第168話 第十二章「霧の砲口」後編

 救難の直後に最初に始まる仕事は、歓声ではない。

 点呼である。

 英雄譚は誰が勝ったかを数える。

 町は誰が戻っていないかを数える。

 背市の鐘が、区画ごとに違う音で鳴った。

 魚市場、全員。

 北織区、全員。

 西香辛路、一人負傷。

 南宿、足首一人、手の切創二人。

 尾側二番、子供を含め全員。

「シウ!」とハル。

 遠くの屋根から、白旗が乱暴に振られる。

『係は生きてる! 布は死んだ!』

「布は修理できる!」とロロ。

『料金!』

「誰が教えた!」

 ミラが短く三回笑う。

 笑った直後、腰を押さえた。

「医務所」とジル。

「点呼後」

「点呼済み」

「契約後」

「怪我は契約待たねえ」

「待たせる」

「右膝」

「五・八」

「下がった?」とハル。

「嘘」とジル。

「専門用語が減ってる」とロロ。

「台帳みたいに言うな」

「何の話?」とエリア。

「気分」

 ジルはミラを抱え上げようとする。

「担ぐな」

「歩け」

「終了」

「じゃあ担ぐ」

「選択肢が脅迫」

「船では二択が多い」

 ミラは抵抗しようとして、右肩を動かした。

 顔が固まる。

「……運搬を委託」

「料金」

「私が決める」

「前払い」

「一ルク」

「安い」

「それから」

 ミラは風鈴を握らない。

 硬貨も出さない。

「ありがとう」

 言った後、誰かに義足を外された時より無防備な顔をした。

 ジルは咳のように笑わなかった。

「受領」

「値段は」

「今ので払った」

「高すぎる」

「値切るな、役立たず船長」

「今、船長じゃない」

「だから名前で言う。ミラ、医務所」

 彼女はもう反論しなかった。

 《グレイ・リターン》の命令核は、封鎖板で止まっていた。

 完全停止ではない。

 床下の歯車は六・五秒ごとに一度、封鎖板を押す。

 カン。

 進めない命令が、同じ扉を叩く。

 ロロはその音を聞き、工具を置いた。

「壊す?」とハル。

「壊せる」

「止まる?」

「たぶん」

「たぶん」

「でも、今壊すと、どの歯が外の艦へ信号を出してたか分からなくなる」

「残す?」

「証拠として。動かないよう二重封鎖。解除鍵は俺とセレナ。片方だけじゃ開かない」

「修理工が、直さない」

「直すって、元に戻すことじゃねえ」

 ロロは命令溝へ黄色い封鎖板を追加する。

「こいつの元は、止まれない。なら元へ戻すな」

 補助腕が一つだけ、垂れた。

「料金」とハル。

「一ルク」

「安い」

「船が払う」

「どうやって」

「次に誰かを運ぶ時、終了札を積む。それが支払い」

「船へ請求できるんだ」

「人が帳簿へ書けばな」

 機械は命令を忘れない。

 だが人は、機械が忘れられる構造を作れる。

 それは修理というより、赦しに近い仕事だった。

 ロロはその語を使わない。

 赦しは料金表に載せにくい。

 レム・オルデンは、背市の臨時拘置艇へ移された。

 セレナは、住民へ告知する理由を一つずつ読んだ。

 受領順位の取得自体は、現時点で有効だったこと。

 遠隔で権利物を受領する術〈リモート・ハンド〉の使用それ自体を、犯罪と断定していないこと。

 輸送危険を知りながら申告から除いた疑い。

 七家の名を聞く条件を機械試験へ置き換え、完了と記載した疑い。

 救難索を風圧砲で切った事実。

 拘束直前に旧軍号令札を送った事実。

 市場の人々は、不満そうだった。

「全部やったんだろ!」

「なぜ疑いだ!」

「盗人と呼べ!」

 セレナは声を上げない。

「呼べません」

「見たじゃないか!」

「見た行為を言っています。まだ裁いていない罪名で、人を完成させません」

「逃げ道だ!」

「法廷で争う道です。被疑者にも、被害者にも必要です」

「王家が守るのか!」

 カイルが前へ出る。

「守る。裁かれない権利じゃない。決める前に決められない権利を」

「王子が味方する!」

「俺は、王家の名で何でも先に取れる側だ。だから順番を飛ばすなと言う」

 右籠手を叩かない。

 盾も出さない。

「レム・オルデンがしたことは公開する。王家がしたことも公開する。俺の祖先が『奉還』の号令を何に使ったか、分かる記録があるなら出す。なければ、ないと書く」

「欠片は王家へ?」

「公開法廷まで、俺が物理保管者。所有者ではない」

「違いが分からん!」

 ハルが隣で言う。

「鍵を持ってる人と、家を持ってる人は違う」

「王子は鍵?」

「鍵番の一人」

「盗んだら?」

「セレナが捕まえる」

「すでに逮捕候補が多すぎます」とセレナ。

「候補って!」

 笑いが少し起きた。

 人は、制度説明だけでは息が続かない。

 冗談は結論ではない。

 結論まで立っているための椅子になることがある。

 競売は取り消された。

 落札金は、誰へも渡っていなかった。

 ベルナ・クォートが保全口座から全額返す。返還手数料は競売院負担。来歴確認費と医療費、破損した屋根布、皿三枚を含む救難損害は別勘定。

「皿三枚を法廷へ持ち込むのか」とカイル。

「一枚は古王朝期」とベルナ。

「人より高い皿」

「市場ではあります」

「ハルの冗談が事実だった」とエリア。

「俺、歴史に強い」

「皿にだけ」

 最初の落札者バルド・ペルは、契約条件を読まず再転売した責任を認めた。

 フェン・オルタは、自分が盗難申告者に仕立てられた経緯と、返却予定時刻を確認せず署名した過失を証言した。

 サディ・グレイスは、受領順位を一時保管する仕事と理解していたことを話し、手数料帳を提出した。

 存在しない仲買人名モロウ・ナインの匿名枠は、廃止されなかった。

「なぜ残す!」という声も出た。

 ジルが医務所の窓から怒鳴る。

「匿名がなけりゃ、名前を出したら殺される奴が市場へ来られねえ!」

「でも今回、隠れた!」

「だから監査鍵を増やせ! 道具を悪人が使ったから、道具を必要な奴から奪うな!」

 セレナは制度案を読み上げる。

 匿名仲介は継続。

 ただし当事者へ示す意味条件を、仲介者が独断で要約できない。

 音声、結び目、図、本人指定証人のいずれかで原条件を保存する。

 匿名枠の担当者名は公開しないが、独立した二名の監査者へ預託する。

 緊急時に公開する条件も先に決める。

「紙が濡れたら」とジル。

「結び目と証人が残る」とセレナ。

「証人が死んだら」

「音声と図」

「全部なくなったら」

「その時は、分からないと記録する」

 ジルは銅笛を噛む。

「受領」

 制度は、穴をなくすためだけに作られるのではない。

 穴がある時、穴へ落ちた者を「最初からいなかった」と書かないためにも作られる。

 ユラ・ハーンは、七家の来歴を公開する範囲を自分で選んだ。

「名は七つとも出す」と彼女。

「各家の逸話は?」とセレナ。

「ハーンとオルム、ミルは出す。ドレの死者数は出さない。セヤが家を売った相手も。カーンが戻らなかった理由は、知らない。ルウは名だけ」

「理由を公告へ書きますか」

「書かない。私が言わないと決めたことだけ書け」

「受領」

「匿名?」とハル。

「違う」とユラ。「隠す場所を、私が決める」

 ティアが学院で失敗した匿名公開の知らせは、まだこの背市へ届いていない。

 だが同じ問いは、別の土地で別の口から生まれていた。

 名前を消せば守れることがある。

 名前を消したため、本人の同意まで消えることもある。

 正しい答えは一つではない。

 だから、答える人を一人にしてはならない。

 ユラはミラの病床へ行った。

「仕事の値段」と言って、擦り減った銅貨を一枚置く。

 ミラは上体を起こす。

 左の星晶義足は外され、接合部へ薬布。右膝は厚い固定帯。腰へ温石。動けない身体を人に見せることを、彼女は風圧砲より嫌っていた。

「一ルク?」

「最初の名を調べる分」

「七家」

「残り六枚は、見つけた時に払う」

「見つからなかったら」

「払わない」

「厳しい」

「仕事だろ」

「期限」

「私が死ぬ前」

「幅が広い」

「来歴は、急いで短くしたから今回みたいになった」

 ミラは銅貨を取る。

 すぐ返さない。

 借りを消すために、別の硬貨を押しつけない。

「契約成立。調べる範囲は、七家から欠片が市場へ出るまで。本人が話さない部分は、話さないと記録する。危険が出たら中断を相談。私一人で決めない」

「長いな」

「短くして人を機械にしない」

「学んだ」

「高い授業」

「一ルクだ」

「今は」

 ユラは手を差し出す。

 ミラは握る。

 風鈴が一度だけ鳴った。

「成立」

 これは事件解決の報酬ではない。

 次の仕事の最初の一枚だった。

 三日後の公開法廷まで、骨白の箱はカイルの管理下へ置かれた。

 管理下という言葉は、持ち歩くという意味ではない。

 背市中央の浮力庫。

 生体胸郭から最も離れた尾側外縁。

 床へ固定せず、独立した浮力枠へ載せる。

 入口は三重。

 第一鍵、カイル。

 第二鍵、セレナ。

 第三鍵、ユラ。

 一人では入れない。

 王子が命じても二つは開かない。

 ユラが来歴を理由にしても二つは開かない。

 セレナが証拠を理由にしても二つは開かない。

「面倒だな」とハル。

「面倒にした」とカイル。

「わざと?」

「力のある奴が、面倒だから飛ばす順番を作らないためにな」

「王子が一番面倒を嫌いそう」

「だから俺から閉める」

 カイルは第一鍵を回した。

 箱が庫内へ入る。

 蓋は開けない。

 七つの鼓動も、もう聞こえない。

「寂しい?」とハル。

「少しな」

「王家の物じゃないかもしれない」

「分かってる」

「じゃあ何が」

「七つも音がしたのに、誰の心臓か一つも知らん」

 冗談のない声だった。

「知りたい?」

「知りたい。だから、俺の先祖の話へ決めない」

「来歴を知る責任」

「ミラの言葉を取るな。請求される」

「もう聞いてる」

「高いぞ」

「一ルクから」

 庫の扉が閉じる。

 所有権は決まらない。

 保管責任だけが決まる。

 事件は、全ての問いへ答えたから終わるのではない。

 今、答えられる問いと、答えないまま守る問いを分けられた時にも終わる。

 夕方、カンティレーナの市場は再開した。

 競売会は中止。

 大口取引は停止。

 それでも魚は傷む。

 パンは焼ける。

 雨除け布は裂れている。

 旅人は寝床を要る。

 最初に開いたのは、皿屋だった。

「三枚割れたから売る物が減った!」

「損害品を宣伝に使うな」とハル。

「王子が買う!」

「買わん!」とカイル。「王室勘定で買えば証拠品の価格へ影響する!」

「セレナに染まってる」とロロ。

「悪いか!」

「景気が細かい」

 次に香辛料店。

 次に魚屋。

 最後に、値札のない粥屋。

 パルがいれば一番に見つけただろう、とミラは言った。

 言った後、自由港に残った少女の匙袋を思い出し、少しだけ黙った。

「帰る?」とハル。

「どこへ」

「自由港」

「今は保留」

「客員席」

「保留」

「仕事、七家」

「成立」

「じゃあゼロスター号で調べる?」

「航路次第。あんたたちの船を私の仕事へ勝手に使わない」

「意見を聞く」

「成長」

「それ言われると腹立つ」

「私も分かった」

 ミラは義足をまだ付けられない。

 医務所の車輪椅子へ座っている。

 出口へ左の足先を向ける代わりに、星晶義足を椅子の右へ立てていた。

 動けない。

 だが、止まってはいない。

 ハルは、裂れた屋根布の上へ座った。

 隣にエリア。

 彼女は両踵へ冷却布を巻いている。

 路図を広げすぎた痛みは、歩けないほどではない。歩けるから隠しやすい程度だった。

「痛い?」とハル。

「三」

「何段階」

「十」

「ミラ式」

「具体的で便利」

「休む?」

「今休んでいる」

「地図描いてる」

 膝の上に、今日の背市。

 白布を開いた区画。

 開かなかった区画。

 裂れた場所。

 人が助けを求めた場所。

 ラナの感覚毛が倒れた範囲。

「休みながら仕事」

「記録しなければ、明日また同じ布を同じ角度で開くでしょう」

「同じは駄目?」

「今日うまくいったから、明日も正しいとは限らない。ラナの呼吸も、参加する人も違う」

「地図も契約みたいだな」

「どういう意味」

「一回決めた線を、ずっと正しいって思うと危ない」

「あなたが地図を語るようになった」

「迷う専門家」

「専門家は、迷っていることを認める人よ」

「じゃあ俺、かなり専門」

「方向以外も迷ってから言いなさい」

 ハルは赤いマフラーを結び直す。

「今日、助けてって言った」

「聞いた」

「記録?」

「私の」

「地図に?」

「違う」

 エリアは口元を右手で少し隠した。

「忘れないだけ」

「恥ずかしい」

「撤回する?」

「しない」

 下で、ラナが息を吸う。

 町が持ち上がる。

「物の持ち主って」とハル。「最初の人?」

「場合による」

「最後に買った人?」

「場合による」

「持ってる人?」

「場合による」

「全部それ」

「だから法廷があるの」

「人の帰る場所も?」

 エリアの地図筆が止まる。

「最初にいた場所が、必ず帰る場所とは限らない」

「最後にいた場所も?」

「限らない」

「今いる場所」

「それも、本人が帰ると決めなければ違う」

「面倒」

「わざと面倒にするの」

「誰かが勝手に決めないため」

「そう」

 地球。

 アステリア。

 母。

 父。

 ゼロスター号。

 どこが自分を最初に受け取る権利を持つのか。

 そんな権利は、たぶん誰にもない。

 行き先は所有ではない。

 帰る順番も、競売に出せない。

「エリア」

「何」

「帰る道が見つかった時」

 彼女の顎が少し上がる。

「今は、その先を約束しないで」

「まだ言ってない」

「あなたは言う前に顔へ出る」

「どんな」

「誰も待たせないため、一人で決める顔」

「じゃあ」

 ハルは考える。

「見つかったら、相談する」

「誰と」

「待ってる人。ここにいる人。俺」

「順番は」

「同時は無理?」

「難しい」

「じゃあ、勝手に乾いた順にしない」

 エリアが笑った。

「契約印の話を、そこへ使うの」

「今回の競売で覚えたから」

「何の話?」

「気分」

 日が落ちる前、学院から羽根に記録して飛ばす通信〈メッセージ・フェザー〉が届いた。

 ティアからだった。

『議事資料の公開分類を改める。

 名前を出す。

 名前を伏せる。

 発言自体を公開しない。

 後から変更する。

 四つを、発言者本人が選ぶ。

 未回答は非公開。

 私は最初、名前を隠せば人を守れると考えた。名前と一緒に選択まで隠した。

 訂正する。

 マオは、まだ私を許していない。許す必要もないと言った。

 次の会議は、彼女が議題を決める』

「続いてる」とハル。

「当然」とエリア。

「ティアの話、俺たちがいなくても」

「私たちの船を降りた人が、物語を降りるわけではない」

 ミラは通信羽を読んで、裏へ一行書いた。

『参加しない欄も作れ。拒否を未回答と同じにするな』

「送る?」とハル。

「値段」

「伝羽代」

「半分払う」

「何で」

「助言を使うか決めるのは向こう。全部払えば命令みたいになる」

「細かい」

「本気だから」

 灰色ではない普通の伝羽が、学院へ飛ぶ。

 戻るかどうかは分からない。

 返事が来るかも分からない。

 それでも、送った言葉の先で相手が生きていると分かることは、別れを終了ではなくする。

 砲撃の後、背市には物が降った。

 布。

 札。

 皿の欠片。

 屋根留め。

 片方だけの靴。

 誰かが朝買い、昼には名前を忘れた菓子袋。

 市場は物へ値段を付けることに慣れている。

 だが、持ち主から離れた物へ、もう一度持ち主を付ける作業には驚くほど弱かった。

「落とし物台、一つ!」とベルナ。

「一つでは混ざります」とセレナ。

 星律官は中央広場へ黒布を四枚敷いた。

「第一、事件証拠。第二、一時保管品。第三、所有者不明品。第四、廃棄予定品」

「廃棄予定って誰が決める」とハル。

「現時点で用途と請求者がなく、危険または腐敗がある物」

「直せる物が混じる!」とロロ。

 黄色い布が五枚目に増えた。

「修理待ち!」

「値段が決まってない物」とミラ。

 赤茶の布が六枚目。

「それ、全部では?」とエリア。

「市場にある物は、値段が決まる前か、決め直す後」

「分類になっていません」

「思想」

「台の邪魔です」

「冷たい」

 結局、赤茶布は相談台になった。

 自分の物かもしれないが、受け取ってよいか分からない者。

 壊した責任はあるが、所有者ではない者。

 拾ったため一時的に持っているだけの者。

 そういう、札一枚へ入らない人が座った。

 歴史書は、戦場から持ち帰られた王冠や剣を記録する。

 戦場へ残された鍋、靴、玩具についてはほとんど書かない。

 しかし人が帰る時、本当に困るのは王冠がないことではない。

 明日の湯を沸かす鍋がないことだった。

「次。片方の靴」

 ハルが掲げる。

 左。

 緑の革。

 底へ鯨歩き用の斜め板。

 三人が手を上げた。

「多い!」

「同じ店で売ってる」と靴屋。

「大きさ」とエリア。

「二十二半」

「こっち!」と旅人。

「裏の補修」

「してない」

 靴底には青糸の縫い目。

「私」と魚屋の女。「昨日、鰭骨を踏んで縫った」

「履いて」

「濡れてる」

「持ち主なら濡れてても足は合う」とジル。

「紙が濡れたら靴を履け?」とハル。

「新しい格言にするな」

 魚屋の足へ合った。

「受領」

「誰が決めた」と旅人。

「足」とハル。

「強い証拠」とセレナ。

「法官も認めた」

「ただし同型品の交換可能性は残ります」

「急に弱い!」

 次。

 木の風鈴。

 舌が折れ、鳴らない。

 ミラの手が伸びる。

 途中で止まる。

「あなたの?」とハル。

「似てる」

「印」

「ない」

「傷」

「右縁に二本」

 ジルが裏返す。

 傷は三本。

「違う」とミラ。

「すぐ分かる?」

「壊れた鈴は全部、鳴らなくなった理由を記録する。私の二本傷は、係留索へ挟んだ時。三本目がない」

 木鈴の持ち主は現れなかった。

 修理待ちの黄色布へ置く。

「持ち主がいなかったら?」とハル。

「三日公告。七日保管。その後、修理費を払う奴へ譲渡。ただし元の持ち主が来た時の返還条件を先に書く」とミラ。

「詳しい」

「港で何度も揉めた」

「自分の鈴は?」

 ミラは片耳を触る。

 一つ足りない。

 砲撃の時に落ちたのだろう。

「探さないの?」

「仕事中」

「今、落とし物の仕事」

「私物を先に探せば、船長特権」

「今、船長じゃない」

「便利に使うな」

 ハルは返却台の山を見る。

 赤茶の金属。

 小さな輪。

 ノクスがその前に座り、二本尾で隠している。

「ノクス」

「ノゥ」

「持ってる?」

「ナァ」

「どっち」

 黒い獣は前脚を上げた。

 下から、風鈴ピアス。

 曲がっている。

 舌は残る。

「拾った?」

 ノクスはミラを見る。

 近づかない。

 本人が受け取るか待っている。

「持ち主」とハル。

「私」

「特徴」

「内側に、九歳の時の歯形」

「何で噛んだ」

「痛かった」

「見る?」

 ミラは頷く。

 内側に小さなへこみ。

 ノクスが前脚で鈴を押す。

 彼女の手へ届く半歩手前で止める。

 ミラが取る。

「ありがとう」

「ノゥ」

「何が違う」

「値段を聞かなかったから、驚いてる」とハル。

「通訳料」

「取るのか!」

「冗談」

「分かりにくい!」

 ミラは曲がった鈴を鳴らす。

 音は歪んでいる。

「理由」と彼女は小さな札へ書く。

『翼鯨の背で、勢いを盗みすぎた日に落下。夜獣が保管。戻った』

 壊れた理由だけでなく、戻った理由も記した。

 次。

 赤い布。

 ハルが掲げる。

「旗?」

「マフラー」とエリア。

「俺、してる」

 首へ手をやる。

 ない。

「いつから!」

「南宿から戻った時には」

「気づいてた?」

「当然」

「言って!」

「点呼と砲撃が先」

「なくした本人へは!」

「なくした本人が気づくのも順番の一つです」

「厳しい!」

 赤布は二枚あった。

 一枚は競売旗の端。

 一枚はマフラー。

 どちらも同じように裂れ、同じように煤けている。

「どっち」とミラ。

「こっち」

 ハルは迷わず右を取る。

「根拠」とセレナ。

「匂い」

「ノクス化してる」とロロ。

「母さんの店の洗剤。あと、ここ」

 端の縫い目。

 三度ほどき、違う赤糸で縫い直してある。

「母が縫った?」とエリア。

「一回目。二回目は俺。三回目は王都でロロ」

「俺のはもっと上手い!」

「じゃあどれ」

 ロロが縫い目を見て、口を閉じる。

「……三回目、急いでた」

「歴史がある」とカイル。

「王家由来?」とハル。

「俺が触ったことはある」

「じゃあ所有主張?」

「するか!」

 エリアがマフラーを受け取る。

「何」

「結び目が片側へ寄っている」

「自分で」

「肩をかばう結び方。直す」

 首へ回す。

 左肩を圧迫しない位置で、少し緩く結ぶ。

「返却」と彼女。

「受領」

「対価」

「ミラ化しないで」

「では、次に助けを求める時、三まで待たないこと」

「契約?」

「希望」

「違い」

「破っても、あなたを所有しない」

 ハルは結び目を触る。

「努力する」

「曖昧」

「正確には、二までに言う」

「受領」

 夕暮れまでに、落下物の半分は持ち主へ戻った。

 四分の一は修理待ち。

 八分の一は共同品。

 残りは、分からない。

 セレナは最後の札へ、そのまま書いた。

『所有者不明』

「未処理じゃない?」とベルナ。

「不明という処理です」

「市場は値段を付けられません」

「付けないでください」

「いつまで」

「持ち主が現れるか、保管期限と再利用条件を公開して決めるまで」

「空欄が残る」

「残してください」

 市場は、空欄を嫌う。

 空欄には値段が付かず、税も取れず、責任者も決めにくい。

 だが空欄を勝手な名前で埋めれば、物だけでなく人まで、最初からその名だったことにされる。

 その日、カンティレーナの落とし物台には、売らない物が残った。

 市場にとっては小さな敗北だった。

 暮らす者にとっては、必要な保留だった。

 日暮れ前、サーガはラナの尾側へ降りた。

 長杖。

 骨の聴音輪。

 房の柔らかな先端。

「俺も」とハル。

「何をする」

「傷を見たい」

「見て安心するためか」

 答えが止まる。

「違う。俺たちがやった分を知るため」

「受領」

 二人は感覚毛帯の外縁を歩いた。

 銀白の毛は夕日を受け、草原のように揺れる。一本ごとに人の腕ほど長い。砲風を受けた南側だけ、同じ方向へ伏せていた。

 サーガは一本ずつ起こさない。

 根元へ房を近づけ、ラナの皮膚が返す微かな震えを聞く。

「切れてる?」

「今の範囲では、ない」

「痛かった?」

「聞けない」

「鯨守でも?」

「痛みを測る道具はある。痛かったという言葉は、ラナから受け取れない」

「じゃあ何て記録する」

「南感覚毛帯、百二十七本が一時倒伏。根元反応、通常より遅い。皮膚温、〇・三上昇。次の三呼吸を観察」

「冷たい」

「正確だ」

「セレナみたい」

「事実を細く言えば、痛みを小さくすると思うか」

「思わない」

「なら細く言え。その後で、悪かったと思え」

 ハルは膝をつく。

 触らない。

 感覚毛帯の手前へ手を置く。

「ラナ。俺たちの都合で、風を当てた。切らない方法を選んだけど、何もしてないわけじゃない」

 返事はない。

 巨大な背が、ゆっくり上下する。

「謝罪、届く?」

「言葉は分からん」

「じゃあ意味ない?」

「次に同じ都合が来た時、お前の手が変わるなら意味はある」

「許してもらえなくても」

「許されたことにするな」

 サーガは一本の感覚毛を示す。

 途中で折れてはいない。

 だが先端へ、白い競売旗の糸が絡んでいる。

 ハルは許可を待つ。

「取っていい?」

「根元へ引くな。先を支えろ」

 右手で毛を支え、左は添える。

 糸をほどく。

 一度で取れない。

 急がない。

 最後の結びが外れた時、感覚毛が風へ戻った。

 ラナの背が低く震える。

「今のは」

「呼吸」

「返事じゃ」

「好きに物語を足すな」

「厳しい」

「鯨は所有者を覚えない」

 サーガは町の灯を見る。

「だが町は、鯨に覚えられなくても世話をする。返事がない相手へ何をするかで、こちらの暮らしが決まる」

「契約なし」

「契約できない相手を、いないことにするな」

 ミラへ聞かせたい、とハルは思う。

 すぐにやめる。

 彼女は彼女の場所で、同じ問いへ進んでいる。

 答えを運んでやる必要はない。

 聞いた言葉だけを、戻って話せばいい。

「サーガ」

「何だ」

「明日も見る?」

「三呼吸」

「手伝う」

「起きられたらな」

「起きる」

「約束するな。来られなければ先に見る」

「じゃあ、起きたら来る」

「受領」

 戻る途中、ロロが長い請求書を持って待っていた。

「救難凧外布一、回収索三、船尾功労章の留め金、主帆補修、旧艦封鎖板二、吸入薬一回。合計」

「怖いから読まない」とハル。

「読め!」

「誰へ請求?」

「競売院、王家、レムの保全財産、ゼロスター号共同費。割合で揉めてる」

「船が払う一ルクは」

 ロロは請求書の一番下を示した。

『ゼロスター号――終了札を常備すること。一ルク相当』

「本当に書いた」

「書かなきゃ、次の俺らが忘れる」

「次も同じことが起きる?」

「同じは起きない。だから同じ備えだけじゃ足りない。でも、止め方を積むのは無駄じゃない」

「請求書が設定集になってる」とハル。

「意味分かんねえけど、料金増し」

 エリアが請求書を取り、割合欄へ訂正線を引く。

「王家負担を先に大きくしない。責任が確定する前の立替と、最終負担を分ける」

「細かい!」とカイル。

「あなたの国の会計です」

「景気が悪い!」

「生きて揉めるんだろ」とハル。

 カイルは請求書を受け取った。

「受領。三日後、皿三枚と一緒に法廷へ持っていく」

 夜。

 霧は薄くならなかった。

 砲撃は止まっている。

 正確には、砲口が開く音だけが、遠くで六・五秒ごとに続いていた。

 進路上へ障害がないためか、風圧弾は放たれない。

 誰も理由を断定しない。

 背市は見張りを三交代にした。

 王家兵だけではない。

 鯨守。

 市場の夜番。

 自由港の船乗り。

 競売院の整備員。

 誰か一人の目が、霧の全部を所有しないように。

 ハルは第一見張りへ立った。

「寝ろ」とカイル。

「お前も」

「俺は物理保管者」

「箱は庫」

「保管者は見張る」

「鍵三つ」

「知ってる」

「じゃあ寝ろ」

「お前が寝たら」

「俺も寝る」

「先に寝ろ」

「同時」

「子供か」とセレナ。

 二人とも振り返る。

「セレナも寝てない」

「私は第二見張りです」

「今は第一」

「第一見張りが規則違反をしているため監督」

「増えた」

「寝なさい」

 蜂蜜菓子を半分に割り、二人へ渡す。

「甘い」とハル。

「低血糖予防」

「自分の分」

「あります」

 外套の襟を閉じて食べる。

 カイルが笑う。

「証拠隠滅」

「王太子の菓子窃盗未遂を追加します」

「未遂!」

 霧の中で、金属音。

 カン。

 三人は黙る。

 六・五秒。

 カン。

 人のように迷わない。

 人のように疲れない。

 人のように、命令の意味を問い直さない。

 夜明け前。

 風向きが変わった。

 ラナが高度を下げる。

 霧の上端が、ゆっくり背市の屋根より低くなる。

 最初に見えたのは、帆だった。

 白い帆。

 風を受けていない。

 それでも同じ角度で張っている。

 次に船首。

 細長い旧式艦。

 雲灰色の船腹。

 王冠章は削れ、横向きの翼だけが残る。

 甲板に、人影はなかった。

「一隻」とハル。

「見えている範囲で」とセレナ。

 その後ろから、二隻目。

 同じ距離。

 同じ速度。

 三隻目。

 四隻目。

 霧が下がるたび、船が増える。

 列ではない。

 弧。

 ラナとカンティレーナを遠く包むよう、古い艦が等間隔で浮かんでいた。

 帆索は動く。

 推進輪も回る。

 舵も小さく修正される。

 甲板を歩く者は見えない。

「望遠」とエリア。

 遮光片を片目へ当てる。

「第一艦、船首無人。中央甲板無人。船尾、霧で不明」

「第二」とセレナ。

「同じ」

「乗員なし?」とハル。

「見えないだけ」

「でも」

「観測は、人影なし」

 霧の艦から、伝声筒が開く。

 一隻。

『奉還』

 六・五秒。

 二隻目。

『奉還』

 三隻目。

『奉還』

 声の高さも、長さも、削れ方も同じだった。

 誰に返せと言っているのか。

 何を返せと言っているのか。

 いつまで言い続けるのか。

 答えは、まだ霧の中にある。

 だが背市カンティレーナでは、魚屋が店を開けた。

 裂れた屋根の下で、パン屋が火を起こした。

 シウが新しい巻き輪の値段をロロへ聞いた。

 ユラは一枚目の銅貨を渡した。

 ミラは動けない椅子から、次に調べる名を選んだ。

 カイルは箱の鍵を一つだけ持った。

 セレナは分からない欄を空白のまま残した。

 エリアは閉じた布の区画も地図へ描いた。

 ハルは零星針を開かなかった。

 命令は人より長く生きる。

 ならば人は、命令より長く問い続ければいい。

 霧の向こうで、砲口が一つ開いた。

 白い光は、まだ撃たれない。

 同じ古い声だけが、朝の空へ流れた。

『奉還』