第195話 第二章「怪盗契約」前編
契約書は、未来の記憶である。
まだ起きていない出来事について、起きた後の人間が「そんなつもりではなかった」と言わないために書く。
だから契約書には、幸福より事故が多い。
成功したら仲よく分ける、では足りない。
誰かが落ちたら。
船が燃えたら。
敵へ移ったら。
死んだら。
死んだことを誰が確かめるか。
人は最悪を文字へすると縁起が悪いと言う。
空賊は逆に、最悪を書かなければ最悪が自分だけを知らない顔で訪ねてくる、と考える。
ミラ・ベルウェザーが文字を覚えた最初の日、教えられたのは自分の名ではなかった。
『債務者』
九歳で左脚を失い、救助費を請求され、働けば減るはずの借りが食費と寝床代で増えていった。船長は親切だった。痛み止めをくれた。義足を買った。毎晩、借りの額を読み上げた。
親切は、値段を後から付けた瞬間に鎖になる。
そのためミラは、値段を先に書く。
鎖を見える場所へ置く。
見えている鎖なら、結ばない自由があると信じていた。
見えない役割を誰かへ渡す契約を、彼女は今から作ろうとしていた。
「題名」
「台風金庫強盗契約」
「却下」とセレナ。
「何で」
「強盗は対人暴行または脅迫を伴う財物奪取です。現時点の計画では侵入、器物損壊、自力救済、共同保管物の回収、記録保全――」
「題名だけで罪状が五つになった」とハル。
「正確に分けています」
「じゃ『返してもらう会』」
「会費を取りそう」とパル。
「『台風金庫へ行って、持ち主が返せと言ってる物を持って帰り、途中で人が落ちたら助ける契約』」とカイル。
「題名で一枚使う」とロロ。
「紙代一ルク」とミラ。
「題名へ請求すんな!」
自由港ヴェイン、旧軍艦共同停泊区。
二十一隻の幽霊艦は、命令筒を抜かれたまま外縁へ並んでいた。人のいない甲板には洗濯物が干され、砲口へ漁網が掛けられ、旗艦の食堂は臨時の共同会議室になっている。
かつて戦争の命令を待った長卓に、紙が七種類。
王国法用。
自由港の結索記録用。
読字が難しい者向けの絵図用。
濡れても残る油紙。
燃えた時に黒く文字だけ残る煤紙。
パルが勝手に持ち込んだ包み紙。
ノクスが寝ているため使えない一枚。
「ノクス、そこ契約書」とハル。
「ノゥ」
「否定された」
「所有権を主張している可能性があります」とセレナ。
「魚一尾で借りる」とミラ。
ノクスは片目を開く。
「二尾」とハル。
「勝手に交渉するな」
「ナァ」
「三尾」
「お前、夜獣側の代理人?」
「本人が言葉少ないから」
ノクスはハルの耳を噛んだ。
「代理権なし」とエリア。
笑いが起きる。
ミラは笑わない。
卓上の紙を、役割ごとに並べた。
第一列。目的。
不当に留置された自由港の量札原簿、所有記録、救難記録を、本人または本人が選んだ保管者へ返せる状態で確保する。
第二列。共同保管物。
王獣鈴の欠片を、セレナ、カイル、来歴側代理の三封印へ戻す。来歴側代理は今回は自由港に残るため、封印箱を開けない。確保だけ。
第三列。人命。
参加者、税務要塞の職員、徴税船員、未確認の滞在者を区別せず、救命は物品回収より先。
第四列。報酬。
空賊船団は危険手当と燃料費。旧軍艦の帆を貸す共同保管会へ修理積立。ゼロスター号へ部品費。ロロへ工賃。パルへ――
「保存食二十食」とパル。
「現金じゃなく?」
「現金は食べられない」
「利率が悪い」とミラ。
「腐らない瓶も三つ」
「二つ」
「四つ」
「増えた!」
「値切ったから」
「三つ。蓋付き」
「成立」
パルは右手の六本指で、三本の短い結び目を作る。
署名ではない。
本人が選んだ参加印。
セレナが確認する。
「役割は」
「狭い所。首の札の写しを探す。嫌になったら出る」
「嫌になったと判断するのは」
「私」
「撤退路」
「二つほしい」
「三つ描く」とエリア。
「三つ全部、あんたが決める?」
エリアの地図筆が止まる。
「いいえ。幅、段差、閉鎖条件だけ示す。選ぶのはあなた」
「じゃ成立」
ミラはそこへ線を引く。
本人が決める。
簡単な五文字である。
実際に守るには、地図、時間、代替手段、説明できる言葉が必要になる。
「俺の役」とハル。
「侵入、運搬、救助」
「運搬しないって言った」
「人と記録箱は運ぶ。金庫は運ばない」
「侵入はどこから」
「第六砲口」
「何で」
「古い航路盤に整備路が残ってる」
「それだけ?」
「それだけを共有する」
ミラは次の紙を置いた。
中央の三分の一が黒い。
墨を塗ったのではない。
黒い油紙を重ね、端を七つの封印糸で縫ってある。
作戦の一部だけを共有する契約〈ハーフ・プラン〉。
役割。
報酬。
開始条件。
撤退条件。
参加者が自分の身体と権利について判断する最低限を示し、全目的、全員の配置、偽装内容は共有しない。
「却下」とハル。
「早い」とミラ。
「読めない」
「読まなくていい部分」
「俺が決める」
「読まない契約へ参加するかを」
「読めないのに、参加した後何されるか分からない」
「何をされないかは書く」
「される方が大事」
「されない方が死なない」
「死ななければ何してもいい?」
会議室の風が一度、狭くなる。
ミラは笑わない。
ハルは怒鳴っていない。
本気の時ほど声が低い。
左肩を回す。
羅針盤の蓋には触れない。
「俺、人を待たせる役は嫌だ。囮も、知らないまま誰かを信じる役も、あとで『必要だった』って言われるのも嫌」
父が「必ず帰る」と言って消えた。
説明のない約束は、破られた後も待つ側の時間を使う。
ミラはそのことを知っている。
知っていて、黒い紙を置いた。
「黒い所に、ハルが敵側へ移る条項はない」と彼女。
「ミラは?」
ミラは答えない。
それが答えになる。
「あるんだ」
「移る場合の条件がある」
「何で」
「黒い」
「じゃ却下」
「契約終了?」
「まだ。書き直す」
ハルは紙を自分の方へ引いた。
セレナが止める。
「契約原本へ無断で」
「書いていい場所」
余白。
契約書の余白は、書いた者が考えなかった人間のためにある。
ハルは現代のボールペンを配達鞄から出す。インクは残り少ない。アステリアへ来た時から使っているため、書き出しが薄く、途中から急に濃い。
『共有されていない目的を理由に、参加者へ行動を強制しない。参加者は、いつでも物品回収を捨て、救助、撤退、保留へ移れる。違約金なし。理由を言えない時も有効』
「最後」とミラ。
「理由を言えない時」
「何で」
「怖い時、説明できないことある」
「その保留を敵が使う」
「敵が使える道具は、味方からも奪う?」
ティアなら規則の悪用条件を数えただろう。
セレナなら証拠を要求する。
ミラは値段を考える。
「救助へ変えると、報酬は」
「それまでの分」
「撤退者が原因で損害が出たら」
「わざとじゃなければ共同」
「わざとなら」
「あとで決める」
「契約で決めない?」
「今の俺たちが、未来の全部を知ってるふりしない」
ミラの右手小指にある古い船長契約の刺青が、わずかに曲がる。
「曖昧」
「保留」
「私の言葉を盗るな」
「返す」
「利息」
「今の一回」
「成立してない」
「じゃ保留」
「また!」
ミラは短く三回笑った。
笑った後、黒い紙の下へ新しい条項を写す。
拒否権。
違約金なし。
救命優先。
説明不能時も有効。
「値段」とパル。
「何の」
「拒否する値段」
「零」
「零なら、みんな使う」
「使っていい」
「そしたら計画なくなる」
「なくなったら」
「困る」
「誰が」
「計画した人」
「じゃ、その人が困る」
パルは紙の端へ、六本指のうち短い一本だけを置いた。
「安い物、いつも先に捨てられる。零なら、一番先に捨てられる?」
救助費を零にすると、予算から先に削られる。
値段を付けない労働は、必要ないと見なされる。
無償は自由にもなるが、存在しない費用にもなる。
ミラは答えを急がない。
「拒否権は零。拒否した後の帰還費、食料、治療は共同費へ入れる」
「紙に」
「書く」
「成立」
パルが三本目の結びを締めた。