第196話 第二章「怪盗契約」後編
契約書を参加者だけで作らないため、ミラは共同停泊区の待合甲板を開いた。
来たのは十一人。
原簿へ自分の船が記録されている者。
死んだ親の量札を探す者。
記録そのものを見たくない者。
見たくないが、他人に勝手に見られるのも嫌な者。
同じ「返してほしい」でも、返してほしい物は同じではない。
「原本を港へ」と、洗濯船の老女。
「港へ置いたら港主がまた使う」と、若い船大工。
「燃やして」と、顔を布で隠した男。
「何を」とセレナ。
「父が家族船を担保にした記録。残れば弟が相続請求される」
「被害立証に必要な可能性があります」
「俺の家の恥を、立証の道具にする?」
セレナはすぐ答えない。
「原本の存在を消すことは、他の被害者の請求にも影響します。ですが、あなたの氏名や家族関係を公開しない封印は協議できます」
「誰が開ける」
「あなたが選ぶ条件で」
「死んだ後は」
「継承するか、封印を続けるか、今決めない選択もあります」
「決めないまま死んだら」
「自動公開にはしません」
「役所は、空欄を勝手に埋める」
「だから空欄を選択として記録します」
待合甲板の端にいた女は、最後まで椅子へ座らなかった。
顔も隠していない。
ただ、誰とも同じ卓を囲まない。
「私の記録は、返さないで」
ミラのペンが止まる。
「見たくない?」
「見たくない。持ち主だった船にも、今いる港にも、私が昔どの名で働いていたか知られたくない」
「不当に取られた記録です」とセレナ。
「不当に取られたから、返せば正しい?」
「いいえ。返還方法は本人が選ぶべきです」
「なら、触らないで」
「要塞が持ち続けます」とハル。
「今も怖い。でも、皆の前へ出る方が近い怖さ」
「封印だけなら」
「誰が封印したか、記録に残る」
「匿名で」
「匿名の一人がいた、と残れば、探す人は探す」
ハルは口を閉じる。
助ける方法を増やすほど、相手の逃げ道を塞ぐことがある。
「何もしない?」とパル。
「今は」
「後で変える?」
「変えるかもしれない。変えないかもしれない」
「保留」
「その札も、私には付けないで」
パルは保留札を出しかけた手を戻す。
「じゃ、何も付けない」
「ありがとう」
女は署名も線も残さず、甲板から去る。
セレナは名簿へ「不参加者一」とも書かない。
人数へ数えれば、存在を残すことになるからである。
ミラは契約目的へ、もう一行を加えた。
『本人の請求がない記録は、事件立証に必要な位置と存在だけを封印し、内容を持ち出さない。本人へ返すことを、本人の義務にしない』
「助けない条項」とハル。
「助ける側が、止まる条項」とミラ。
「値段」
「見栄一つ」
「安い?」
「怪盗には高い」
男は署名しない。
代わりに、紙へ黒い横線を一本引いた。
「名前の代わり?」とハル。
「名前を残さない印」
「矛盾」とミラ。
「残さないことを残す」
「高い矛盾」
「値段つけるな」
老女は言う。
「私の船の原簿は、皆へ見せていい。沈んだのが積みすぎじゃなく、偽の量札のせいだと分かるなら」
「家族の名も?」とセレナ。
「孫の名は隠す」
「一冊の中で公開範囲を分ける必要があります」
「切る?」とロロ。
「原本を切りません」
「複写で分ける?」
「閲覧窓を作ります。開示部分だけ見える覆い」
「面倒」とミラ。
「返すとは、相手の面倒を引き受けることです」とセレナ。
「盗む方が安い」
「だから盗賊は流行る」とジル。
若い船大工は、原簿ではなく一枚の量札だけを求めた。
「母の船名が消されてる。名前を戻したい」
「船は沈んだ?」とハル。
「船体はある。別の持ち主が直して住んでる」
「名前を戻したら、その人が出る?」
「出したくない」
「じゃ船名だけ?」
「今の名の横へ、昔の名を」
「二つになる」とパル。
「駄目か」
「物、名前二つでも壊れない」
「人も?」
「知らない」
パルは自分の名を、誰からも正式に与えられていない。
荷札の番号を捨て、港で呼ばれた音を自分の名にした。
「でも選べる方を上に書けば」と彼女。
船大工は頷く。
ミラは契約目的の一行を直した。
『記録を持ち主へ返す』
消す。
『記録について、本人が見る、写す、訂正を求める、封印する、保管者を選ぶ状態へ戻す』
「長い」とハル。
「人生を短く書くと、誰かが抜ける」
「今の格言?」
「費用請求する」
「誰に」
「言わせた相手」
「俺?」
「一ルク」
「高い!」
字を読めない参加者のため、契約は声に出して読まれた。
一回目はミラ。
速すぎた。
「今、三枚目から七枚目まで息継ぎなかった」とハル。
「時間の節約」
「理解も節約した」とエリア。
二回目はカイル。
宮廷読みで美しすぎた。
「『物品の任意放棄』が演説に聞こえる」とロロ。
「王家教育の弊害だ」
「自分で言う?」
三回目はパル。
文章を読まない。
絵札を並べる。
人の絵。
船。
火。
開いた手。
戻る矢印。
止まる印。
「これ、何」と老人。
「嫌なら手を開く。止まる」
「理由は」
「言えたら言う。言えなくても止まる」
「帰りの飯」
「共同費」
「怪我」
「治療」
「死んだら」
パルはミラを見る。
ミラが答える。
「死亡確認を一人に任せない。遺体を所有物にしない。本人が生前に選んだ連絡先へ。選んでいなければ、仲間と港の立会い」
「借金は」
「遺族へ自動で移さない」
老人が笑う。
「そこだけで参加したいくらいだ」
「参加しなくても適用」とミラ。
「なぜ」
「死亡を報酬にしない」
契約は、冒険を格好よくする紙ではない。
格好よく死んだ者へ、後から請求書を送らないための紙でもある。
最後に、各人へ一つずつ質問する。
『分からない箇所はどこ』
『嫌な役は何』
『帰ると決めるのは誰』
答えを言えない者には、保留札。
保留札を出した者を、臆病とは書かない。
参加者数へ数えないだけでなく、不参加者としても固定しない。
明日の朝、変えられる。
未来の記憶は、未来を牢屋へしないためにも、余白を残す必要があった。
役割を決める。
ジル。
外輪船団指揮。台風内輪へ入らない。撤退号令を独自に出せる。ミラの命令と衝突した場合、現在の風を見た者の判断を優先。
「私が船団を持つ」とジル。「ミラが敵へ行っても、全船は付いてかねえ」
「敵へ行くって決まってるみたい」とハル。
「条項にある」
「読めない」
「だから嗅いだ」
「紙の匂いで?」
「人の顔で」
ジルはミラを罵るように見る。
「この役立たず船長め」
「今は船長じゃない」
「役立たずだけ残った」
「取り分一割減らす」
「船団側が決める」
「成立してない!」
カイル。
盾による局所防御。王家兵への単独命令禁止。共同保管箱の確保。重傷時はセレナが強制撤退を宣言できる。
「重傷の定義」とカイル。
「肋骨二本」とセレナ。
「一本なら」
「呼吸数と背部熱を併記」
「冗談の数は?」とハル。
「増えるほど危険」とエリア。
「俺の人格を症状へ入れるな」
「既刊八巻ぶんの観測結果です」とセレナ。
「何の巻だ」
ロロ。
ゼロスター号機関、廃砲口侵入、帆骨温度監視。喘息発作時は本人の申告を待たず、呼吸音と指先色で中断を提案。ただし吸入器へ触れる前に声を掛ける。
「提案じゃ遅い時」とハル。
「俺が返事できなきゃ使え」とロロ。
「本人抜き?」とパル。
「返事不能を先に決めた。本人入りだ」
「じゃいい」
エリア。
三次元路図。連続展開は十二分、休止三分。肺の息切れ、踵痛のどちらか四段階で縮小。五で中断。
「四で縮小、五で中断」と彼女自身が書く。
「三で言って」とハル。
「三は継続可能」
「隠す」
「申告する」
「本当に?」
「契約へ書く」
「紙が言うんじゃなくて」
エリアは地図針を外し、差し直す。
「あなたに言う」
「成立」
ミラが言った。
二人同時に彼女を見る。
「何」とミラ。
「今の、俺たちの」とハル。
「会議の空気は共有資産」
「盗った」
「返さない」
セレナ。
証拠保全。記録を持ち出す対象は、返還請求一覧と共同保管箱。全台帳の無差別複製は禁止。要塞職員の私的情報を持ち出さない。
「悪い奴の帳簿も?」とハル。
「悪いと立証するために必要な範囲。個人の病歴や家族情報は別です」
「全部見ないと分からない時」
「現場で保全し、第三者審査を求めます」
「第三者がいない」
「作ります」
「法官は作れるんだ」
「必要なら」
「船は作れない?」とロロ。
「専門外です」
「認めた!」
ノクス。
所有物ではない。
役割を契約書へ書けない。
本人が選ぶ。
「魚三尾」とハル。
ノクスがまた耳を噛む。
「翻訳を拒否しています」とエリア。
「じゃ空欄」とセレナ。
空欄は、未決ではある。
存在しないことではない。
最後に、ミラ。
侵入指揮。
風盗。
敵側へ移る可能性。
理由は黒い。
「ミラの撤退条件」とハル。
「義足蓄勢七。右膝痛四。腰の痺れ二。風鈴が聞こえなくなったら中断」
「何で風鈴」
「高音が聞こえなくなったら、蓄勢で内耳へ負担が来てる」
「ジルは高音聞きづらい」とパル。
「私の耳は前からだ」とジル。
「じゃ風鈴止まっても分からない」
「ミラの顔を見る」
「嘘つく」とハル。
「嘘つく時は正面から来る」とジル。
ミラは真っすぐハルを見る。
「今、嘘?」
「まだ何も言ってない」
「顔が近い」
「契約距離」
「そんなのある?」
「今作った」
エリアの右眉が、また上がる。
ミラはそれを見た。
見なかったことにしない。
値段にも換えない。
「最後」とセレナ。「情報秘匿の責任」
黒い部分を示す。
「秘匿により参加者が受けた身体的、財産的、心理的損害は、作戦成功によって免責されません」
ミラの指が止まる。
「心理的損害をどう測る」
「測れない場合がある、と書きます」
「賠償」
「相手が金銭を望まない場合、謝罪、説明、今後の拒否条件を別に協議」
「面倒」
「秘密にする側の費用です」
セレナは黒い羽根を伏せて置く。
「私は計画の全内容を知りません。知っている部分についても、違法性を免責しません。証人として署名します」
カイルが左手で署名する。
王家礼法で矯正された右ではなく、本来の利き手。
『カイル・アークレイ』
王太子印を押さない。
エリア。
ロロ。
ジル。
パルの結び。
セレナ。
ハルは最後までペンを置いたままにする。
「黒い所、読まない」と彼。
「読めない」とミラ。
「同じじゃない。俺が読まないんじゃない。ミラが見せない」
「正確」
「だから、信じたことにしない」
「契約は信頼の代わりになる」
「ならない。信じなくても一緒に動く方法にはなる」
「それでいい」
「よくない時は拒否する」
「書いてある」
「ミラに言ってる」
彼女は風鈴へ触れない。
「受領」
ハルが署名する。
現代のインクが途中で薄くなり、最後の「ル」だけ二度なぞる。
ミラは原本を三つに分けた。
一つはゼロスター号。
一つは空賊船団。
一つはセレナの証拠箱。
そして、別の紙を一枚だけ卓の下へ滑らせる。
パルが気づく。
「落ちた」
「落とした」
「拾う?」
「拾われるため」
「誰に」
ミラは会議室の丸窓を見る。
遠く、台風の雲が回っている。
その手前を、一羽の白い観測鳥が横切った。
鳥にしては翼の間隔が正確すぎる。
目の位置で、鏡が一度光る。
「税務要塞は、入る前から人数を数える」
卓下の紙には、黒い部分がない。
代わりに、ミラが敵へ移る場合の理由が、ひどく分かりやすい言葉で書かれていた。
ハルからは見えない。
甲板にいる誰にも、まだ見せない。
ミラは紙の角を、風が運びやすい向きへ一度だけ折った。
「怪盗契約、成立」
風鈴が鳴る。
ノクスだけが、卓の下へ鼻を向けた。
破られた約束の匂いはしない。
まだ、何も破られていないからである。