。
六・六。
六・五。
次の白光。
「六・五秒」とロロ。
「前二発も、証羽映像で同間隔」とセレナ。
「人間なら?」とハル。
「装填で揺れる」とジル。「腕、風、怖さ、怒鳴る奴。半拍はずれる」
「今のは?」
「鐘の歯」
六・五秒。
迷わない砲口が、もう一度開く。
人間は、正確さへ憧れる。
だが歴史上、完全に同じ間で繰り返された行為の多くは、祈りか処刑か、機械であった。
「次、背市の南宿へ通る!」
エリアの路図が窓いっぱいに広がった。
四つの発射点。
《グレイ・リターン》。
ラナの進行。
風圧弾が削った二本の白い空路。
まだ船の位置は見えない。
だが砲撃は同じ目的へ線をそろえている。
箱ではない。
箱を載せた《グレイ・リターン》が進むべき道。
「この船が標識」とミラ。
「命令札を入れたから?」とハル。
「たぶん。それ以上は分からない」
「標識を消す!」
ロロが床の命令溝へ工具を突っ込む。
古い蓋は開かない。
「開けたら?」とカイル。
「命令核へ届く。けど、こいつの操舵と砲も同じ歯車列。今抜けば全部止まるか、全部撃つ!」
「差が大きい!」
「旧式軍用機関に優しい中間はねえ!」
「止めない」とミラ。
全員が彼女を見る。
「止めたら、ここで浮く。ラナの正面。標識のまま」
「動かす?」
「背市から離す。砲は標識の前を空ける。前に町がなければ、雲だけが困る」
「誰が操舵」とジル。
ミラは右膝へ視線を落とした。
立てない。
義足の小帆は裂け、腰へ盗んだ勢いの残痛がある。
「私」
「終了」とジル。
「船長命令」
「今、船長じゃない」
「だから責任が安い」
「身体の値段を下げるな」
ジルの声が、咳ではなくなる。
ミラは言い返さない。
風鈴を握る。
鳴らさない。
「……操舵を渡す」
「誰へ」
「一航士ジル・カスク」
「受領」
「進路判断はエリア」
「受領」とエリア。
「機関はロロ」
「修理代」
「後」
「高くなるぞ」
「生きて値切る」
「成立」
ミラは初めて、動かない自分を作戦から外さず、身体だけを役割から外した。
「私は」と彼女。
「砲間隔と風を数える。座ってできる」
「それから怪我人」とジル。
「役職じゃない」
「今日は役職だ」
《グレイ・リターン》をラナから離す。
言葉にすれば一行である。
実際には、旧軍艦の手動舵を三人で回し、止まった補助帆を外から起こし、拘束した男と証拠箱と怪我人と星律官を乗せたまま、六・五秒ごとに来る風の槌を避ける作業だった。
「次、五秒!」
ミラが数える。
「左へ三度!」とエリア。
「三度って舵何回だ!」とジル。
「刻み四つ!」
「最初から船語で言え!」
「王立船の刻み幅を知らないの!」
「私も知らん!」
「ロロ!」
「船齢で摩耗してる! 右刻み一つが〇・九、左が一・一!」
「左右で違う!?」とハル。
「古い物は公平に壊れねえ!」
「左三つ!」とエリア。「最後半分!」
ジルが舵輪へ全身を掛ける。
ハルとカイルも押す。
「王子、左!」
「俺の左か?」
「船の!」
「船に手はない!」
「港側!」
「港が動いてる!」
「今見えるラナ側!」
「それが早い!」
三人で回す。
舵輪の木が呻く。
「一、二――」
ハルの左肩へ負荷が来る。
三を言う前に、エリアの手が彼の肘を外した。
「右だけ」
「足りない」
「あなたが壊れた分は、足りなくなる」
「じゃあ」
ハルは言い直す。
「助けて」
「具体的に」
「腰帯、支点」
「受領」
エリアが路索を彼の腰へ回し、床柱へ固定する。
ハルは左肩で引かない。
右腕と両脚、腰帯で押す。
舵が入る。
《グレイ・リターン》の船首が南へ向く。
白光。
「伏せ!」
風圧弾が船尾をかすめた。
古い冠章が外板から剥がれ、霧へ飛ぶ。
その後ろ。
ラナの背の南宿。
屋根を束ねる白布が、衝撃の端で膨らんだ。
「町へ届いてる!」とハル。
「直撃ではない」とセレナ。
「直撃じゃなきゃ平気?」
「平気とは言っていない。南宿の被害確認を」
サーガが鯨守の伝声管へ叫ぶ。
『南宿、返答』
『屋根帯一。人、全員内側』
『怪我』
『皿三枚』
『皿は人ではない』
『市場では人より高いのもある!』
『後で請求しろ。今は伏せろ』
ロロが反応する。
「請求先を明確に!」
「今か!」
「後で揉める!」
「生きて揉める!」
それはこの町の、避難完了を意味する言葉だった。
船を離すだけでは足りない。
ラナは北東へ進んでいる。
《グレイ・リターン》を南へ向けても、風圧砲が作る通路の端は、巨大な翼鯨の尾側へ重なる。
「ラナを曲げれば」とベルナ。
「誰が曲げる」とサーガ。
「鯨守なら」
「私は頼む。命じない」
「今は非常時です」
「非常時は、痛みが消える時か」
「人が死ぬ!」
「ラナも生きている」
カイルが通信管を取る。
「王家権限で進路変更を命じる案は却下だ」
「殿下!」
「王子が命じれば早い。だから使わない。早さの代金を、ラナだけへ払わせるな」
「ではどう守るのです!」
「俺たちが動く!」
右籠手を左拳で叩きかける。
止めた。
盾を出せば、一発は受けられる。
二発目も、おそらく。
その後、痛み返しで彼が立てなくなれば、三発目を誰かが受ける。
「盾は?」とハル。
「最後の一枚」
「今は」
「まだ使わん。俺が守るって言葉を、俺の身体一個へ戻したくない」
「成長」とロロ。
「今それを言うな!」
エリアはラナの路図を重ねる。
「進路は変えない。呼吸を使う」
「使う?」とサーガ。
「正確には、私たちが合わせる。ラナへ何もさせない」
地図へ、翼鯨の呼吸周期が波として描かれる。
「吸気終了まで一分二十。保息三分前後。次の呼気で、背の上へ尾側から強い下降流が出る」
「前後」とセレナ。
「生物に正確な三分を要求しないで」
「記録上の幅を」
「二分四十から三分二十五」
「広い!」とハル。
「ラナの都合よ」
サーガが骨の聴音輪を床へ当てる。
「今日は短い。雷雲で疲れてる」
「どれくらい」
「二分五十。外れても怒るな」
「誰に」
「鯨へ」
ミラが路図を見る。
「呼気へ砲をぶつける」
「消せる?」
「消えない。上へ逃がす」
「どうやって」
ジルが背市を見る。
市場の屋根。
日除け布。
競売旗。
店と店を結ぶ何千本もの柔らかな索。
「町の帆を開く」
「避難中に?」とベルナ。
「人を屋根へ上げない」とミラ。「内側の巻き取り輪を使う。区画ごとに一枚。風を止める壁じゃなく、斜めへ渡す階段」
「市場の布は防壁ではありません」
「だからいい。硬い壁はラナへ圧を返す」
「布なら裂ける」とロロ。
「裂ける順番を作る」とジル。「外から一枚ずつ。力を食って、上へ逃がす」
「布が失われます!」
「皿より安い」とハル。
「競売旗には歴史的価値が」
「人と鯨より?」
ベルナが黙る。
「値段で決めたがる人へ、値段の質問は効く」とミラ。
「お前が言うと強い」
「専門」
計画は、町全体へ届かなければ計画ではない。
通信塔は霧と砲撃で不安定。
旧軍号令が同じ周波管へ割り込み続けている。
『奉還』
六・五秒。
『奉還』
人の声が、その間へ入る。
『北織区、聞こえない!』
『西香辛路、誰の命令だ!』
『王子がラナを止めるのか!』
「止めない!」とカイル。
『じゃあ何をする!』
「布を開く!」
『どの布!』
「説明が足りん!」
カイルが自分で怒鳴る。
「俺の悪癖だ!」
エリアが通信管を取る。
「全区へ。命令ではなく選択を伝えます。ラナの次の呼気へ合わせ、尾側から中央へ屋根布を斜めに開きます。参加区画は白鈴を二回。不参加または操作不能は黒鈴を一回。返答のない区画を参加扱いにしません」
ハルが彼女を見る。
匿名を同意へ変えない。
沈黙を参加へ数えない。
遠い学院でマオが投げた問いは、本人のいない空でも、別の選択へ形を変えていた。
最初の鈴。
白、二回。
魚市場。
次。
黒、一回。
南宿。屋根帯が壊れている。
白、白。
白、白。
黒。
白、白。
町は一枚では答えない。
「不参加区画を空けて路図を更新」とエリア。
「穴が三つ」とロロ。
「穴を欠陥と呼ばない。選ばなかった場所」
「風はそこから漏れる」
「漏れる前提で組み直す」
淡青の線が曲がる。
「ハル」
「何」
「通信の届かない尾側二番へ。白旗と黒旗を持って、参加条件を直接説明して」
「走る」
「一人で決めさせない。返事を持って帰る」
「受領」
「左肩」
「片腕吊りなし」
「方向」
「見える物を言う」
「戻る時」
「助けを呼ぶ」
「よろしい」
「試験?」
「毎日」
ハルは《グレイ・リターン》からゼロスター号へ渡り、尾側係留路へ走った。
霧。
上下する背。
白い布屋根。
六・五秒ごとに空を割る圧。
一、二、三。
跳ぶ。
右手で索。
左は添える。
配達鞄には白旗、黒旗、説明札。
届ける物は、命令ではない。
選べる時間だった。
「尾側二番!」
返事がない。
道はラナの呼吸で持ち上がる。
市場の棚が横へ滑り、干した帆魚がハルの顔へ当たった。
「魚!」
「商品だ!」
棚の下から老人が怒鳴る。
「避難してない!」
「棚が足へ乗った!」
ハルは棚を持ち上げる。
左肩へ来る。
止める。
「誰か!」
言えた。
奥の店から二人が出る。
「一、二で上げる!」
「三は?」
「今日は二で助けが来た!」
三人で棚をどける。
老人の足首は腫れているが動く。
「布の説明」とハル。「次の呼気で、砲の風を上へ逃がす。参加するなら白二回。しないなら黒一回。返事なしは不参加」
「店の布が裂ける」
「たぶん」
「補償」
「競売院とレムの資産。決まらなければ公開法廷」
「王子が払う?」
「勝手に王家払いにはしないって」
「面倒だな」
「生きて揉める」
老人は笑う。
「白二回」
「本当に?」
「私の店だ。私が裂く」
白鈴。
二度。
尾側二番の奥。
布巻き輪へ、小さな手が届かず困っている子供がいた。
「大人は」
「避難させた」
「自分は」
「巻き輪係」
「名前」
「シウ」
「年」
「十」
「参加、誰が決めた」
「店主」
「シウは」
「やる」
「怖い?」
「怖い」
「じゃあ二人」
「ハルは戻るんだろ」
「戻る。でも、代わりを呼ぶ」
近くの避難所へ叫ぶ。
「巻き輪、二人必要!」
「一人で足りる!」と子供。
「一人で足りる仕事と、一人でやらせていい仕事は違う!」
酒場の女が出てくる。
「私が付く。子供、命令は私へしろ」
「俺が係だ!」
「じゃあ係、私へ教えろ」
「……受領」
ミラの言葉が、知らない子供へ移っていた。
ハルは白旗を屋根へ立てる。
戻る。
方向が分からない。
霧の中、同じ屋根が並ぶ。
羅針盤の蓋へ指が行く。
開かない。
「見える物」
赤い香辛料袋。
割れた青い水管。
白い布。
ノクスの尾――はいない。
「エリア!」
通信管は雑音。
『――見える物を』
「赤袋。青管。白旗」
『青管を右手。白旗を背。赤袋の三軒先で上へ』
「俺の右?」
『あなたの』
「受領」
走る。
助けを求めることは、足を止めることではなかった。
戻る道へ他人の声を足すことだった。
戻った時、《グレイ・リターン》はラナから半里離れていた。
半里。
町を守るには近い。
飛び移るには遠い。
ゼロスター号が旧艦の左舷へつき、二隻を太い曳航索で結んでいる。鯨守艇は右舷。三隻で一隻を引く形だが、誰かが先頭ではない。風向きが変わるたび、引く役と支える役が入れ替わる。
「返答!」とエリア。
「尾側二番、白。操作員二人。老人一人、足首。避難所へ移送」
「本人の同意」
「確認」
「説明を短くしすぎてない?」
「布が裂ける。補償は後で揉める。参加しなくても責めない」
「合格」
「やっぱり試験」
エリアは地図へ尾側二番を加える。
参加区画は十四。
不参加四。
操作不能三。
白布の階段は、完全にはつながらない。
だから現実の地図だった。
「呼気まで?」
サーガは聴音輪へ指を当てる。
「四十八拍」
「誰の拍」とセレナ。
「ラナの」
「人より遅い」とハル。
「大きいからな」
「四十八って長い!」
「お前の数で三分弱」
「最初からそっち!」
霧から白光。
『奉還』
風圧弾は《グレイ・リターン》の左前を削る。
船は進む。
砲口は道を開ける。
「こいつ、俺たちが操舵してることを知らない」とロロ。
「船が?」
「命令核。進行方向だけ見て、前を空けろって外へ鳴らしてる」
「止め方」
「命令終了札」
「ある?」
「レム」
全員が拘束された男を見る。
「終了札を」とセレナ。
「積んでいない」
「なぜ」
「帰投は到着で終わる」
「到着先は」
「命令へ含まれる」
「今回の命令では」
「奉還」
「場所ではありません」とエリア。
「旧軍では、冠印を持つ旗艦が到着先になる」
カイルの半マントへ、視線が集まる。
深紅。
王家章。
「俺?」
「違う」とレム。「人ではない。冠印のある船」
さきほど外板から剥がれた古い冠章。
霧へ飛んだ。
「じゃあ到着先がなくなった」とハル。
「そうです」
「終了しない?」
「そうです」
ロロが補助腕を全部上げる。
「最悪の仕様!」
「戦時の命令です。旗艦を失えば、次の冠印を探す」
「次」とカイル。
箱。
王家由来と呼ばれる欠片。
だが冠印はない。
カイル自身。
王家の星痕はある。
だが船ではない。
ゼロスター号の船尾には、月冠祭の救難後に王都が贈った小さな功労章が付いている。冠をかたどった金具。
「全部外す!」とロロ。
「待って」とセレナ。「号令が何を冠印と認識するか不明。外せば認識対象が移る可能性」
「じゃあ付ける?」とハル。
「どこへ」
「町と逆」
カイルが彼を見る。
「囮にする物を決める前に、持ち主へ聞け」
ゼロスター号は誰の船か。
ロロの工房。
ハルたちの生活。
エリアの地図。
カイルの密航先。
ノクスの昼寝場所。
ミラの客員席。
一人の所有ではない。
「船へ聞けない」とハル。
「乗ってる者へは聞ける」とエリア。
短い確認。
ハル、賛成。
エリア、条件付き賛成。
カイル、賛成。ただし王家章は自分が外す。
ロロ、修理費の負担先が決まれば賛成。
ノクスは冠章を嗅ぎ、くしゃみをしてから前脚で船尾を叩いた。
セレナは証拠船としての危険を指摘し、乗員退避を条件に賛成。
ジルは「船は壊す前に悪口を言え」と賛成。
ミラは黙った。
「ミラ」とハル。
「客員席は、所有権じゃない」
「意見」
「使うなら、戻す方法を先に決める」
「囮を終了札にする」とロロ。
「どうやって」
「冠章をゼロスターの無人救難凧へ付ける。霧の外、ラナと逆へ飛ばす。旧艦が到着と認識したら、凧の留め具を外す。冠印は布袋へ落ちる。到着先が消えた瞬間、こっちの命令核を手動封鎖」
「外の艦は?」
「止まる保証なし」
「大きい!」
「でも町から砲線を外せる」
「凧は戻る?」とミラ。
「回収索付き」
「切れたら」
「修理する」
「戻す方法として弱い」
「俺の仕事を信じろ!」
「値段」
「一ルク」
「安い」
「船を守る仕事は、船が払う。帳簿上だけ一ルク」
ミラは風鈴を一度鳴らす。
「成立」
誰か一人が船を差し出すのではない。
壊れる可能性と、戻す手段と、払う者を並べて決めた。
「ただし」とエリア。「凧を出せるのはラナの呼気直前。早ければ、砲線が市場を横切る時間が長くなる」
「遅ければ」とジル。
「最初の一発が南宿へ」
「時間は」
「ラナ次第」とサーガ。
彼女だけが焦らない。
焦らないのではない。
人間の予定へ生物の身体を押し込まないよう、焦りを自分の内側へ置いている。
ロロが救難凧を組む。
四本の補助腕。
片方の目へ度入りゴーグル。
喘鳴が一度。
「吸入」とエリア。
「手が」
「私が押す」とハル。
「お前、薬の回数分かるか」
「二回」
「一回半」
「半分どうやる!」
「短く一、長く一!」
「難しい!」
セレナが吸入器を取る。
「記録上、前回使用から二刻。規定量一回」
「法官が一番早い!」
ロロは吸う。
咳。
また工具へ戻る。
救難凧は、墜落者へ浮力布を届ける道具だった。
人を吊らない。
だから軽い。
だから風へ乗る。
白布の中央へ、ゼロスター号の功労章を縫う。
カイルが自分で外した。
「これ、授与式で父上が付けたんだぞ」
「惜しい?」とハル。
「惜しい。だから使う」
「王家の物」
「俺が受け取った。今は船の物。船の皆で使う」
「所有の履歴、覚えてる」
「忘れたらセレナが二刻説教する」
「三刻です」とセレナ。
「増えた!」
箱は、ゼロスター号へ移さない。
《グレイ・リターン》の中央船室。
カイル、セレナ、ユラの三封印。
身体の大きいラナから距離を取り、固定点を保つ。
カイルは箱のそばへ残ろうとする。
「保管者だから」と彼。
「砲の標識船」とハル。
「だから」
「箱を守るために、保管者が死んだら?」
「次へ」
「誰が決めた」
カイルは口を閉じる。
自分を交換可能な部品として扱う癖は、王子の礼法より古い。
「セレナ」とカイル。
「何ですか」
「箱の保管を、砲撃終了まで預ける」
「私は共同封印者です。単独では開けません」
「開けなくていい。守る判断」
「受領。条件、あなたはゼロスター号へ退避。ユラも」
「私は残る」とユラ。
「理由」
「名を置いて逃げたくない」
「箱は名ではありません」とセレナ。
「分かっている。だから残ると言える」
サーガがユラの肩を杖で軽く押した。
「鯨守艇へ」
「サーガ」
「名を守る者が、物と一緒に沈む必要はない」
「でも」
「ラナは所有者を覚えない」
老女は箱を見る。
「誰が背へ乗ったかも、誰が金を払ったかも覚えない。痛い場所と、呼吸を邪魔しなかった手だけ覚える。人も少し見習え」
ユラは息を吐く。
「受領」
退避する。
セレナだけが残る。
「あなたも」とハル。
「証拠保全官です」
「人」
「兼任しています」
「逃げ道」
「右舷艇。切離し索を確認済み」
「本当に」
「証拠は」
セレナが右舷を指す。
艇。
開いた留め具。
自分の腰へつないだ退避索。
「ある」
「なら受領」
彼女は一瞬だけ単眼鏡を外した。
「戻ってください」
全員の位置が決まる。
ゼロスター号。
ハル、エリア、カイル、ロロ、ノクス、ミラ、ジル。
鯨守艇。
サーガ、ユラ。
《グレイ・リターン》。
セレナ、拘束されたレム。
「なぜ私を退避させない」とレム。
「させます」とセレナ。「あなたは右舷艇。私より先」
「証拠を置いて?」
「箱は三封印。船が沈む場合は浮力箱だけ放出します」
「欠片が逃げる」
「物を人より先に数えない」
「王国の星律官が」
「法は人のためです。物のために人を残す条文があれば示してください」
レムは黙る。
セレナは拘束輪の索を退避艇へつなぐ。
「あなたが命令を送った事実は変わりません。だから救助しない理由にもなりません」
レムの顔へ、理解とも反発ともつかない影が通る。
記録できるのは、影が通ったことだけだった。
『奉還』
六・五秒。
砲口。
霧が裂ける。
市場の布が、まだ閉じている。
「ラナ、二十拍」とサーガ。
「凧、展開!」
ロロが留め具を叩く。
白い救難凧がゼロスター号の船尾から飛ぶ。
中央に小さな冠章。
回収索は細いが、三本。前と同じ失敗を、そのまま繰り返さない。
凧は風を受ける。
ラナと逆。
霧の南。
一つの砲口が動いた。
見えないのに分かる。
白光の角度が、凧へ寄る。
「認識した!」とロロ。
「全部?」
「一隻!」
別の白光。
「二!」
三つ目。
「三!」
四つ目は動かない。
「残り一!」とエリア。
「冠章じゃない物を見てる!」
《グレイ・リターン》か。
箱か。
カイルか。
分からない。
「残りは私たちの線」とジル。
「じゃあ残す?」とハル。
「一隻を旧艦へ向けたままにすれば、町から外れる」
「セレナがいる!」
「退避時間を作る」
サーガの声。
「ラナ、十」
ハルは数える。
一。
二。
市場の十四区画で、内側の巻き取り輪へ手が掛かる。
三。
四。
不参加の四区画は閉じたまま。
操作不能の三区画には、人がいない。
五。
ミラが座ったまま、風鈴を耳へ寄せる。
「風、尾から二点」
「路図更新」とエリア。
「盗らないの?」とハル。
「今盗れば、身体へ入る」
「いつもなら」
「いつもを止める」
風鈴は鳴る。
青い風輪は出ない。
「七!」
セレナの声が通信管から来る。
『レム、艇へ。箱の浮力封印、準備』
『あなたは』とハル。
『最後に出ます』
「駄目」
『理由』
「最後って決めると、最後の次が出る」
短い沈黙。
『レムと同時に出ます』
「受領!」
「八!」
霧の四方で砲口が開く。
一斉ではない。
六・五秒の歯車が、それぞれ同じ位相へそろっただけである。
同じ間。
同じ命令。
同じ迷いのなさ。
「九!」
《グレイ・リターン》の右舷艇が離れる。
セレナとレム。
「十!」
サーガが杖を上げる。
「吸い終わる」
ラナの巨大な背が、一度高くなる。
町が空へ持ち上がる。
誰も鯨へ命じていない。
人間の方が、その呼吸へ待っていた。
「布、第一!」とエリア。
尾側の白布が開く。
屋根ではない。
帆でもない。
町の一番外側へ生まれた、柔らかな斜面。
「第二!」
次の区画。
白。
白。
間に黒い閉鎖区画。
「穴、右へ逃がす!」とジル。
「第三、半分!」
住民が巻き取り輪を止める。
白布の階段が、完全でない形に連なる。
ラナが息を吐いた。
空が動く。
巨大な呼気が背びれの谷を走り、市場の下を抜け、尾側から上へ昇る。
同時に、霧の砲口が白く燃えた。
「来る!」
第一の風圧弾。
救難凧へ。
ラナの呼気とぶつかる。
消えない。
上へ曲がる。
凧の外布が裂れ、冠章だけが回収袋へ落ちる。
「到着!」とロロ。「今!」
補助腕二本が《グレイ・リターン》の命令索を引く。
旧艦の床下。
命令核へつながる歯車が、手動封鎖板へ当たる。
カン。
一隻分の砲口が閉じた。
「一!」
第二の風圧弾。
市場の外布へ当たる。
白布が膨らむ。
裂れる。
力が次の布へ渡る。
「第二、放せ!」
住民が巻き取り輪の留めを切る。
布は町へ風を返さず、上へ飛んだ。
第三。
第四。
競売旗が千切れる。
王家の古い紋。
空賊船団の印。
名家の商標。
全て同じように裂れ、風の中では同じ布片になる。
「南宿、漏れる!」とエリア。
不参加区画。
そこを無理に開かないと決めたため、風の階段に穴がある。
圧が落ちる。
ラナの皮膚へ近づく。
カイルの右籠手が燃えかける。
「盾!」
「待て!」とハル。
「誰を守ればいい!」
「ラナの皮膚じゃない。風の出口!」
ハルは南宿の壊れた屋根帯を見る。
固定されていない布が一枚。
市場の避難用滑り幕。
「俺が開く!」
「距離!」とエリア。
「二十歩!」
「今の二十は動く!」
「見える!」
一、二、三。
ハルはゼロスター号の船縁から、南宿へつながる回収索へ飛ぶ。
左肩で吊らない。
腰輪。
両脚。
ノクスが先に走る。
「ノクス、留め具!」
黒い獣は答えず、二本尾で滑り幕の端を示す。
決定打ではない。
見つける時間を一歩短くしただけ。
ハルが留めを蹴る。
動かない。
古い樹脂。
「ロロ!」
『右下へ回してから上!』
「逆じゃ」
『鯨上の留めは逆回し!』
「誰が決めた!」
『鯨が左へ寝返った時に締まらないように! 今は感謝しろ!』
右下。
上。
留めが外れる。
滑り幕が開いた。
風圧の端を受け、上へ膨らむ。
ハルの身体ごと持ち上げる。
「ハル!」
腰索が張る。
エリアの路図が索へ沿って光る。
カイルとジルが引く。
滑り幕は裂れながら、圧を空へ逃がした。
ラナの皮膚へ届いた風は、長い感覚毛を一度倒す。
切れない。
ラナは低く鳴いた。
町の下から空全体を震わせる声。
痛みか。
驚きか。
怒りか。
人間には分からない。
「サーガ!」
老女は聴音輪を床へ当てる。
「呼吸、続く。翼拍、乱れなし」
「平気?」
「その言葉を使うな。生きて飛んでる」
「受領」
最後の風圧弾が空へ抜ける。
霧の上で、雲が巨大な花のように開いた。
音は遅れて来た。
轟音。
白布の切れ端が降る。
旗が降る。
値札が降る。
市場の一日分の看板が、空へ散った。
人は残った。
ラナも飛んでいた。
完全な勝利ではない。
だから、救難だった。