第253話 第七章「恐怖の伝播」前編
恐怖は、命令を必要としない。
最初の一人が走る。
理由を知らない二人目が、走るという事実を理由に走る。
三人目は、二人も走っているのだから危険は確かだと判断する。
十人目には、最初の危険が何であったかは関係なくなる。
群衆の恐怖は、中心から広がる波ではない。
互いを中心にし続ける輪である。
王は命令によって人を動かす。
恐怖は、人が互いを見ているだけで人を動かす。
ゆえに歴史上、王より速く国を動かしたものは、たいてい恐怖だった。
ガンガは、ネムを捜しに行かなかった。
ネムが一人になると決めて宴席を出たからである。
その選択を尊重した、と言えば聞こえはよい。
実際には、追えば何を言えばよいか分からなかった。
追わないことと待つことは似ている。
逃げることとも似ている。
ガンガは、布へ包んだ根菜をロロへ預けた。
「本人が食うと言ったら渡せ。いらないなら俺へ返せ」
「俺が食ったら」
「お前の分は別にある」
「何で六本腕扱いの量なんだよ」
「動くからだ」
「腹は一つ!」
「知ってる。不便だな」
「その同情やめろ!」
ロロは根菜を受け取った。
十五分後、ネムが自分で機関天幕へ来た。
布包みの匂いを嗅ぎ、ロロへ小板を見せた。
『条件』
「俺に条件?」
『ガンガへ返す言葉を付けない』
「伝言なし」
『食べたことも言わない』
「それは無理。食中毒とか出たら記録がいる」
『体調だけ』
「成立」
ミラの言葉が移った、とハルは思った。
人がいなくても、言葉は船へ残る。
残った言葉が、別の人間の口で違う用途へ使われる。
ネムは根菜を半分食べ、半分を小袋へ戻した。
「足りない?」とハル。
ネムは首を横に振る。
『後で』
「誰かへ?」
『私へ』
「自分用の未来」
丸。
ハルは笑った。
「ガンガに言う?」
休符。
「言わない」
丸。
言葉を伝えないことも、約束になる。
第五試練、群走り。
百獣祭の中で最も観客が多く、最も負傷者が出やすく、最も王らしさが見えると宣伝される競技である。
七人の候補者は、それぞれ百頭前後の混成群を受け持つ。
角峰の下段を一周し、三つの狭門、二つの浮橋、一つの花谷を通って出発点へ戻る。
速さだけなら、速い獣だけを選べばよい。
だが混成群には、歩みの遅い殻獣、音へ弱い風膜鹿、狭所を嫌う角駝獣、水を必要とする雨壺鳥が混ざる。
王が扱う群れは、競技用に都合よく同じではない。
その思想は正しい。
正しい思想の競技でも、運営が正しいとは限らない。
「一候補百頭、七候補で七百前後」
エリアは地図板へ群れの色を重ねる。
「観客獣との隔離幅、最小十二リュム。狭門二で七。安全規定より五不足」
「祭務会へ言った?」とハル。
「二度。観客列を下げるよう要請。現在、杭の移動中です」
「始まるまで」
「四分」
「間に合う?」
「間に合わせます、ではなく、間に合わなければ止めるべきです」
「止める権限」
「祭務頭」
「止めると思う?」
「思う、では記録になりません」
セレナが黒い証羽を上げる。
「狭門二、隔離幅不足。杭移設中。開始時刻までに完了しない場合、外部証人として異議を記録します」
「異議で止まる?」
「止める権限はありません」
「記録だけ」
「記録があることで、止めなかった者が後から『知らなかった』と言えなくなります」
すぐには命を救わない。
だが次の判断を変える。
その遅さを、ハルは以前なら役に立たないと思っただろう。
今も、目の前の危険には遅いと思う。
遅いから不要ではない。
速い行動だけでは、同じ事故が繰り返される。
「俺たちは」
「現場補助」とカイル。「祭務会から正式に依頼が出た。群れの外周を走り、逸脱個体を競技路へ戻す。ただし無理に押し戻さない」
「戻さないで戻す?」
「逃げ道を競技路へ繋ぐ」
「エリアみたい」
「良い教育を受けている」
「王子の自慢?」
「友人の自慢だ」
エリアが一瞬だけ地図板から顔を上げた。
「集中してください」
「褒められると弱い」とハル。
「あなたは褒めても叱っても走ります」
「安定してる」
「悪い方向へ」
ロロは狭門二の杭を増設している。
四本の補助腕が、土の硬さを測り、骨杭を打ち、反射布を張り、料金札を祭務係へ押しつける。
「安全設備費、誰が払う!」
「祭務会」とエリア。
「口約束じゃなく署名!」
「今それ?」とハル。
「事故の後に払う奴はいねえ!」
「命より金?」
「命を守る道具は金で作る! 無料って言うと、作った奴の飯が消える!」
機械鳥ピコが請求札をくわえ、祭務頭の頭上を旋回する。
「鳥を使うな!」
「捕まえたら署名しろ!」
「脅迫になってる!」
ノクスは群れの外縁へ立った。
何の役割も与えられていない。
それでも、夜獣自身がそこを選んだ。
ネムは響花の観測台へいる。
ガンガから三十リュム離れた場所。
ガンガが見ている。
ネムは見返し、太鼓を二拍。
聞く。
賛成ではない。
「来たのか」とガンガ。
ネムが小板を上げる。
『祭を見る』
「俺を?」
『祭』
「分かった」
ガンガは胸を二度、地面を一度叩く。
開始の角笛が鳴った。
七つの群れが走り出した。
地面が揺れる。
七百頭の足音は、音ではなく地形になる。
胸を内側から叩き、骨を振るわせ、空気の厚さを変える。
ハルは外周を走った。
赤い首巻きが後ろへ伸びる。
腰索は短くまとめ、左肩へ荷重を掛けない。
「痛み!」とエリアの声。
「一!」
「息!」
「普通!」
「速度!」
「速い!」
「数値になっていません!」
「走ってる時に数字出ない!」
「では速度を落として!」
「それは分かる!」
ガンガの群れは、先頭集団にいる。
万獣鼓動を広げていない。
足裏で個体の位置を読み、ドゥルガの柄で地面へ方向を打つ。
右へ三拍。
左へ一拍。
停止は鐘を鳴らさず、棍を横へ置く。
獣たちは完全には揃わない。
速いものが前へ出る。
遅いものは間を空ける。
そのばらつきを保ったまま、群れ全体が進む。
「いいじゃん!」とハル。
「まだ狭門だ!」
「褒めただけ!」
「今は聞く余裕がない!」
「聞こえてる!」
「うるさい!」
第一狭門。
角駝獣が角を傾ける。
双殻亀が一列になる。
風膜鹿は上を滑る。
通過。
記録者が数字を刻む。
後方確認、一。
ガンガは一度、振り返った。
観客がざわめく。
以前なら減点と思っただろう。
今は、そのざわめき自体が何を期待しているかの証拠になる。
第二浮橋。
橋は獣の総重量で沈み、下から風が吹き上げる。
群れを二つへ分ける。
「分けるぞ!」とガンガ。
大声。
命令ではなく、飼育者へ予告。
前半をシアの群れと時間差で渡す。
後半はヤッカの遅い殻獣へ合わせる。
順位は一つ落ちる。
ガンガは振り返る。
二。
記録板へ刻まれる。
ハダンは遠くから見ている。
何も言わない。
第二浮橋を渡り切ったところで、観客板の順位が入れ替わった。
一位、バルグ。
二位、ガンガ。
三位、シア。
数字は、起きたことを短くする。
バルグは橋のたわみを一度で読み、鉄蹄獣の歩幅を揃えて最短時間で抜けた。
ガンガは群れを二つへ分け、遅い殻獣を先へ出したため一位を失った。
シアは風膜鹿を橋の上へ飛ばさず、翼を畳ませて一頭ずつ歩かせた。
板へ残るのは時刻だけである。
なぜ遅れたか。
何を守ったか。
何を危険と見たか。
そこまで書けば、観客は読み終える前に次の場面を見る。
だから運営は短くする。
短くした結果、速さだけが分かりやすく残る。
「二位!」
ハルが外周から叫ぶ。
「見える!」とガンガ。
「悔しい?」
「聞く余裕がない!」
「二回目!」
「同じ質問だからだ!」
ガンガは裸足を土へ打ち、獣の心拍を読む足裏技〈グラウンド・リスン〉で近い群れだけを取った。
速い鉄蹄。
低く長い殻獣。
水を腹へ溜めた雨壺鳥の、柔らかな二拍。
同じ種類でも速さは違う。
同じ一頭でも、坂と平地で変わる。
王候補の訓練では、種ごとの平均拍を覚える。
平均は便利だ。
便利であるほど、目の前の一頭を平均へ戻したくなる。
「雨壺、四番が遅い!」
ガンガは飼育者へ言った。
「水切れです!」
「水場は次の谷!」と祭務係。
「そこまで持たん」
「競技中の給水停止は、所定地点以外――」
ガンガは止まった。
群れも少し乱れる。
万獣鼓動を使えば、歩かせられる。
水場まで一つの拍で運べる。
使わない。
「予備袋」
腰の小袋を外す。
「候補者用です」と飼育者。
「今、俺は飲んでない」
「後半で必要になります」
「その時はもらう」
「誰から」
ガンガは後ろを見た。
ハルが自分の水筒を高く上げる。
「俺!」
「お前は走るだろ!」
「エリアが三本持ってる!」
「一本は医療用です!」と遠くから声が飛ぶ。
「二本!」
「勝手に減らさないで!」
雨壺鳥へ水を与える。
後方確認、三。
停止、二十七秒。
記録係が板へ刻む。
順位は三位へ落ちた。
「悔しい?」とハル。
「今は少し!」
「聞く余裕が出た!」
「うるさい!」
雨壺鳥は腹袋を膨らませ、遅い二拍で列へ戻った。
観客席から、二種類の声が上がる。
「王なら自分の水を渡す!」
「競技を止めるな!」
同じ行動が、慈悲にも優柔不断にも見える。
王位候補は行動だけでなく、観客が好きな意味を行動へ載せることとも競わされる。
ガンガはどちらへも答えなかった。
隣の競技路で、バルグが鉄蹄群を一度に曲げた。
地面へ長杖を突く。
先頭から最後尾まで、右へ。
迷いがない。
強い。
一頭だけ、若い鉄蹄獣が曲がらなかった。
右前脚を浮かせている。
「進め!」
バルグの号令。
獣は地面を打つ。
痛みで、もう一度脚を浮かせる。
バルグは二歩進み、戻った。
後方確認、一。
観客の一部がどよめく。
「蹄底!」とヤッカが別路から叫ぶ。「白礫が刺さってる!」
「見えるのか!」
「歩き方で!」
バルグは膝をつき、自分の指で蹄を持ち上げた。
候補者用の白い肩布が土へ着く。
「汚れます!」と付き人。
「布が王になるのか!」
白礫を抜く。
血は一滴。
鉄蹄獣は脚を着く。
「行けるか」
獣は鼻息を返す。
「答えが分かるの?」とハルが、並走しながらガンガへ聞いた。
「分からん」
「でも聞く」
「反応はある」
「本人の答えって、言葉だけじゃない」
「だからといって、反応を好きな言葉へ訳すな」
「今、俺に言った?」
「お前と俺にだ」
ハルは一拍だけ黙った。
「聞いた」
「賛成は」
「考え中」
「ネムが増えたな」
響花の観測台から、太鼓が二拍返った。
聞こえていたらしい。