第252話 第六章「王者の食卓」後編
儀礼は、空腹の順番を決めるものだった。
第一に、病んだ獣。
第二に、幼獣。
第三に、繁殖期の獣。
第四に、飼育者。
第五に、旅人。
第六に、候補者。
第七に、王。
歌の中では、王が最後に食べる。
現実には、王の皿だけ先に中央へ置かれている。
「最後に食べる人の皿を最初に出すの、圧が強い」とハル。
「遅れることを見せるためでしょう」とエリア。
「待つ姿を先に見せる」
「見せるための我慢は、我慢か演出か」
「両方じゃ駄目?」
「駄目ではありません。ただし、演出を献身だけとして記録しないことです」
歌の順番に従い、料理人は最初の小皿を宴席の外へ運んだ。
病んだ獣へ渡すためである。
選ばれたのは、前脚へ白い包帯を巻いた老いた苔甲獣だった。
広場の入口で待ち、観客へ見える位置にいる。
料理人が柔らかい根菜を口元へ差し出すと、拍手が起きた。
「毎年、同じ個体?」とセレナ。
祭務係が驚く。
「昨年までは別です」
「選定基準」
「祭場にいる病獣のうち、獣医が安全に参加できる一頭を」
「最も弱い一頭ではない」
「衆人環視の宴へ連れて来られる状態が必要です」
「見せられる弱さ」とエリア。
祭務係は反論できない。
病気が重すぎる獣は来られない。
人へ慣れない獣は来られない。
祭具へ干渉する不規則拍の幼獣は、最初から候補に入らない。
最弱の一頭へ最初の一口を与える儀礼は、見せられる範囲で最弱の一頭を選ぶ儀礼へ変わっていた。
「それでも、あの苔甲獣が食べるのは悪くない」とハル。
「はい」とエリア。「儀礼が不完全だから、目の前の給餌まで偽物になるわけではありません」
「じゃ、どう直す」
「一頭を象徴にせず、病獣全体の飼料配分を公開する。あるいは、参加できない理由も席として示す」
「空皿」
「今は由来が説明されていません」
中央の王皿。
七つの浅い傷。
空であることが、最弱の獣の不在を示しているのか。
王が最後に食べるための空なのか。
ただの演出か。
まだ決められない。
老いた苔甲獣は、拍手を気にせず根菜を食べる。
食べ終えると、料理人の袖まで噛んだ。
「王の加護!」と観客が笑う。
「布が欲しいだけ」とロロ。
「夢を壊すな」とハル。
「袖の修理代を夢で払えるか!」
料理人は笑いながら袖を外し、苔甲獣へ渡した。
その人にとっては、予定外の布一枚が祭の思い出になる。
制度の不完全さを指摘しても、そこで生まれた小さな親切を軽蔑する必要はない。
ただし、小さな親切を理由に制度の欠けを隠してもいけない。
「両方見るの、疲れる」とハル。
「片方だけ見た結果の方が、後で高くつきます」とロロ。
「全部、修理代で説明する」
「分かりやすいだろ」
ネムは自分の皿を見ている。
柔らかい根菜。
喉に優しい酸乳。
大音量を避ける位置。
個別に配慮されている。
同時に、ガンガの家族として候補宴へ招かれた。
生態聞き手としてではなく。
配慮と分類は、別の軸で人を助け、別の軸で傷つける。
ネムは席札を裏返した。
表には「第一鼓候補付属聞き手」。
裏へ、自分で書く。
――ネム。観測者。退出自由。
祭務係が困った顔をする。
「公式席名が」
ネムは小板を上げる。
『公式が私を間違えた』
「規定上、付属者は候補者と同時に――」
『退出自由』
「席を立つと、候補者の印象へ」
ガンガが口を開く。
ネムの視線が来る。
ガンガは一拍待つ。
「俺の印象より、ネムの席だ」
祭務係は席札を見る。
「追記として記録します」
完全な変更ではない。
だが、裏の文字は消されなかった。
ハルが小声で言う。
「ガンガ、今は先に言わなかった」
「お前に採点されたくない」
「三点くらい」
ネムが小板を上げる。
『二点』
「下がった!」
ガンガが笑う。
笑いながら、席札の「退出自由」をもう一度見る。
自由と書いた席を、本当に立たれた時、自分がどう感じるか。
その答えは、すぐ後に来る。
候補者へ、一つずつ問いが出される。
祭務頭ではなく、各群れの代表が問う。
水場が一つ、群れが二つ。どちらを先に通すか。
病獣の治療で移動が遅れる。全群を待たせるか。
繁殖期と嵐期が重なった時、危険な近道を使うか。
正解はない。
候補者が何を数え、何を後へ置き、誰へ責任を返すかを見る。
バルグは速い。
「水量と頭数を計り、必要量で時間を分ける」
「測る間に嵐が来たら」
「俺が決める」
「反対する群れが出たら」
「決定後に聞く」
「遅い」とハダン。
シアは問い返す。
「水場へ着くまでの距離は。病獣は自力歩行できるか。近道の地盤は」
「質問が多い」と別の拍守。
「条件が少ない」
「王は不足した条件で決める」
「不足を隠して決めない」
拍手が割れる。
ヤッカは、病獣へ付く者だけ残し、他群を先へ送ると答える。
「残る者の同意は」
「私が残る」
「お前が倒れたら」
「次を決める」
そして、ガンガの番が来た。
ハダンが問う。
「一頭が消えた。祭を止めるか」
食卓が静まる。
それは仮定ではない。
トト。
名前は仮。
所属なし。
登録なし。
だが生きていた一頭。
ガンガは皿を見た。
自分の前の空皿。
中央の古い王皿。
「止める」とハルが小さく言った。
エリアが見る。
「ガンガへ答えさせて」
「聞こえないくらい」
「聞こえる声です」
「友達として」
「友達の答えを先に言うことが、友達ですか」
ハルが口を閉じる。
ガンガは聞いていた。
ハルの拍。
速い。
ネムの拍。
太鼓を打たなくても、近くにある。
聞きたい。
賛成か反対か。
しかし心拍は、意見ではない。
恐怖で速くなる。
怒りで速くなる。
期待でも速くなる。
同じ速さから、別の答えが生まれる。
「祭を止めれば」とガンガは言う。「四千頭の移動が止まる。雨壺鳥は明日の風を逃す。角脱ぎ群は狭い谷で脱皮へ入る。食料は三日。止めた後、別の危険が増える」
「だから続ける?」とハダン。
「捜索班を別に出す」
「祭務会は出さない」
「俺の群れから出す」
「候補者が私兵を禁足谷へ入れるのか」
「私兵じゃない」
「お前の命令で動けば、外からはそう見える」
「じゃ、俺が行く」
「候補資格は」
ガンガは答えを止める。
バルグが言う。
「祭を続けろ」
全員が彼を見る。
「一頭を軽く見るからではない。四千頭を軽く見ないためだ。捜索は必要だが、祭全体を止めるのは王の判断ではない」
「王じゃない」とガンガ。
「だから候補の試験で答える」
シアは空の王皿を見る。
「祭を続けるなら、失踪を競技条件へ入れるべき。別の出来事として横へ置くから、誰も責任を持たない」
「競技を変える権限はない」と祭務頭。
「王を選ぶ祭が、一頭へ届かないなら、何を選んでいるの」
祭務頭は答えない。
ハダンも答えない。
ガンガへだけ視線を置く。
「決めろ」
右膝の古傷が痛む時、ハダンは杖へ体重を乗せる。
今もそうしている。
彼女はガンガへ責任を押しつけたいだけではない。
決めない間に人が死んだ過去を持つ。
ガンガも知っている。
だから、彼女の恐怖を理由に従うべきか。
理解したことは、服従の義務ではない。
「祭を続ける」
ガンガは言った。
ネムの心臓が、一つ強く打つ。
「ただし、次の試練が始まる前に捜索方法を決める。決められなければ、候補資格を置いて俺が行く」
「期限は」とハダン。
「次の角笛」
「短い」
「長くすれば、一頭が遠くなる」
ハダンは頷かない。
否定もしない。
祭務頭は、「宴を続けます」と告げた。
料理人が次の皿を運ぶ。
儀礼上、候補者が答えを出したため、食事を始められる。
ネムが立った。
椅子の音は小さい。
大太鼓に消される程度。
それでもガンガには聞こえた。
「ネム」
ネムは振り返らない。
「待て」
止まらない。
「話せ」
止まらない。
「俺の答えを聞いたか」
ネムは足だけ止めた。
胸太鼓へ二拍。
長、短。
聞いた。
賛成ではない。
そのまま、宴席を出ていった。
ガンガの前には、六つの小皿がある。
ネムへ分けた柔らかい根菜。
食べる者のいない皿。
中央には、最弱の獣へ最初の一口を与えるという古い王皿がある。
どちらの空皿にも、料理は冷め始めていた。
同じ時刻、翠獣環から三空域離れた学院自由港連絡路で、一台の救難籠が宙へぶら下がっていた。
学院の外壁と自由港の輸送船を結ぶ仮設索道。
共同救難訓練の二日目。
本来は訓練だった。
古い貨物籠の留め具が実際に破断し、中にいた旅人一人が頭を打つまでは。
「意識なし、呼吸あり!」
マオ・ケルンが下から叫ぶ。
救難籠は片側の索だけで吊られ、風のたびに壁へ打ちつけられる。
旅人の胸には、自由港式の私有搬送帯。
所有物と本人を一つの契約で固定し、荷物だけを勝手に降ろされないための装具だ。
切れば救出できる。
切れば、本人の契約を破る。
「七拍限定で切断命令を出します」
ティア・グランツが言った。
銀髪を一つに束ね、右膝へ薄い固定帯。命令権を持たない混成救難班を作った彼女は、緊急時だけ終了時刻付きの臨時権限を使う。
「一拍目、籠固定。二拍目、医療確認。三拍目で帯を切る」
「待て」とミラ・ベルウェザー。
銅色の髪が風に乱れ、左の星晶義足が索道床を硬く鳴らす。
「本人の搬送先が契約に入ってる」
「読めますか」
「鍵札が内側。読めない」
「意識回復を待てば、籠が落ちます」
「だから助けるなとは言ってない。切った後、学院へ連れていくな」
「最寄りの医療所は学院です」
「自由港にもある」
「到着まで四分長い」
「学院へ入れば、身分登録が先に付く」
「治療が先です」
「治療の後、勝手に登録される」
「今は呼吸路を確保します」
「今を理由に、後まで決めるな」
籠が大きく傾く。
旅人の頭が壁へ当たりかける。
「一拍目!」
ティアが右手を上げる。
混成班が索を固定。
「二拍目!」
マオが細い検査鏡を入れる。
「瞳孔差なし、後頭部出血、呼吸浅い!」
「三拍目、帯を切断!」
ミラが先に飛んだ。
義足へ風を集める。
運動量を盗めば、自分の体へ負荷が来る。肋部の古傷が痛み一から二へ上がる。
短剣で帯を切る。
「成立!」
「何が」とティア。
「救命。搬送先は保留!」
「保留のまま運べません」
「二艇出せ!」
「患者を二つへ分ける気ですか」
「選択肢を二つ残す!」
学院救護艇と自由港救護艇が、籠の下へ並ぶ。
旅人は意識がない。
選べない。
ティアは七拍目までに決めなければならない。
学院なら早い。
自由港なら無登録で入れる。
「学院へ」とティア。
「理由」とミラ。
「四分。頭部外傷。選べる状態へ戻すのが先です」
「その後、本人が登録を拒んだら」
「解除手続きを私が引き受けます」
「引き受けられない規則なら」
「破ります」
「先に言え」
「今言いました」
七拍目。
旅人は学院艇へ降ろされた。
救命は成功した。
議論は成功しなかった。
治療後、学院側は身元確認を求める。
自由港側は、本人が拒めるまで記録を封じるよう求める。
ティアは臨時命令を七拍で返上した。
ミラは言う。
「命令を返したからって、命令の結果まで消えない」
「分かっています」
「分かってる顔が一番危ない」
「では、分からない顔をすれば安全ですか」
「言葉遊びで守るな、第一条」
「肩書で呼ばないでください、元船長」
「成立してない肩書を返すな」
二人は同じ救難報告書へ、別の結論を書いた。
ティアは、緊急時には本人の選択を一時保留し、選べる状態へ戻すべきだと記す。
ミラは、その一時保留に終了条件だけでなく、救助後の登録、移送、拘束を本人が遡って拒める権利が必要だと記す。
どちらも相手の署名欄を空けた。
未決のまま、報告書は二通になった。
翠獣環の宴で、ネムの席は空いていた。
ガンガは根菜へ手を付けない。
ハダンが硬いパンを割る。
「食え」
「腹が減ってない」
「候補は腹まで群れへ合わせるのか」
「今、冗談か」
「事実だ。お前は他人の空腹を分けるくせに、自分の空腹を無かったことにする」
「ネムが食ってない」
「だからお前も食わない?」
「違う」
「違うなら食え」
ガンガは空皿へ分けた根菜を、自分の皿へ戻さなかった。
布で包む。
後でネムへ持っていく。
許す代金ではない。
話を聞く入場料でもない。
食事を抜けば喉と頭痛へ悪いからだ。
その理由を、本人へ先に言う必要がある。
角峰の外で、次の試練を告げる角笛が鳴った。
ガンガは立つ。
祭を続けると答えた。
その答えが正しいかは、まだ分からない。
分からないまま、答えはすでに誰かを席から立たせていた。