第200話 第四章「裏切りの稽古」後編

 実験記録を並べる。

 青だから真実ではない。

 赤だから嘘ではない。

 迷い。

 怒り。

 痛み。

 恐怖。

 愛着。

 人が物を大切にするほど、所有の言葉へ迷いが増える場合さえある。

 税務要塞は、その複雑さを追加審査と呼ぶ。

 追加審査を受けられない者から、物が遠ざかる。

「敵は鏡を信じている」とミラ。

「間違ってるのに?」とハル。

「間違いを知らないわけじゃない。自分たちが質問を選ぶ限り、使えると思ってる」

「騙すなら、質問も選ばせる?」

「敵が聞きたい質問を、先に用意する」

「『ミラは裏切ったか』」

「言葉ではなく、あんたの顔へ」

 ハルは脈見鏡を見る。

 自分の本物を、他人の証拠へされる。

「嫌だ」と彼。

「だから稽古する」とエリア。

「上手くなったら、使う?」

「上手くならなければ」

「使わない?」

 エリアはすぐには答えなかった。

「ハルが芝居へ入らない」とエリア。

「俺のせい?」

「長所と短所が同じ場所にある」

「どこ」

「言葉をそのまま信じない」

「いいこと」

「裏切られた演技には悪い」

「じゃ演技しない」

「必要になる可能性がある」

「何で」

「敵へ、ミラが本当に移ったと信じさせるため」

「本当に移れば」

 ミラが答える。

「信じる」

「じゃ本当に移る?」

「移ったふり」

「ふりなら俺も知ってる」

「知ってる顔になる」

「知らないふり」

「今できなかった」

「練習すれば」

「鏡は迷いを見る」とエリア。「演技しようと決める迷いも」

「じゃ、俺を見せなければいい」

「あなたはミラを信用している人物として記録されている」とセレナ。

「誰に」

「千艘港の監視記録。翼鯨競売会の映像。幽霊艦隊の通信。税務要塞が取得した可能性があります」

「信用してる?」

「本人へ聞いてください」とセレナ。

 全員がハルを見る。

「何で今」

「記録と本人の違い」とパル。

「信用……してる」

 ミラが笑わない。

「どこまで」とエリア。

「危ないことする。金取る。嘘もつく。でも、弱い人から盗らないって言う時は」

「来歴を知らずに盗品を取った」とミラ。

「それ、変えようとした」

「契約できない人を落とした」

「今、パルに聞いてる」

「全部は直ってない」

「だから全部信用してない」

「何を」

 ハルは少し考える。

「戻ってくるか」

 ミラの風鈴が一つだけ鳴る。

 風はない。

 本人の指が触れた。

「それだけ?」

「それが一番」

「値段」

「つけない」

「危険」

「分かってる」

「分かっててやるのは、分かってないのと同じくらい危険」とミラ。

「何その言い方」

「ハルの真似」

「似てない」

 エリアは地図針を触る。

「もし、作戦上の理由で、戻ってこないように見える時間が必要なら」

「先に言って」

「先に言えば、顔へ出る」

「出していい」

「敵に読まれる」

「じゃ別の方法」

「見つからなければ」

「中止」

「全員の危険が増えても?」

「知らないまま使われる人を作らない」

「作戦を諦めれば、量札も欠片も戻らないかもしれない」

「それを俺の傷つく役と交換する?」

 静かになる。

 エリアは問いを正確にしすぎた。

 正確な質問は、時に逃げ道をなくす。

「交換したくない」と彼女。

「じゃしない」

「でも、救えない記録が残る」

「それ、俺が責任取るの?」

「違う」

「なら、俺を理由にしないで」

 エリアの顎がわずかに上がる。

 感情を抑える時の防具。

「分かった」

「本当に?」

「分かった、と言える範囲では」

「また半分」

「あなたも今、全部は説明できない」

「何を」

「怖い理由」

「父さん」

「それだけ?」

「……分からない」

「なら、分からないを残す」

 エリアは脈見鏡の一枚へ白布を掛けた。

 記録しない選択ではない。

 今は測らない選択。

 午後、裏切りの稽古は身体を使う形へ変わった。

 旧艦の渡り廊下を三つ閉じ、中央へ模擬税関を作る。

 出口は四つ。

 正しい出口は一つ。

 ミラが途中で合図を変える。

 ハルは合図を知らない。

「これなら本物の反応」とロロ。

「何の合図かは知ってる」とハル。

「出口が変わることだけ」

「変わるって知ってる」

「細かい!」

「鏡が細かいんだろ!」

 開始。

 ハル、エリア、カイル、セレナが走る。

 第一廊下。

 床が斜め。

 第二。

 壁から税札を模した木片。

 第三。

 ミラが青い風鈴を鳴らす。

 青は右のはずだった。

 右扉が閉じる。

「裏切り!」とカイル。

「台詞が早い」とセレナ。

「今のは状況説明だ!」

「感情が不足」

「王子は演技も採点されるのか」

 左から色粉弾。

 ハルは身を低くし、エリアの肩を押さず、声を掛ける。

「左、伏せる!」

「受領!」

 二人で滑る。

 黄粉が頭上を通る。

 ミラが反対側の扉から現れる。

「契約変更。出口は後ろ」

「何で!」

「敵に買われた」

「いくら!」

「五割」

「さっき三割!」

「値上がりした」

「相場の話になってる!」

 ハルは本気で怒れない。

 カイルは笑っている。

 セレナは事実を記録している。

 エリアだけが、ハルの心拍計を見る。

 変化なし。

 ミラは急に帆刃を投げた。

 刃ではなく帆側。

 ハルの腰索へ絡む。

 身体が後ろへ引かれる。

 予定にない。

「ミラ!」

 心拍が上がる。

 一拍。

 ハルは索を切らず、右手でたぐる。

「何する!」

「敵ならもっとやる」

「練習で怪我させる?」

「止められる」

「誰が決めた!」

 ハルの声が低くなる。

 心拍鏡の縁が赤い。

 エリアが即座に訓練鐘を鳴らす。

「中止!」

 ミラは索を放す。

 ハルは壁へ右肩を当てて止まる。

 左肩には衝撃なし。

「今の」とロロ。「本物」

「だから何」とハル。

「鏡は反応した」

「俺を引っ張れば反応する。分かった。次は?」

「次はない」とエリア。

 彼女はミラを見る。

「契約外」

「負傷なし」とミラ。

「結果ではなく条件」

「敵の挙動を」

「敵役を理由に、味方の拒否権を試験しない」

「拒否した?」

「中止鐘を私が鳴らした」

「ハルは」

「怒ってる」とハル。

「それは見れば」

「見えるなら説明させるな」

 ミラの金額が細かくなる。

「索張力は安全値の三七・四パーセント。肩角は――」

「数字で謝るな」

 言葉が止まる。

 彼女は親切の値段を言える。

 失敗の張力を言える。

 傷つけた可能性を、数字の外で言うのは難しい。

「悪かった」

 短い。

「何が」とハル。

「先に聞かなかった」

「次は」

「聞く」

「敵に反応を見せるためでも」

 ミラは少し遅れて答える。

「……聞く」

 エリアはその遅れを見た。

 夜。

 ゼロスター号の厨房。

 ハルは氷袋を左肩へ乗せ、カレー味に近い豆煮を食べている。ロロが「香辛料は部品じゃない」と言いながら、鍋へ一番多く入れた。

 カイルは苺一皿を本当に受け取った。

 セレナが費目を確認した。

「訓練協力費」とカイル。

「私用です」

「心理的損害補填」

「あなたは損害を受けていません」

「演技が下手と判定された」

「事実です」

「傷ついた」

「主観記録へ」

「苺は?」

「私費」

「景気が悪い」

 ハルは笑う。

 笑える程度には、怒りが下がった。

 エリアが向かいへ座る。

「肩」

「一」

「正確に」

「一・五」

「小数は使わない」

「セレナみたい」

「記録に合わせる」

「二。動く。明日は平気」

「明日のあなたが決める」

「今の俺じゃなく?」

「今のあなたは、明日の痛みを小さく見積もる」

「ミラみたい」

「似ていません」

 彼女は礼儀正しくなりすぎる。

 嫉妬ではない。

 動揺。

「何か決めた?」とハル。

「何を」

「ミラと」

「まだ」

「これから?」

「作戦会議は残っている」

「俺も」

「あなたの役割に関わる部分は共有する」

「関わらない部分なら、俺の顔を使っていい?」

 エリアは答えない。

 ハルの羅針盤の蓋が一度。

 二度。

 三度目へ行く前に、彼女が手を伸ばす。

 蓋には触れない。

 その横の机へ指を置く。

「使いたくない」

「使わない?」

「言い切れない」

「何で」

「他の人を救う方法が、それしか見つからない可能性を、今は消せないから」

「じゃ俺が決める」

「知らなければ決められない」

「だから先に聞いて」

「何を聞けば、知らないまま同意したことになる?」

 問いが逆になる。

 ハルは箸を置く。

「分からない」

「私も」

 エリアは完璧な答えを出さない。

 それは彼女の進歩であり、問題の解決ではなかった。

「分からないまま、やらないで」とハル。

「受領」

 エリアはそう言った。

 契約成立とは言わない。

 深夜。

 旧軍旗艦の地図室に、二人の影が入った。

 ミラ。

 エリア。

 扉が閉じる。

 セレナの証羽は入らない。

 ハルの心拍計も。

 机の上には、台風の立体路図。

 六本の帆骨温度表。

 黒い契約条項。

 エリアは扉を一度振り返る。

「別の方法を、最後まで探す」

「探す」とミラ。

「見つからなければ」

 ミラの風鈴が鳴らない。

「決める」

「誰が」

「私たち」

「本人抜きで?」

 沈黙。

 答えは、扉の外へ聞こえない。

 聞こえないからといって、存在しないわけではない。