第194話 第一章「盗めない金庫」後編
破られた約束の匂いは、台風全体へ薄く広がっている。
古すぎる。
何千、何万の通行契約が重なり、誰の何が破られたのかを鼻一つで分けられない。
ノクスは犯人を示さない。
今回は、犯人を探す話でもなかった。
「観測艇、出る!」とエリア。
要塞の入港口から、一隻の細い船が吐き出された。
黒い船体。
三角帆。
船首に巨大な秤。
徴税船は外輪へ向け、台風の流れへ斜めに乗る。
「速度」とエリア。
「外輪比、九割」とロロ。
「減速点を取る」
淡緑の地図線が雲へ走る。
徴税船が入港口を離れる直前、台風内輪の雲が一度だけ遅れた。
一拍。
要塞の黒い壁も、ほんの少し遅れる。
中央金庫だけは、同じ場所に残って見えた。
「今」とハル。
「見た」とエリア。
「何が遅れた」
「台風と外壁」
「金庫は?」
「測定誤差内」
「止まった?」
「最初から見かけ上は」
「また見かけ」
「正確に言って」
徴税船の側面から、黒い板が一枚外れた。
板ではない。
人だった。
整備用の安全翼を背負った税務作業員が、外壁から船へ渡ろうとして足場を失った。命綱は付いている。だが索の固定点が回転壁へ残り、身体だけが外輪へ引かれる。
索が張れば、風に運ばれるより先に腰が折れる。
「一、二――」
ハルは三を言わない。
船首から飛んだ。
「腰索!」とエリア。
ロロの補助腕が、ハルの腰帯へ予備索を撃つ。
右手で取る。
左肩へ掛けない。
台風の外輪は、風ではなかった。
壁だった。
横から殴られ、赤いマフラーが喉へ巻きつく。ハルは身体を小さくし、徴税船の帆影へ入る。作業員は黒い面布の奥で何か叫ぶが、風が言葉を削る。
「索を切る!」
「税務要塞の備品だ!」
聞こえた。
「人より高い?」
「違う、切れば弁が閉じる!」
索は命綱であると同時に、外壁の整備扉を開けておく引き索だった。
切れば扉が閉じ、作業員の足が挟まる。
ハルは作業員の腰へ自分の予備索を回す。
「今から緩める。扉側の索、手で送れる?」
「片手が」
右手袋が回転輪へ挟まっている。
ハルは左足を徴税船の船縁へ掛け、右手で手袋の留めを外す。
左肩は使わない。
腰と両脚で支える。
「手、抜いて!」
「指が――」
「手袋を残す!」
「登録備品!」
「指は登録?」
「個人資産!」
「じゃ高い方!」
留め具を蹴る。
手袋が回転輪へ残り、作業員の手が抜けた。
同時に、台風が一段強くなる。
二人が外へ投げられる。
「回収!」
ジルの銅笛。
ゼロスター号が横滑りする。
ミラは義足帆を開きかけ、止めた。
今、勢いを盗めば、その勢いを身体へ溜めなければならない。
「ジル、右二点!」
「見えてる!」
「私の腰は見えない!」
「口は見える!」
ジルが舵を切る。
エリアの路図が二人の落下線へ淡緑の弧を引く。
カイルは盾を大きく出さず、拳ほどの炎板を二枚、索の擦れる位置へ置いた。
「そこを守るの?」とハル。
「索が切れたら全員落ちる!」
「正しい!」
「褒める前に掴まれ!」
ロロの補助腕が予備索を巻く。
ハルと作業員は船腹へ当たり、二回転して甲板へ転がった。
ハルは右肩から受ける。
左肩を守れた。
「怪我」とセレナ。
「俺、なし」
「作業員へ聞いています」
「指、全部」
黒い面布の作業員は手を開閉する。
「腰」
「痛い。動く」
「名前」
「登録番号七外輪二六」
「名前を」
「勤務中は番号」
「勤務外は」
「勤務外がない」
冗談ではなかった。
作業員の首には、薄い量札が下がっている。
体重。
食糧配給。
作業時間。
退職時に返されると書かれた保証金。
人を荷物として数えてはいない。
人間一人を、勤務条件の合計へ分解している。
「要塞へ戻す」とセレナ。
「戻りたい?」とハル。
作業員は答えない。
面布の奥で、目だけが台風の中心を見る。
「戻らなければ、保証金が消える」
「命より?」
「保証金がなければ、家族の登録が消える」
ハルは何も言えない。
助ければ自由になる、とは限らない。
連れ出せば救助になる、とは限らない。
セレナが確認する。
「要塞へ帰還する意思がありますか」
「ある」
「強制条件を含む可能性を記録します。それでも今は戻る?」
「戻る」
「受領」
徴税船へ引き渡す。
船側の監督官は礼を言わなかった。
代わりに、壊れた手袋の代金票を差し出した。
「救助側負担」
「人を助けたのに?」とハル。
「備品を破損した」
「指は残った」
「指は当要塞の備品ではない」
「人の指を所有しない点だけは立派ですね」とセレナ。
「褒めてない」とカイル。
「事実です」
ミラが代金票を取り、金額を見る。
「手袋一組、十二ルク。救助危険手当、記載なし。作業員の治療費、本人給与から差引き」
「高い?」とパル。
「手袋が」
「人は」
「帳簿にない」
ミラの風鈴が鳴らない。
彼女は代金票を二つに折る。
破らない。
証拠としてセレナへ渡す。
「金庫の中に、こういう紙が何年分あると思う」
「全部盗る?」とハル。
「全部は駄目」とセレナ。「返還対象でない記録、他者の私的情報、係争中の証拠があります」
「じゃ必要な分」
「必要を誰が決める」とジル。
「持ち主」
「署名できねえ持ち主は」
机の下から、パルが出る。
「私」
全員が見る。
「何」とパル。
「行くの?」とハル。
「私の首の札、あそこに写しあるかも」
首の後ろの焼印。
積荷として値段を書き換えられた痕。
「見つけたら?」
「消すか、持つか、見てから決める」
「危険」
「先に聞け」
マオの口癖を知らないパルが、同じ言葉を使う。
人は同じ傷から同じ言葉を作ることがある。
だからといって、同じ人間になるわけではない。
作業員を返した後、ゼロスター号は台風の外縁からさらに半周した。
昼食は、甲板へ縛った鍋だった。
豆と干し肉。
台風の揺れで汁が片側へ寄るため、ロロは鍋の底へ三本の自動水平脚を付けた。脚は船が傾くたび逆へ伸び、鍋だけが地平線を信じ続ける。
「鍋の方が方向感覚いい」とハル。
「比較相手が悪い」とロロ。
「俺、鍋に負けた?」
「鍋は目的地へ行かねえ」
「じゃ引き分け」
「負けを値切るな」とミラ。
パルは匙を並べた。
鉄が四本。
木が二本。
銀が一本。
見覚えのない銀匙の柄には、要塞と同じ白い量札穴がある。
「どこで拾った」とジル。
「拾ってない。市場の落とし物箱。三年、誰も来なかったから、働いた分でもらった」
「持ち主が後で来たら」とセレナ。
「返す」
「どう確認する」
「傷の場所を聞く」
銀匙の裏には、斜めの深い傷が二本。
「登録証は」とハル。
「なくても傷は知ってる」とパル。
税務要塞は、署名と登録の連続を所有と呼ぶ。
パルは、物へ付いた生活の傷を所有の手掛かりにする。
どちらも完全ではない。
完全でない方法を一つしか認めない時、制度は人を落とす。
ミラが銀匙を借りる。
「値段」
「豆二口」
「高い」
「銀」
「匙の材質は食味へ影響しない」
「じゃ手で食べる」
「一口」
「二」
「成立」
ミラは豆を二口分、パルの皿へ移す。
「返す時、傷を増やさないで」
「契約に」
「今言った」
「口約束」
「嫌?」
ミラは銀匙を見る。
紙へ書かない約束。
破ればノクスが匂いを嗅ぐかもしれない。
破らなくても、証明は難しい。
「嫌ではない」と彼女。「怖い」
「じゃ、傷増えたら豆四口」
「罰金が倍!」
「見える鎖」
ミラは短く笑う。
「成立」
ハルは豆煮を食べながら、要塞を見る。
「盗る物、決めないと」
「決める前に、誰が返せと言っているかを分けます」とセレナ。
彼女は三枚の紙を甲板へ留めた。
一枚目。本人から返還請求がある記録。
二枚目。共同保管の封印を破って留置された物。
三枚目。持ち主が未確認で、現状保存だけが必要な記録。
「三枚目も持って帰る?」とハル。
「原則、持ち出さない。位置と状態を記録し、外部立会いを求めます」
「要塞が断ったら」
「断った事実を公開する」
「弱い」
「強い方法だけで法を作れば、強い者しか使えません」
「でも待ってる人は」
「だから、本人が返せと言っている物を先にする」
パルは自分の首へ触る。
「私のは、見てから」
「それも本人の選択です」
エリアは食べ終えず、地図紙へ小さな黒点を十二個置いていた。
「橋の位相が違う」
「何」とハル。
「中央金庫へ渡る十二本の橋。同時に同じ角度へ来ない。三本ずつ、四群に分かれている」
「一つ渡れば」
「次の橋が床になるまで二十二秒。前の橋は壁へ移る」
「走れば」
「あなた一人なら。記録箱、パル、負傷者がいれば別」
「金庫の外へ鉤を打つ?」
ロロが三本の観測鉤を出す。
一つは鉄。
一つは星晶。
一つは布羽根。
「打つんじゃねえ。近くへ投げて動きを見る。金庫に刺したら警報と請求書が同時に来る」
「請求書の方が早そう」
「税務要塞だぞ」
三本を別々の時刻へ投げる。
鉄鉤は外壁と一緒に回る。
布羽根は台風へ流される。
星晶鉤だけ、金庫の縁と同じ位置を保つ。
「磁力?」とカイル。
「星脈同調」とロロ。「金庫は外壁じゃなく、内輪の星流へ合わせてる可能性」
「固定されてない?」とハル。
「今は可能性」とエリア。「同じ位置に見えることと、同じ物へ固定されていることは違う」
ミラは三本の軌跡を見る。
金庫を運ぶ道ではない。
何が金庫を同じ場所へ置いているかを奪う道。
彼女はまだ説明しない。
説明しないことが、作戦上の秘密になる前の、考え途中の沈黙だった。
エリアは要塞の地図紙を畳む。
「金庫は大きすぎる。橋は十二。入港口は狭い。外壁は台風と同期。中央部へ直接接舷できる場所はない」
「砲台は三十六」とカイル。
「税務船を除くと二十八が稼働」とセレナ。
「壊すなら?」とハル。
「修理代三国家分」とロロ。
「盗めない?」
ミラが船首へ来る。
星晶義足の踵が、修理跡の多い甲板を鳴らす。
一歩。
風鈴を一度。
「盗める」
「どうやって」
「金庫を一歩も動かさずに」
「それ、さっきも聞いた」
「聞いた話と、信じた話は別」
「信じてほしい?」
「契約してほしい」
「違いは」
「信じなくても、条件を読める」
ミラは台風の中心を指す。
黒い要塞。
回る壁。
動かないように見える金庫。
「永遠に回る徴税要塞〈ストーム・ヴォルト〉から、動かない金庫を盗む」
彼女は短く三度笑った。
「怪盗契約、始めよう」