第201話 第五章「台風の外輪」前編

地図は、地面を描くものではない。

 人がどこを地面として扱ったかを描く。

 船乗りは甲板を下と呼ぶ。

 崖を登る者は岩壁を前と呼ぶ。

 無重力に近い風穴では、いま握っている索の方を上と呼ぶ者さえいる。

 方角は世界に備わっているのではない。

 身体が落ちる先と、帰ろうとする先の間に生まれる。

 エリア・ルーンベルグは地図を描く時、最初に北を探さない。

 誰が、どの方向へ落ちるかを探す。

 台風の中では、全員が別の方向へ落ちようとしていた。

「外輪、一層目!」

 ジルの銅笛が、雷鳴より先に通る。

 空賊船団十三隻。

 旧軍艦の残存帆を張った無人曳航枠六基。

 ゼロスター号。

 十九の影が、巨大台風の縁へ斜めに入った。

 正面から入れば、押し返される。

 逆向きへ入れば、帆が剥がれる。

 同じ向き、少し遅く、風へ追いつかれる形で入る。

 台風へ乗るとは、暴力に勝つことではない。

 殴られる方向を選ぶことである。

「右三度!」とエリア。

「三度は見えねえ!」とジル。

「帆柱一本分!」

「最初からそう言え!」

「船ごとに帆柱幅が違う!」

「今の船を見ろ!」

 ジルの船《錆びた昼寝》が右へ傾く。

 本人が付けた悪口の愛称である。

 本名を聞いた者は少ない。

 後続の空賊船が同じ角度へ入る。

 ゼロスター号は、その下。

 上昇流を使うため、外輪の雲へ半分沈んでいる。

 白い雲ではない。

 黒い水のような粒が船体を打ち、主帆の修理跡へ沿って横へ走る。雷は空から落ちず、雲の内側を水平に移動する。船の左右で時間差なく光り、音だけが遅れて腹へ来た。

 エリアは船首に膝をつき、三枚の地図紙を宙へ固定する。

 一枚目。風速。

 二枚目。落下方向。

 三枚目。各船の現在位置。

 四枚目は描かない。

 描ける。

 描けば楽になる。

 両踵の痛みも、左肺の息切れも、その後に来る。

「踵、一」と彼女は自分から言う。

 ハルが驚いて振り返る。

「まだ聞いてない」

「聞かれる前に言う契約」

「成立」

「ミラの真似をしないで」

「いいこと言ったのに」

「私の申告です」

 ハルは腰索を二重にし、船縁へ片足を掛けている。赤いマフラーは短く、配達鞄は背中でなく腹側。左肩を吊らないよう、荷重索は腰と右腿へ回した。

「方向」と彼。

「船首が今の上。要塞側が内。外へ飛ばされた時は白索。内へ吸われた時は青索」

「色」

「白は太い。青は結び目二つ」

「最初から触って分かる方で」

「あなたが色を覚えれば」

「台風が終わる方が早い」

「三百年回っています」

「じゃ俺が覚える」

 エリアの右眉が少し下がる。

 怒りではない。

 ほんの少し、嬉しい。

「三十秒後、第一横風!」とロロ。

 機関室から声。

 四本の補助腕が、六本の仮設帆骨へ温度札を貼っている。機械鳥ピコは風圧計の針をくわえ、勝手に反対方向へ引っ張っている。

「ピコ! 手伝うな!」

『テツダウ!』

「言葉だけ覚えるな!」

「教育成功」とハル。

「失敗だ!」

 ミラは船尾の客員席に立つ。

 義足帆は半開き。

 蓄勢は零。

 彼女の周囲だけ、風鈴の音が明確に聞こえる。速い風ほど高く、重い乱流ほど鈍い。色の違いを音と切れ込みで読む彼女にとって、台風は巨大な値札だった。

「三十」とロロ。

「今!」

 横風が来る。

 空気が船体へぶつかる前に、ミラの右手が開く。

 青い輪。

 風の勢いを一部だけ盗る。

「蓄勢一!」

 横風は消えない。

 角度が鈍る。

 カイルが小さな王盾を船首左へ出し、残りを上へ逃がす。

「盾、局所!」とセレナ。

「見れば分かる!」

「記録です!」

「俺に報告するな!」

「将来の審査へ!」

「景気が悪い!」

 王太子の白い腕帯が濡れる。

 彼は王家兵へ命令しない。

 空賊船団へも。

「誰を守ればいい」と聞き、答えが来た場所へ一枚ずつ盾を置く。

 権限が減っても、手は減らない。

 台風の第一層を越える。

 第一層の出口で、台風が一拍だけ遅くなった。

 風が止まったのではない。

 船を叩いていた雨の横線が、わずかに下へ垂れる。

 帆柱の振動が高音から中音へ落ち、エリアの三枚の地図で、全ての矢印が同時に短くなる。

「減速」と彼女。

「何もしてない!」とロロ。

「私たちではありません」

 雲の内側から、一隻の白い徴税船が現れる。

 帆を畳んでいる。

 代わりに、船腹へ百枚以上の量札。

 通過税、積載税、救難債、航路使用料。

 札が風へ触れるたび、台風の外輪から青い細光が一本ずつ徴税船へ渡り、船を要塞と同じ速度へ近づける。

「税を払うと、嵐が道を開ける?」とハル。

「払ったからではない」とミラ。「入れる船だと要塞が認めたから」

「違い」

「金を出しても、登録がなければ開かない」

「登録があっても、金がなければ」

「開かない」

「同じじゃん」

「違う二つで、同じ人を落とす」

 徴税船の船首が、黒雲の隙間へ入る。

 要塞外壁の回転が一拍遅くなる。

 船と壁の速度差を小さくし、入港鉤を掛けるためである。

「台風が一定速度じゃない」とエリア。

「三百年、同じ場所に見えるのに」とハル。

「同じ場所と、同じ速さは違います」

「金庫も?」

 エリアは答えず、地図針で減速幅を測る。

「通常比、〇・九六。継続〇・七六秒」

「一拍」とミラ。

「何で分かる」

「風鈴七つの間」

 彼女は義足の踵へ、今の振動を覚えさせるように一度だけ体重を乗せる。

 エリアは、その動作も地図の余白へ記す。

「第一入港枠、使う?」とジル。

 空賊船団が外で待つ。

 予定なら、この一拍へ乗って要塞へ近づく。

 しかし、前方の徴税船には甲板員が見える。

 そのすぐ後ろへ侵入すれば、要塞砲撃に巻き込む可能性がある。

「使わない」とエリア。

『次は十一分後だぞ』

「今の船を遮蔽物にしません」

『そいつら税務側だ』

「甲板員が、この制度を選んだかは分からない」

 ジルは銅笛を一度。

『了解。次へ回す』

「怒らない?」とハル。

「怒ってる」とミラ。「でも従った」

「違う理由で同じことする」

「船団はそういうもの」

 徴税船が要塞へ消える。

 台風は元の速さへ戻る。

 わずか一拍の減速。

 金庫を運ぶ道には短すぎる。

 人一人が壁へ飛び移るには、十分かもしれない。

 エリアは地図へ、小さな空白を一つ描いた。

 道ではない。

 道になる可能性のある時間。