第202話 第五章「台風の外輪」後編
第一層の出口で、十九の影は一度ばらけた。
雲の中へ入る前は、船団は列だった。
入った後は、球になる。
上に三隻。
下に五隻。
内側へ空賊船。
外側へ無人曳航帆。
同じ高度を保てば安全、という平地の常識は、台風では罠になる。同じ高さへ船が集まれば、上昇流一つで全船が同じ場所へ押される。
「《古靴亭》、下へ!」とエリア。
『下はどっちだ!』
通信筒から、老船長の怒鳴り声。
「現在の船底側!」
『船が横だ!』
「船首から見て左下、帆柱二本分!」
『最初からそう言え!』
ジルと同じことを言う。
エリアは地図紙へ新しい印を付ける。
船名の横へ、通じる指示法。
《錆びた昼寝》――帆柱幅。
《古靴亭》――船首基準。
《朝寝の借り》――鐘の回数。
旧軍曳航枠――角度数字。
「同じ言葉で命令しないの?」とハル。
「同じ言葉が、同じ意味にならない」
「規則みたい」
「だから、相手ごとの変換表を作る」
「十九隻分?」
「今、十八」
「一隻減った?」
「曳航枠二が見えない」
エリアの声が変わる。
淡緑の線を広げる。
描いていない四枚目へ手が行く。
止める。
「最終確認位置」とセレナ。
「第一層入口、右外。十七秒前」
「通信」
「なし」
「人員」とカイル。
「無人。ただし後方の小型漁船二隻へ遮風を提供していた」
「漁船は」
「一隻見える。もう一隻、曳航枠の影にいた」
人がいる。
エリアの踵が一段痛む。
「踵二」と彼女。
「縮小?」とハル。
「二は継続」
「一枚増やす?」
「増やさない」
「探す地図」
「今ある三枚を分ける」
全体図を半分へ縮める。
外輪船団の位置管理をジルへ渡す。
「ジル。今の隊形、十五秒保持できますか」
『できるかじゃねえ。する。何が消えた』
「曳航枠二と漁船一」
『捜索二隻出す』
「外輪へ戻ると、合流できない可能性」
『戻れねえ奴を置いて進むか?』
「問いではなく、条件共有です。捜索時間四十秒。見つからなければ、浮標を残して本隊へ」
『四十。誰を』
ジルが自分で選ぶ。
《錆びた昼寝》から小艇一。
船尾の《低賃金》一隻。
「船名が嫌」とハル。
「本人たちが付けた」とミラ。
「呼ぶたび景気悪い」
「自由港の船名は、悪口ほど沈まない」
「根拠」
「縁起」
「科学じゃない」
「沈まなければいい」
捜索艇が雲へ戻る。
エリアは失った曳航枠の最後の速度を逆算する。
横風。
上昇。
帆面。
「真下ではない。外上へ流される」
『上はどっち!』
「捜索艇の帆面から右二本!」
『見えた!』
声。
雲の裂け目から、巨大な無人帆が逆さに出る。
その内側へ、小型漁船が張り付いている。
船首索が曳航枠へ絡み、操舵できない。
「人、二!」とセレナ。
「砲撃は」とカイル。
「まだ外輪砲の死角」
「救助」
「本隊の侵入時刻が十二秒遅れる」とエリア。
十二秒。
税務船入港の一拍を逃す可能性。
「計画優先?」とハル。
エリアは即答しない。
身体の中で、昔の教えが答える。
全体の成功率。
目的物。
予定時刻。
怪盗契約の第三列が答える。
人命は物品より先。
「救助優先。侵入路を次の減速へ変更」
「次、何分」とミラ。
「観測周期なら十一分」
「砲線が増える」
「それでも」
「分かった」
ミラは反対しない。
ハルが少し驚く。
「契約に書いた」と彼女。
捜索艇が漁船へ寄る。
絡んだ索は、引けば締まる。
切れば曳航枠が外輪へ飛び、後続船を打つ。
ジルの声が短くなる。
『枠を回せ。船を抜くな』
『回転軸、死んでる!』
「勢いを少し取る」とミラ。
「距離」とエリア。
「届かない。中継」
ミラの風術は、遠くの物から直接盗めない。
ゼロスター号の帆。
捜索艇の帆。
曳航枠。
三つの動きを索でつなぐ。
「ロロ、主帆を一瞬だけ張る!」
「今張ったら船が内へ出る!」
「一拍で抜く!」
「蓄勢!」
「一まで!」
主帆が台風を受ける。
ゼロスター号が前へ出ようとする勢いを、ミラが盗る。
青い輪。
その輪を通信索へ流す。
捜索艇が受け、曳航枠の逆回転へ渡す。
枠が半回転。
絡んだ船首索が緩む。
『抜けた!』
漁船が離れる。
曳航枠は外へ流れる。
「回収は」とハル。
「人員なし。浮標を付ける」とエリア。
「物は待てる」
「はい」
捜索艇が本隊へ戻る。
十九の影は十八になった。
人数は減っていない。
計画は十二秒遅れた。
人命は二つ増えた。
そういう数え方を選ぶ。
エリアは第二の入港減速へ、全航路を描き直した。
「次まで十刻じゃなく、十分快」とハル。
「十分と二十七秒」
「細かい」
「救った時間も、遅れた時間も消さない」
「じゃ、次は間に合う」
「間に合わせます」
「一緒に」
エリアは一拍遅れて答える。
「一緒に」
空が暗くなる。
第二層は、落ちる雨ではなかった。
回る雨。
水滴が水平へ走り、肌へ当たると針のように痛い。船の外板へ白い線が刻まれる。
「観測鳥、三!」とセレナ。
白い機械鳥が雲間にいる。
税務要塞の鏡眼。
一羽は空賊船団。
一羽は旧軍帆。
一羽はゼロスター号。
「撃つ?」とハル。
「見せる」とミラ。
「何を」
「計画の半分」
「残り半分は」
「見せない」
「俺にも?」
ミラは返事を風へ置く。
「今は前」
「話を変えた」
「前を見ろ!」
雲から黒い砲台が出る。
要塞外壁の一部。
台風と一緒に回っているため、砲口が雲の中から突然隣へ現れたように見える。
「三十六門のうち、外輪八!」とエリア。
「角度!」とジル。
「第一船団へ四、ゼロスターへ二、曳航帆へ二!」
「撃たせろ!」とミラ。
「何で!」とハル。
「弾の勢いを取る!」
「七まで!」
「二発分だけ!」
砲口が白くなる。
税務要塞の砲は、火薬で弾を飛ばさない。
台風から蓄えた運動を、空気塊へ返す。
徴収した一拍が、百年後に砲撃として戻る。
歴史は利息を付ける。
誰に返すかを間違えたまま。
「来る!」
第一弾。
ミラは帆刃を開く。
布帆が白い空気塊へ触れる。
移動の勢いだけが抜ける。
空気塊は消えず、霧へほどけた。
「蓄勢二!」
第二弾。
カイルの盾が半分を上へ。
残りをミラが盗る。
「三!」
義足の青い筋が太くなる。
「三で止める!」とロロ。
「分かってる!」
ミラは奪った勢いを船尾帆へ移す。
ゼロスター号が前へ跳ぶ。
「加速!」
エリアの路図へ船が一隻分先へ出る。
「予定より早い!」
「撃たれるより遅い方がいい?」
「違う道へ早いのは迷子!」
「ハルへ言え!」
「俺は今迷ってない!」
「自覚がない迷子が一番危険!」
ハルは笑い、船首から索へ飛ぶ。
前方。
要塞外壁から、整備用の鎖橋が一瞬だけ雲へ出る。
税務船が入る前の減速。
台風が一拍遅くなる。
「今!」とエリア。
空賊船団が外へ散る。
砲台の視線を分ける。
ゼロスター号は上昇流へ船首を入れる。
船が垂直に近く立つ。
甲板が壁になる。
「下は船尾!」とエリア。
「見れば!」
「見え方が変わる!」
ハルは甲板の取っ手を走る。
カイルが後ろ。
セレナは腰索を二本、証拠箱を胸へ固定。
ノクスは重力を無視するように帆柱を駆ける。
エリアは最後まで地図を描き、ハルへ叫ぶ。
「外壁まで十二歩!」
「船が動く!」
「今のあなたの歩幅で十四!」
「増えた!」
「風を引いた!」
「一、二、三!」
ハルが飛ぶ。
赤いマフラー。
右手。
腰索。
外壁は横へ走っている。
着地すれば、身体だけ置いていかれる。
ハルは壁へ足を着けず、最初に右手の鉤を回転方向へ投げる。鉤が黒鉄板の継ぎ目へ入る。索が張る前に、自分から同じ方向へ走る。
一歩。
二歩。
三歩。
壁面疾走。
台風と同じ速さへ近づけば、壁は少しずつ床になる。
「着地!」
「まだ走ってる!」とエリア。
「走って着いた!」
カイルが飛ぶ。
深紅の小盾を足元へ一枚。
盾を踏み、外壁へ速度を合わせる。
「王盾、足場利用」とセレナ。
「審査へ書くな!」
「書きます!」
セレナは三人目。
黒い外套が雨を受ける。
ハルが右手を出す。
「左側は見えにくい!」と彼。
「知っています!」
セレナは右へ回り込み、自分から手首を取る。
「助け方が具体的」とハル。
「感想は後!」
ノクスが最後。
飛ばない。
ゼロスター号の帆から外壁へ張られた細索を、二本尾で均衡を取りながら歩く。
「一番安全」とカイル。
「俺たちも歩けばよかった?」
「お前が待てたならな」
「無理」
「知ってる」
外壁の廊下は、回る建物の中にあった。
床が少しずつ傾く。
十歩で壁。
さらに十歩で天井。
税務職員は、靴底へ磁石を入れて歩く。
侵入者にはない。
エリアが短い路図を一枚ずつ描く。
「次の十二歩、床。十三歩目から右壁」
「床が期限付き」とハル。
「税みたいだな」とカイル。
「使った分だけ取られる」とセレナ。
「歴史解説を走りながらするな!」
後方で砲音。
ゼロスター号は外壁から離れた。
空賊船団が外輪を回る。
ロロとパルは、別の位置から第六廃砲口へ向かっている。
「通信」とエリア。
索電話を耳へ当てる。
『こっちは入った!』ロロの声。『砲口、図面より二寸狭い! 税務要塞は三百年で太った!』
『建物、太る?』パル。
『錆だ!』
『ロロも狭い所で太る』
『荷物が多い!』
『道具を置く』
『命を置くみたいに言うな!』
生きている。
エリアは通信索を結ぶ。
「次、入港口内側へ」
「警備」とセレナ。
前方。
白い手袋の税務兵が六人。
武器は秤型の長杖。先端から、相手の装備重量を床へ固定する術を出す。
「降伏。所有品を申告せよ」
「俺の物」とハル。
「赤い布、外套、鞄、金属方位具」
「マフラーは俺。鞄も。羅針盤は……分からない」
「未申告物、留置」
「先に持ち主聞いて」
「申告不能を確認」
「分からないと、持ってないは違う!」
秤杖が下りる。
ハルの配達鞄が急に重くなる。
床へ引かれる。
回転廊下では、床が五秒後に壁になる。
「鞄を外せ!」とカイル。
「中に契約書!」
「命より紙!」
「紙に帰り道!」
エリアの地図槍が秤杖の軌道を受ける。
槍と杖が擦れ、白い火花。
「ハル、鞄の留めを切らない! 重量固定は物へ付いている。腰帯を外す!」
「鞄を残す?」
「戻る道を描く!」
「それ、エリアの道になる」
「一緒に決める道!」
ハルは腰帯を外す。
鞄が床へ落ちる。
回転で壁へ移る。
ノクスがその上へ乗る。
「ノクス!」
黒い獣は前脚で鞄を押さえ、二本尾を広げる。
所有権を主張しているのか、昼寝場所を得たのか不明。
カイルの小盾が秤杖二本を上へ弾く。
「人へ使え!」とハル。
「杖を止めれば人が助かる!」
「正しい!」
「二度目だ!」
セレナが税務兵へ宣言する。
「共同保管物返還請求に伴う現場保全です。抵抗の記録、武器使用の時刻、負傷者を全て残します」
「不法侵入者に法的資格なし」
「資格の有無と事実記録は別です」
「記録物を提出せよ」
「拒否」
「留置」
「その命令を記録します」
「記録を提出せよ」
「同じ命令です」
「提出せよ」
「回数も記録します」
税務兵の迷いが一拍生まれる。
法を信じる者は、法を恐れないとは限らない。
自分の命令が書き残されることを恐れる。
その一拍に、エリアが道を描く。
「左壁、今だけ床!」
全員が走る。
ハルはノクスごと鞄を取り、腰ではなく右肩へ短く掛ける。左肩は使わない。
「十歩先、入港制御室!」
扉が見える。
開いている。
予定では、税務船入港中の一拍だけ閉鎖が遅れる。
まだ三秒ある。
「行ける!」
一秒。
二秒。
扉が閉じた。
早い。
黒い板がハルの鼻先へ落ちる。
「予定と違う!」
「知られてる」とエリア。
後方の税務兵が整列する。
前方の壁から、別の扉が開く。
徴税船が一隻、廊下と同じ速度で横付けされている。
船首に白い手袋の監督官。
その横へ、ミラ・ベルウェザーが滑り込んだ。
いつ移ったのか。
ゼロスター号にいたはずである。
彼女は義足帆を開き、外壁の回転から勢いを盗り、徴税船の甲板へ着地していた。
正面から、ハルを見る。
嘘をつく時の距離。
「ミラ!」
「入港路は閉じた」と彼女。
「見れば分かる!」
「外の船団は、あと九分で砲線に挟まれる」
「戻る!」
「戻れない」
「道を作る!」
「契約終了」
風鈴が、一度だけ鳴る。
ミラは赤茶のコート内から紙を出した。
怪盗契約。
ハルが余白へ拒否権を書いた原本ではない。
卓下へ落とした、別の一枚。
「税務要塞へ情報を売る」
「何で」
「金庫の三割」
「練習と同じ台詞」
「練習したから」
「嘘」
「鏡が決める」
徴税船の船首に、銀色の脈見鏡が開く。
ハルの胸へ向く。
ミラが敵側へ立っている。
契約書を渡している。
入港路は予定より早く閉じた。
空賊船団の砲線は読まれている。
知っていたのは、計画の半分。
知らない半分が、今、相手の側へある。
ハルの心拍が跳ねる。
鏡の縁が、赤く光った。
「本物」と監督官。
ミラはハルから目を逸らさない。
「成立」
徴税船が外壁から離れる。
彼女を乗せたまま、要塞の奥へ消えた。
エリアは呼び止めない。
止められないのではない。
声を出せば、何かが崩れる顔をしている。
ハルはそれを見る。
「エリア」
「今は退路を」
「知ってた?」
返事が一拍遅い。
台風の一拍より、長かった。
「走って」
答えではない。
だから答えになる。
後方で税務兵の秤杖が上がる。
エリアは路図を開く。
淡緑の線が、閉じた扉と敵の間へ生まれる。
「ハル。今は生きて奥へ入る」
彼は羅針盤の蓋を弾く。
一度。
二度。
三度。
四度。
恐怖の回数。
「あとで聞く」
「受領」
その言葉さえ、今は契約に聞こえた。