第198話 第三章「計画の半分」後編
「痛み」とセレナ。
「左接合部二・四、右膝一・八、腰一・六」
「小数を記録しません」
「何で」
「本人の主観尺度として一から五。説明を併記」
「細かさを奪うな」
「比較不能な精密さを証拠にしません」
「法は丸める」
「あなたは痛みを値切る」
「値切ってない。見積もってる」
ミラは医療布の上で義足を外した。
深い信頼の合図である。
本人はそう呼ばない。
接合部の皮膚は赤い。
傷ではなく、摩擦。
ロロが冷却布を当てる前に声を掛ける。
「触る」
「受領」
パルは机の下から、蓋付きの水瓶を一本出した。
「水。値段、先」
「一口〇・二ルク」とミラ。
「高い」
「私が払う」
「違う。私が売る」
「さっき共同費で買っただろ」
「運んだ」
「運搬料?」
「痛いって言ったら半額」
ミラが目を細める。
「取引条件が身体申告と結び付いてる」
「嫌?」
「賢い」
「じゃ言って」
ミラは水瓶を見る。
無償ではない。
同情でもない。
痛みを申告するという、彼女が避けた労働へ対価が付いている。
「接合部、三。右膝、二。腰、二」
パルは瓶を渡す。
「半額」
「成立」
ハルは隣で干しパンをかじる。
「俺が言っても半額?」
「ハルは無料」
「何で」
「言わないから、売らない」
「商売拒否された」
「左肩」
「一」
「嘘」
「一・二」
「小数、禁止」とセレナ。
「ミラはいいのに!」
「よくありません」
エリアは笑いそうになり、右手で口元を隠した。
その後、地図紙へ戻る。
「今の失敗、予定?」とハル。
ミラは水を飲む。
「何が」
「七を越えた」
「越えてない。七を逃がす順番を間違えた」
「わざと?」
「失敗をわざとやる訓練はある」
「今回」
ミラは正面から近づかない。
座ったまま、横を向く。
「必要な失敗だった」
「誰に必要」
「計画に」
「俺には」
「助け方を試せた」
「また半分」
「契約どおり」
ハルの羅針盤の蓋が、一度鳴る。
二度目へ指が行く前に、エリアが声を掛けた。
「次の訓練は二刻後。あなたの左肩は冷却二十分」
「話を変えた」
「身体の話へ戻した」
「エリアも知ってる?」
「何を」
「必要な失敗」
エリアは地図針を外す。
差し直す。
「知っている部分と、知らない部分がある」
「どっちが多い」
「数で答えられない」
「地図屋なのに」
「地図は、知らない場所を知ったふりする道具ではない」
正しい。
正しい答えは、質問した人を安心させるとは限らない。
二刻の休止は、休むだけでは終わらなかった。
訓練で得た失敗を、次の失敗が使える形へする時間である。
ロロは六本の帆骨を甲板へ横たえ、一本ずつ白墨で名を付けた。
『王家章跡』
『黒焦げ』
『長い』
『短い』
『曲がり』
『冷たい』
「最後だけ現象」とハル。
「名前が分からん部品は特徴で呼ぶ」
「人にはしない?」とパル。
「しねえ」
「税務要塞はする」
「だから機械より悪い」
六本は同じ軍艦から来た物ではない。
王家章跡は《グレイ・リターン》。
黒焦げは、左舷を失った八番艦。
長い骨は、兵員輸送船の補助帆。
短い骨は、厨房船の煙抜き帆。
曲がりは砲塔へ当たって一度折れ、昔の修理工が逆向きへ継いだ。
冷たい骨は、外見だけなら最も新しい。
「全部、上限違う」とロロ。
「数字をそろえれば」とハル。
「そろえるために弱い奴を強い奴へ合わせると、弱い方が壊れる」
「強い方を弱く使う?」
「それも一つ。だが使える容量を捨てる」
「じゃ、同じ七まで入れない?」
「七はミラの身体の同時量。骨は別」
ロロは温度札を貼る。
白。
黄。
橙。
赤。
黒。
「黒になったら」とハル。
「逃げろ」
「直せる?」
「逃げた後」
「先に直す?」
「逃げろ!」
ハルは笑う。
ロロは笑わない。
「お前、危機で物へ戻る癖ある。鞄、羅針盤、誰かの落とし物。物が人の代わりになる時はある。でも、物を取るために人が帰れなくなったら順番逆だ」
「分かってる」
「訓練で証明しろ」
そこで第三の模擬侵入が始まった。
目的は、成功しないこと。
回転枠の中央へ、ハルの配達鞄を置く。
中には何もない。
外見だけ同じ。
ハルは壁面を走る。
淡緑の道。
砂袋弾。
床が消える。
鞄まで五歩。
ロロが黒旗を上げる。
『左肩荷重、規定超過』
本当には超えていない。
中断条件の練習。
ハルは一歩進む。
「中断!」とエリア。
「届く!」
「届くかではありません!」
「鞄だけ!」
「空です!」
「本番は空じゃない!」
「だから今、戻る練習を!」
ハルは止まれない。
足が、もう一歩を知っている。
前へ行けば、英雄の形になる。
後ろへ戻れば、見せ場にならない。
「ハル!」
パルが鞄を蹴った。
回転枠の中央から外へ。
鞄は落下布へ飛ぶ。
「何する!」
「物、待てる」
「俺の!」
「空」
「本番だったら!」
「本番なら、誰か入ってる?」
「記録」
「記録、痛い?」
ハルの足が止まる。
「待ってる人は痛い」
「今、ハルの肩も」
「今は痛くない」
「黒旗」
「嘘」
「本番で、分からない」
中断条件は、本人の痛みが確定してから出すものではない。
安全係が見た角度、装具のずれ、返事の遅れ。
本人にはまだ行けると感じる時に出る。
だから難しい。
ハルは回転枠から降りる。
「失敗」と彼。
「成功」とロロ。
「戻ったから?」
「一回遅れた。次は旗で止まれ」
「じゃ失敗」
「安く買えた失敗だ」
ロロは鞄を拾い、ハルへ返す。
「傷」
「一つ」
底へ擦れ跡。
「修理代」とハル。
「訓練費」
「俺の鞄!」
「本番で肩壊すより安い」
「値段で言うとミラみたい」
「今だけだ!」
ミラは医療布の上から言う。
「私なら鞄傷一つを〇・三ルク」
「参加するな!」
次は、撤退号令を誰が出すかの訓練だった。
ジルが銅笛。
エリアが路図を閉じる。
セレナが事実を告げる。
本人が保留と言う。
四種類。
同時に出た時、どれを優先するか。
「現在風を見た者」とジル。
「身体申告は本人」とエリア。
「法的拘束は私」とセレナ。
「全部違う」とハル。
「だから、理由を一語で足す」とパル。
風。
痛み。
法。
怖い。
「怖い、だけ?」とカイル。
「理由、十分」とパル。
「何が怖いか言わなくても」
「言えない時も有効」
ハルが契約へ書いた一文。
ミラはそれを聞き、右手小指の刺青へ触れた。
「怖いで止まる船団は、敵に使われる」
「怖い人を止めない船団は、味方を使う」とパル。
「悪用されたら」
「後で調べる」
「遅い」
「死ぬより早い」
ハルが第二章の言葉を返す。
ミラは嫌そうに笑う。
「私の言葉、利息高い」
「返してる」
「使った分減ってない」
「言葉は使うと増える」
「金なら破産する理屈」
撤退号令の訓練は、成功しなかった。
一回目、全員が同時に止まり、出口で詰まった。
二回目、カイルだけ冗談を言って遅れた。
三回目、ノクスが撤退方向と逆へ走り、全員が追いかけた。
「本人が選ぶ役!」とハル。
「ナァ!」
「何て?」
「翻訳しないで」とエリア。
四回目。
誰かが「怖い」と言った。
パルだった。
全員が止まる。
理由を聞かない。
退路へ移る。
外へ出た後で、彼女は言った。
「本当は怖くなかった。止まれるか見た」
「試した?」とミラ。
「使える規則か」
「悪用」
「後で調べた」
「結果」
「止まった」
「損害」
「昼食遅れた」
「高い!」とカイル。
「王子だけ」とパル。
訓練の失敗は、今日の昼食一皿ぶんだった。
本番で同じ言葉が出た時、誰も一皿のために無視しない。
二刻後。
第二訓練は、失敗から始まった。
ゼロスター号が上昇流へ入る。
空賊船三隻が外輪を模して横風を作る。
旧軍艦の砲口から、砂袋ではなく色粉弾。
赤は致命。
黄は負傷。
青は装備損傷。
「開始!」
ジルの笛。
ハルが帆柱を走る。
カイルが一枚目の赤弾だけを小盾で弾く。
エリアは道を三つ描き、最適解を一つに絞らない。
ロロとパルが廃砲口へ消える。
ミラは船首に立つ。
「蓄勢一」
横風から勢いを盗る。
「二」
ゼロスター号を上へ押す。
「三」
帆骨へ逃がす。
「四」
砲撃角を一つ止める。
「五」
空賊船の速度を借り、船尾へ回す。
「六」
義足の小帆が青くなる。
「七」
全帆骨が橙。
訓練上の敵艦から、黒い旗が上がった。
『降伏せよ。契約書を渡せ』
予定にない号令。
ハルが振り返る。
ミラは黒い旗を見る。
その顔に、驚きはない。
「何で契約を知ってる」
「税務要塞は、数える」と彼女。
「今の敵役、誰」
「船団の古参」
「本番みたいな台詞」
「本番を見てる相手向け」
雲の端で、白い観測鳥が旋回している。
鏡の目。
エリアの路図には入っている。
セレナの証羽にも。
誰も追い払わない。
「見せてる?」とハル。
「失敗を」とミラ。
彼女は七の蓄勢を、わざと遅く抜く。
義足が震える。
腰が下がる。
風鈴が乱れる。
空賊船の古参が大声で笑う。
『風盗の上限は七! 八を入れれば自分で壊れる!』
遠くの観測鳥が、翼を一度閉じた。
「今の、敵へ教えた」とハル。
「公称値だ」とロロ。
「本当?」
「安全上限は本当」
「六番の冷たい骨は」
ロロが口を開く。
ミラの帆刃が、訓練弾を一枚切った。
青い粉がロロの顔へ直撃する。
「装備損傷!」とミラ。
「わざとだろ!」
「本番なら死んでる」
「今の質問に答えろ!」
「訓練続行」
白い観測鳥が台風の方へ戻っていく。
鏡の目が閉じる。
ミラはその背を見送った。
「よし」
「何が」とハル。
「上手く失敗した」
「成功?」
「失敗」
「どっち」
「見た相手が決める」
「俺は」
「まだ半分」
風鈴が一つ鳴る。
回転枠の六番帆骨だけが、青い光を内部へ残したまま、冷たかった。