第197話 第三章「計画の半分」前編
稽古は、成功するために行うものではない。
失敗を安く買うために行う。
本番で帆が裂れれば船を失う。
訓練で裂れれば布代で済む。
本番で仲間を見失えば、名前を呼び続けることになる。
訓練で見失えば、怒鳴られ、地図を書き直し、昼食が遅れる。
だから優れた訓練は、上手くできた回数を数えない。
どの失敗なら生きて帰れるかを数える。
ただし人間には、失敗を見られると恥ずかしいという性質がある。
空賊にはもう一つ、失敗を見せれば相手が油断するという性質があった。
「第一段階! 落ちる!」
「訓練の号令として縁起が悪い!」
「落ちない訓練で落下を覚えられるか!」
ジルの銅笛が三度鳴った。
幽霊艦隊の中央停泊区。
二十一隻の甲板を索と帆でつなぎ、中央へ巨大な回転枠が組まれている。旧艦の砲塔三つを外し、円環状の足場へ作り替えたものだ。ロロはその装置を「税務要塞縮尺模型」と呼び、ミラは「貧乏人の台風」と呼び、カイルは「王国資産の用途変更」と呼んだ。
セレナは「許可申請上は救難訓練設備」と記録した。
同じ物でも、呼び名によって罪状が変わる。
「回転、三!」とロロ。
四本の補助腕が別々の制動輪を外す。
円環が動く。
最初は歩く床。
次に走る床。
最後には、立っている者を壁へ変える速度になる。
ハルは外側の帆柱へ立ち、赤いマフラーを短く結んだ。
左肩の固定帯はない。
代わりに、腰帯から二本の安全索。一本を右手、もう一本を背中の自動巻き取り器へつなぐ。
「一、二、三!」
飛ぶ。
回転枠の内壁へ、両足で着地。
地面が横へ逃げる。
右足で追う。
左足を壁の目盛りへ置く。
腰を落とす。
「早い!」とエリア。
「遅れたら落ちる!」
「早いから目印を二つ飛ばした!」
「着いた!」
「違う場所へ!」
「着地は成功!」
「目的地が違えば失敗!」
「人生みたい」
「格言に逃げない!」
淡緑の路図が回転壁へ走る。
エリアは円環の外、三本の支柱の間へ立っている。地図槍を床へ固定せず、左手の筆だけで小さな路図を分けて描く。
連続一枚ではない。
ハルの足元。
次の取っ手。
砲口の死角。
三枚だけ。
踵への負担を分けるため、道を短く区切った。
「青線へ!」
「淡緑!」
「今、色の教育をしている場合?」
「青と呼ばれると次の線と混ざる!」
「じゃ薄い方!」
「濃い方も薄い!」
「地図屋の色、細かすぎる!」
「あなたの方向が粗すぎる!」
ハルは一つ目の線を外し、二つ目へ飛ぶ。
回転枠の中央から、砂袋が射出された。
税務砲の代用品。
当たっても骨は折れにくい。
痛くないとは書いていない。
「盾!」とカイル。
深紅の炎が掌ほど開く。
砂袋の先端だけを受け、軌道を半歩ずらす。
「小さい」とハル。
「全身を守ったら訓練にならん!」
「顔だけ!」
「顔は自分で守れ!」
袋がハルの耳をかすめる。
ノクスが袋へ飛びついた。
二本尾が逆へ広がり、布へ爪を立てる。
「ノクス、訓練弾を捕るな!」とロロ。
「ノゥ!」
「狩りじゃない!」
「ナァ!」
「本人は戦果と言っています」とセレナ。
「証拠にするな!」
ノクスは砂袋をくわえたまま、回転枠の上を走る。
彼だけは地面の向きが変わっても気にしない。
ハルは三つ目の取っ手へ届く。
「第二段階!」とジル。「壁がなくなる!」
「まだ聞き方が怖い!」
回転枠の外板が一枚、下へ開く。
足元の壁が消えた。
ハルは落ちる。
落ちながら、右手の安全索を離す。
自動巻き取り側だけを残す。
片腕で全身を吊らない。
腰へ荷重を渡す。
その下を、ゼロスター号が走る。
エリアの路図に沿い、ジルが舵を切り、カイルが船首の突風だけを盾で割る。
「三歩先!」とエリア。
「船が動いてる!」
「だから三歩先!」
「どの三歩!」
「あなたの!」
「地図に俺の歩幅書いてある?」
「昨日測った!」
「いつ!」
「寝ぼけて厨房へ行った時!」
「私生活が測量されてる!」
ハルは笑いながら船へ落ちる。
落下布。
腰から受ける。
左肩をかばい、右側へ転がる。
「到着!」
「二・七歩ずれ」とエリア。
「三歩以内!」
「目的座標は一点」
「人間は点じゃない」
「今だけ良いことを言わないで」
次の瞬間、船尾から金属音。
ロロが円環内側の廃砲口へ入った。
四本の補助腕を折り畳み、本人は横向き。後ろからパルが押す。
「もっと右」とロロ。
「右、どっち」
「俺の!」
「見えない」
「工具箱側!」
「工具箱、四つある」
「黄色い!」
「全部黄色」
「俺が悪かった!」
廃砲口は、大人一人が肩を斜めにして通れる幅しかない。
パルなら余る。
ロロは補助腕が引っかかる。
「一番下の腕、畳む」とパル。
「それ畳むと後ろの弁取れねえ」
「じゃ、私が弁」
「工具使えるか」
「六本ある」
「指の数を資格にするな」
「便利?」
「便利」
「じゃ使う」
「本人が便利って言うのはいいのか」とハル。
「本人が決めたなら」とエリア。
「道具扱いでは」とセレナ。
パルが砲口の奥から顔だけ出す。
「大人、うるさい」
「受領」と三人。
見せる計画は、五つだった。
一。空賊船団が台風外輪へ入り、砲台の視線を分ける。
二。ゼロスター号が税務船入港時の上昇流へ乗る。
三。ハル、カイル、セレナ、エリアが外壁へ侵入。
四。ロロとパルが第六廃砲口から整備軸へ入る。
五。量札台帳と共同保管箱を確保し、署名なしで使える救難路〈フリー・ライン〉の投下筒から自由港側へ送る。
「帰りは」とハル。
「同じ道」とミラ。
「同じ道、閉じたら」
「第二路」
「どこ」
「黒い」
「また!」
「撤退路の存在は共有。位置は共有外」
「存在しないかも」
「契約違反になる」
「違反したら、落ちながら訴える?」
「生きて帰ってから」
「裁判、遅い」
「死ぬより早い」
ミラは回転枠の中央へ立つ。
左の星晶義足。
脹ら脛から三枚の小帆。
右手には帆へ変じる略奪刀〈サルベージ〉。
今日は刃を使わない。
帆だけ。
ロロが旧軍艦から外した六本の帆骨を、円環の外へ放射状に置く。
勢いを蓄える帆骨〈モーション・バンク〉。
船が急加速する時、受け切れない勢いを一時的に骨へ逃がす。
無限には入らない。
金属は熱を持つ。
星晶は青く濁る。
限界を越えれば、曲がるか、割れるか、蓄えた勢いを一度に吐く。
「蓄勢一」とロロ。
円環が回る。
ミラは右手を伸ばす。
移動物から勢いを盗む風術〈スティール・ゲイル〉。
青い輪が、回転枠から義足へ流れる。
枠の速度が一段落ちる。
義足の小帆が開く。
盗まれた勢いは消えない。
一本目の帆骨へ渡る。
「二」
二本目。
「三」
三本目。
星晶の内側へ青い筋。
温度紙が白から黄へ変わる。
「四」
ミラの右膝が一度だけ曲がる。
彼女は痛みを顔へ出さない。
代わりに数字が細かくなる。
「右膝一・二。腰〇・八。継続」
「小数にするな」とロロ。
「一と二では値段が違う」
「身体は請求書じゃねえ!」
「修理工が言う?」
「言う!」
「五」
五本目。
円環の回転がさらに落ちる。
ハルは風の変化を見る。
髪が前へ流れていたのが、真下へ落ちる。
「風、盗めるんだ」
「風じゃない」とミラ。「動いてる空気の勢い」
「同じ」
「止まった空気からは取れない」
「止まった風は風じゃない?」
「言葉遊びしてる暇があるなら温度見ろ!」とロロ。
「六!」
六本目。
帆骨の温度紙が橙へ。
ミラの片耳で、風鈴が一つだけ鳴らなくなる。
彼女は左の小帆角を変え、義足の中へ残った勢いを六本へ均等に押し出す。
均等にはならない。
古い帆骨。
新しい継ぎ板。
砲撃痕。
長さ。
全部違う。
「一番、六・二! 二番五・八! 三番六・四!」とロロ。
「数字が細かい」とハル。
「今は細かくていい!」
「七!」
青い輪が太くなる。
円環の速度が半分へ落ちた。
ミラの義足踵が、甲板を三度打つ。
一。
二。
三。
止まれない身体の音。
「蓄勢七。公称上限」とロロ。
「公称?」とハル。
「医者、工房、船団へ出してる安全値」
「本当の上限は」
「身体が壊れるまでなら上がる。安全の上限とは別」
「じゃ七で止める」
「当然」とエリア。
「本番で八が必要なら」
「計画を変える」とミラ。
「本当に?」
彼女は正面から近づかない。
円環の中央に立ったまま答える。
「契約に書いた」
それは嘘ではない。
ロロが温度計を六本へ当てる。
「一番八十二。二番七十九。三番八十六。四番七十七。五番――」
補助腕の一つが止まる。
「何」とミラ。
「六番、四十一」
「低い?」とハル。
「低すぎる。七まで入れたのに、ここだけ冷たい」
帆骨の根元。
表面は熱い。
内部の一本だけが冷たい。
ロロはゴーグルの右レンズを下ろす。
「導管が抜けてる?」
「抜けてたら熱くならない」とエリア。
「表だけ熱い。中が――」
ミラが帆刃の柄で、隣の安全弁を叩いた。
カン。
六本の帆骨から、一斉に勢いが抜ける。
回転枠が急に加速した。
「待て!」
ロロの補助腕が四本とも上がる。
「まだ測って――」
言い終える前に、円環が本来の速度へ戻る。
ミラの身体が外へ投げられた。
「ミラ!」
ハルが走る。
円環の床は横へ逃げる。
一、二、三。
左手を出しかけ、止める。
右手でミラのコートをつかむ。
腰索へ荷重を渡す。
ミラの義足が円環の隙間へ入る。
「刃!」
帆刃サルベージが開く。
本人ではなく、ハルが柄を踏む。
湾曲帆が風を受け、二人の落下を横へずらす。
カイルの小盾が円環の角へ入り、義足を挟む直前の金属板を押し返す。
エリアの路図が、着地先を一つだけ描く。
「右へ二歩!」
「俺の?」
「ミラの!」
「片脚分?」
「今聞く!?」
ハルはミラの腰を支え、右へ飛ぶ。
二人で落下布へ転がる。
ミラの風鈴が、遅れて七つ鳴った。