第204話 第六章「税務要塞の晩餐」後編
同じ頃。
王立星航学院の生徒評議室では、拍手がなかった。
賛成二十七。
反対二十八。
棄権一。
ティア・グランツは、議長席の前に立っていた。
銀の短髪。
右側へ細い赤編み。
右膝には薄い固定帯。
机上へ、議長章。
「不信任案は一票差で可決」
書記の声が震える。
ティアは震えない。
「確認しました」
「再投票請求ができます」と支持者。
「手続上は」
「棄権者へ説明すれば」
「投票後に、結果を変えるためだけの説明はしません」
「でも一票です」
「一票だから軽いの?」
机の後ろから、マオ・ケルンが言った。
左脚の星鉄装具を椅子へ掛け、眼鏡の縁を上げる。
「一票は、一人。数字にすると薄く見えるだけ」
支持者が黙る。
ティアは議長章を外した。
指が少し滑る。
誰にも見えないほど小さい。
マオには見える。
「悔しい?」
「職務中です」
「もう職務じゃない」
ティアの口が一度だけ固くなる。
「……悔しい」
「よし」
「何が」
「それ言わないで次へ行くと、規則のせいにするから」
「規則は正しく運用された」
「結果が嫌でも?」
「嫌だから変えるなら、私が前に批判した人たちと同じ」
「じゃ議長、終わり」
「元議長です」
「名前に戻れば」
「ティア」
「呼んでいい?」
「今さら聞くの?」
「先に聞けって言ってる」
ティアは短く息を吐く。
議長章を机へ置く。
机が、わずかに軽くなったように見える。
「次、何する」とマオ。
「不信任理由の検証。救難規則の再提出」
「また議長になる?」
「すぐには」
「本当?」
「肩書きがないと救難できないと思われる方が、規則として危険」
「じゃ、小さい班」
「何人」
「本人入れて三人」
「少なすぎる」
「だから説明を省けない」
マオは紙を一枚出す。
『実地救難班 仮』
規則は三行。
一、助ける前に声を掛ける。
二、返事できない条件を先に決める。
三、救助される側も、救助方法へ異議を言える。
ティアは三行目を読む。
「危機中の異議は時間を使う」
「使う」
「救命率が下がる場合」
「誰の率?」
「統計上の」
「私たちを統計の一人にする前に聞け」
ティアの右膝が、机の下で一度痛む。
彼女は隠さない。
「膝、二。歩ける。でも階段訓練は別の人」
「受領」
「その言い方、ハルたちの影響?」
「使える物は使う。人は使う前に聞く」
「私を班長にする?」
「勝手に決めない」
「では」
「やる?」
ティアは議長章から手を離す。
「やる」
不信任は、彼女の物語を終わらせなかった。
権力を失うことと、行動を失うことは同じではない。
ただし歴史書は、たいてい議長を記録し、三人の小班を記録しない。
だから物語が記録する必要がある。
要塞の晩餐は、第三皿へ進んだ。
透明スープの底に、小さな金属片。
ハルが匙で拾う。
「部品?」
「食器の補修印です」と収庫監。「要塞内の銀器は、修理者の印を残す」
薄い金属片には、三つの圧痕。
強く。
弱く。
最後に、もう一度強く。
ハルの指が止まる。
父の字は、最後の一画だけ妙に重かった。
配達伝票でも、買い物メモでも、「帰る」と書いた最後の線だけ、紙の裏へ出るほど強い。
「これ、誰」
「補修番号」
「名前」
「旧記録を照合します」
収庫監が指を鳴らす。
監督官が細い台帳を持ってくる。
銀器補修記録。
十九年前。
『外来修理者 ――ギノ・ 』
姓の欄が裂けている。
名も完全ではない。
最初の一字は擦れ、最後の「ギノ」だけ見える。
筆圧は、強い。
三度。
ハルの心臓が、脈見鏡へ拾われるほど跳ねた。
鏡の縁が薄赤くなる。
「心当たりが?」と収庫監。
「分からない」
「申告を」
「分からないって申告した」
「血縁の可能性」
「字が似てるだけ」
「誰に」
「言わない」
「非協力記録へ」
「書けば」
ハルは台帳へ手を伸ばさない。
取りたい。
破って持ち出したい。
父の名かもしれない。
かもしれないだけで、別人の記録を自分の物にしたくない。
セレナが証羽を上げる。
「該当頁の現状保存を要求します。現時点で血縁、本人性、来訪目的は未確認」
「複写料が必要です」
「後で請求を」
「支払保証」
カイルが王家印へ手を伸ばしかけ、止める。
単独権限停止中。
エリアが自分の財布を出す。
ハルが首を振る。
「俺が払う」
「持っている?」
「配達代」
「帰りの食費」とエリア。
「父さんかも」
「かもしれない記録のために、あなたが帰れなくなる値段は」
「でも」
「共同調査費」とセレナ。「事件関連記録として私が申請します」
「それ、逃げ?」とハル。
「分類です。あなた個人が父親の記録だと断定して購入するのではありません」
ハルは息を吐く。
「分からないまま、持てる?」
「複写を。原本は現状保全」
「受領」
その言葉を使った後、エリアを見る。
彼女の顔が少し痛む。
ハルも痛む。
会話の言葉まで、今は契約の傷へ触れる。
扉が開く。
ミラが入る。
赤茶のコートは乾いている。
義足の帆は畳まれ、片耳の風鈴は一つも鳴らない。
左右へ白手袋の監督官。
手首に縄はない。
「遅い」と収庫監。
「客を高く売るには、値札を整える」
ミラは円卓へ近づく。
正面から。
ハルの胸へ脈見鏡が向く。
また。
「何売る」とハル。
「侵入者六名、夜獣一体、旧軍艦の帆限界、空賊船団の外輪位置、ゼロスター号の上昇流利用時刻」
「値段」
「王獣鈴の欠片。量札原簿の閲覧権。台風金庫の三割」
「物じゃなく権利を売ってる」とパルなら言っただろう。
ここにはいない。
ハルが言う。
「俺たち、ミラの物じゃない」
「身柄は拘束後に移管」
「誰へ」
「税務要塞」
「今もここにいる」
「自由港側へ戻さない権利を売る」
「帰る権利、ミラが持ってた?」
ミラの顔が、ほんの少し動く。
脈見鏡は彼女ではなく、ハルを見ている。
「契約書に、航路指揮権がある」
「拒否権もある」
「敵側へ移った場合、拒否は無効」
「そんな条項、読んでない」
「だから黒かった」
エリアの手が、地図槍の柄を握る。
止めない。
知らなかった顔ではない。
ハルはそれを見る。
心拍が上がる。
胸の銀鏡が赤くなる。
ミラは卓上へ契約書を置く。
黒塗りのない一枚。
卓の下へ落とした餌の契約。
ただしハルには、その違いがまだ分からない。
「契約原本」とミラ。
セレナが立つ。
「異議。私の証拠箱にある原本と外観が異なります」
「あなたの箱は外にある」
「外にあることと、存在しないことは別です」
「ここで証明できない」
「だからあなたは、記録を独占する側へ売ったのですか」
ミラはセレナを見ない。
「買い手が高い」
「安い」とハル。
「何が」
「俺たち全部で三割」
「物の値段じゃない」
「なら何」
「成功する確率」
「成功?」
ミラはそこで口を閉じる。
収庫監が契約書を取り上げる。
「よろしい。敵対船団の停止後、対価を移す」
「先払い半分」とミラ。
「担保は」
「私」
「あなたの風盗は公称上限七。台風機関への利用価値を査定する」
「好きに」
「身体検査、蓄勢試験、誓約固定へ同意を」
「試験の範囲を」
「敵対船の勢い七単位」
「八を入れたら」
「壊れると観測済み」
ミラは笑う。
「よく見てる」
「本要塞は、入る前から数える」
「数えた物しか、盗めない」
「盗む?」と収庫監。
「言葉の癖」
ハルの羅針盤の蓋が、一度鳴る。
「ミラ」
「何」
「戻るって、信用してた」
ミラの右手小指が、古い刺青の上で曲がる。
「信用は契約外」
「そう」
声が低い。
「じゃ、俺も契約どおりにする」
「何を」
「物品回収を捨てる。救助へ移る」
拒否権。
違約金なし。
理由を言えない時も有効。
ハルが自分で書いた一文。
「欠片も台帳も、今は捨てる」
収庫監が笑う。
「賢明です」
「あなたへ言ってない」
ハルはミラだけを見る。
「助ける人を選び直す」
「誰を」
「まだ決めない」
「保留?」
「俺の言葉」
ミラの風鈴が鳴らない。
彼女は契約書を収庫監へ渡した。
白手袋が受け取る。
ハルたちの椅子の下で、重力石が強くなる。
身体が円卓へ固定される。
晩餐室の壁が回る。
展示棚の王獣鈴の欠片が、ハルの視界を横切る。
その向こうで、六本指の小さな手袋が、番号札だけを残して光っていた。
ミラはハルたちを売った。
少なくとも、その場にいた全員がそう数えた。