第254話 第七章「恐怖の伝播」後編

 群れの弱い一頭を示す響花〈エコー・ブルーム〉は、競技路に沿って七つの色帯を作っていた。

 候補者ごとではない。

 種ごとでもない。

 心拍の速さ、深さ、揺れを、花弁の発光へ変える。

 ネムは色だけを見なかった。

 色が始まる場所と、終わる場所を見る。

 花が開く直前の遅れを見る。

 一つの帯が、競技群の外へ細く延びていた。

 灰青。

 七つごとに、わずかに白へ欠ける。

 トトの拍。

 ネムは記録係へ小板を出した。

『外縁反応。追跡へ残す』

 若い記録係は、花の方を見ずに帳面を見た。

「競技札番号は」

『ない』

「では観客獣ですか」

『外七』

「外七は祭務区分で、競技生体ではありません」

『生体』

「それは、もちろん」

『なら残す』

「欄がありません」

 ネムは記録板の余白を指した。

「そこは備考です」

『備考に生きるのか』

 記録係の筆が止まる。

 ネムは責めたいのではない。

 欄がないことを、書かない理由へしてほしくない。

「私の署名で残します」

 記録係は余白へ書いた。

 外縁、灰青、七重欠け、方向未確認。

 正式な失踪記録ではない。

 それでも、何もなかったことにはならない。

 ネムは丸を描いた。

 許可ではない。

 記録されたことを確認した印。

 第三狭門の手前で、ロロが競技路を離れた。

「どこ行く!」とハル。

「杭の下!」

「地面に入るの?」

「言葉を短くすると馬鹿になる例だな!」

 移設したばかりの観客杭。

 その一本の根元で、白い霜が薄く広がっている。

 ロロは四本の補助腕を土へ当てた。

 一号、温度。

 二号、空洞。

 三号、圧力。

 四号、請求札。

「四号は休ませて!」

「習慣だ!」

 地中へ、小さな空洞。

 群走りの振動で圧力が上がっている。

「冷気穴」とロロ。「古い獣穴へ夜の空気が溜まってる。今すぐ爆ぜるほどじゃねえ。だが、上を七百頭が走れば噴く」

 エリアが地図へ印を付ける。

「第三狭門外、観客側。杭をさらに四リュム下げます」

「もう開始しています!」と祭務係。

「だから動かします」

「観客導線が狭くなる」

「競技路を内側へ一リュム寄せる」

「候補者へ再通知が必要です」

「出します」

「伝羽が群走りの震動で不安定です」

 エリアはハルを見る。

「走れますか」

「何をどこへ」

「七候補へ、狭門の内側一リュム。口頭で復唱を取る。肩は」

「一」

「方向は」

「道が見えてる間は平気」

「見えなくなったら」

「止まって聞く」

「誰へ」

「最初に見える人」

「合格」

「白環杯みたい」

「今は採点していません」

 ハルは走る。

 バルグ。

 シア。

 ヤッカ。

 残る候補者へ、同じ言葉を同じ速さで伝える。

 ガンガには最後になった。

「狭門、内へ一!」

「聞いた!」

「復唱!」

「狭門、内へ一!」

「理由!」

「外の冷気穴! 危険度は小、振動で噴くかも!」

「かも、で動かすのか!」

「動かさない理由にする?」

 ガンガは一拍考える。

「動かす!」

 群れを内へ寄せる。

 完全には間に合わない。

 観客杭の移設は三本目。

 競技路は狭門へ近づく。

 冷気穴は、まだ白く息をしていた。

 誰もそれを犯人とは呼ばない。

 穴に意図はない。

 風に悪意はない。

 だが、恐怖は理由の大きさを測らない。

 恐怖は、第三狭門の外から来た。

 中心ではない。

 観客列の最も端。

 杭を下げたばかりの場所。

 一頭の小さな風膜鹿が、地面から噴いた冷気へ驚いた。

 地中の空洞が群走りの振動で開き、白い蒸気を吐いただけだった。

 危険は小さい。

 だが、風膜鹿が翼膜を広げて跳ぶ。

 隣の赤耳牛が、その動きを見て横へ避ける。

 赤耳牛の角が、後ろの苔甲獣の殻へ当たる。

 苔甲獣が低い警戒音を出す。

 その音を聞いた三頭が走る。

 走る三頭を見た十頭が、危険を知らないまま走る。

 観客が下がる。

 下がる人間の足が、別の獣の尾を踏む。

 恐怖の波は、中心から外へ広がらない。

 端から端へ、互いを追いかける。

「外周、暴走!」

 セレナの声。

「中心じゃない!」とエリア。「恐怖源を一点で探さないで! 外縁を順に回っています!」

「杭を開けろ!」とカイル。

「開けたら競技路へ入る!」と祭務係。

「閉じれば観客を踏む!」

 カイルの王盾が薄く広がる。

 守る人数が増える。

 炎は強くなる。

 だが、壁にすれば獣はさらに追い詰められる。

「盾を道にする!」

 カイルは炎を二枚へ分け、V字の出口を作った。

 恐怖した獣が、炎の間を抜けて空いた草地へ流れる。

「痛み!」とロロ。

「二!」

「三で切れ!」

「了解!」

 ロロは杭を外す。

 四本の補助腕が、一本ずつでは間に合わない。

 再機〈リメイク〉を使う。

 壊れたものを元へ戻す術ではない。

 部品の直前の状態を読み、組み替える。

 骨杭が折り畳み柵へ変わる。

「二十秒! その後は金具が熱で歪む!」

「十分!」とハル。

「足りるって意味で使うな! 時間は二十秒!」

 ノクスが、暴走の外側を走る。

 二本の尾を左右へ開き、獣の視線を誘う。

 追わせる。

 安全な空地へ。

 命令ではない。

 自分を目印にした。

 小さな体が、蹄の間を抜ける。

「ノクス!」

 ハルは追う。

 左から赤耳牛。

 右から角駝獣。

「三、二、一!」

 跳ぶ。

 腰索を杭へ掛け、空中で方向を変える。

 左肩に荷重が寄りかけ、右手を索へ添える。

 痛み、二。

「肩二!」

 自分で叫ぶ。

「次の跳躍禁止!」とエリア。

「了解!」

 着地。

 ノクスが一頭の幼獣を空地へ導く。

 暴走はまだ広がる。

 ガンガの群れにも、恐怖が入った。

 最初は端の一頭。

 次に三。

 十。

 心臓が速くなる。

 ガンガは、誰の恐怖かを聞こうとした。

 聞き分ける前に、数が増える。

 恐怖の拍は似ている。

 速く、浅く、次の一歩を急かす。

 群れの中で互いに反射し、強くなる。

 このまま第三狭門へ入れば、圧死が出る。

「止めろ!」とハダンの声。

 誰へ向けた命令か、地面の震動では分からない。

 ガンガはドゥルガの布を外した。

 鐘が、低く鳴る。

 万獣鼓動。

 強い一拍が、群れへ広がった。

 一つ。

 速すぎた心臓が、わずかに遅くなる。

 二つ。

 足音が揃う。

 三つ。

 暴走の波が止まる。

 ガンガは、自分の拍を基準にする。

 落ち着け。

 止まれ。

 ここにいる。

 言葉ではない感覚を、数百の胸へ渡す。

 成功した。

 獣たちは狭門の前で止まる。

 押し合いが解ける。

 飼育者が一頭ずつ外へ出す。

 観客が歓声を上げる。

「ガンガ!」

「王だ!」

「群れを止めた!」

 その歓声も、同じ拍へ寄る。

 ガンガの胸が熱い。

 他人の安堵が入る。

 喜びが入る。

 恐怖が薄くなる。

 同時に、頭の奥で白い光が弾ける。

 偏頭痛、三。

 吐き気、二。

 混線、二。

 それでも止めない。

 一頭のために祭を止めるな、と言われた。

 今、数百頭を守っている。

 これが王の力だ。

 これが必要だ。

 そう思った瞬間、ネムの太鼓が聞こえた。

 遠い。

 揃わない七拍。

 短い、短い、長い、短い、休み、長い、短い。

 トトではない。

 ネムが再現している。

 響花野を見る。

 色が消えていく。

 無色帯だけではない。

 万獣鼓動の範囲全体で、花の色差が薄くなる。

 トトへ繋がっていた細い帯が、どこにあるか分からなくなる。

 ネムが太鼓を強く打つ。

 止めろ。

 ガンガは止めない。

 今止めれば、恐怖が戻る。

 ネムの拍が、怒りへ変わる。

 それも万獣鼓動へ入る。

 ガンガの胸へ、ネムの怒りと、自分の恐怖が混ざる。

 誰の感情か分からなくなる。

「ガンガ、範囲を狭めろ!」

 ハルは外周から叫んだ。

 返事がない。

 ガンガは数百頭を止めている。

 止めなければ踏まれる者がいる。

 正しい。

 同時に、花の地図が消えている。

「エリア!」

「無色化、外周へ拡大! トトの帯を追えません!」

「どうすれば」

「今は群れを安全区へ分ける! 探索はその後!」

 正しい。

 その後、トトはさらに遠くなる。

 ハルは地面を見る。

 恐怖の波は、中心から来ていない。

 群れの外縁を回っている。

 外側へ、空白がある。

 競技路の外。

 観客も獣も少ない、角峰の根元。

 響花の色が消える前に、ネムが一つだけ心拍珠を置いていた。

 青灰色の珠。

 無色帯の先。

 ハルは走る。

「どこへ!」とエリア。

「群れの外!」

「役割は外周補助です!」

「外周の外!」

「言葉で役割を拡張しないで!」

「トトの道が消える!」

「今、一人で行かないで!」

 ハルは足を止めた。

 一拍。

 戻るか。

 誰かを待つか。

 過去の自分なら、聞かずに走った。

「一緒に来る人!」

 叫ぶ。

 ノクスが先に来た。

 次にセレナ。

「私は証拠記録。救難能力は限定」

「分かってる」

 ネムが観測台から降りる。

 頭痛は三。

 喉二。

「来る?」

 頷く。

「ガンガは」

 休符。

「聞いてない。分かった」

 エリアが地図板を投げる。

「携帯板。測定済み地点だけ表示。未測定へ光路を出さないで」

「エリアは」

「群れを分けた後に追います。踵二、路図残り三分」

「分かった」

「戻る条件」

「肩三。ネムの頭四。地面が動く。道が二本とも消える」

「追加。セレナが撤退を命じた時」

「命令権ある?」

「現場証拠保全の責任者として」

「了解!」

 ハル、ネム、ノクス、セレナは競技路を外れた。

 ガンガの声が、後ろから来る。

「ハル! 戻れ!」

 万獣鼓動を通さない、生の声。

 ハルは振り返る。

 ガンガは数百頭の中央にいる。

 全ての拍を一つへ支え、動けない。

「一頭を捜す!」

「今は群れを止める!」

「ガンガがやってる!」

「お前は群れの外へ出るな!」

「外に一頭いる!」

「聞こえない!」

 その言葉が、二人の間へ落ちた。

 聞こえない。

 ガンガには聞こえない。

 だからハルは、聞こえる場所へ走る。

「俺が見に行く!」

「戻れ!」

「戻る場所、決めるな!」

 ハルは前を向いた。

 群れの歓声が遠ざかる。

 万獣鼓動の強い一拍も遠ざかる。

 花の色が戻り始める境界へ、四人は走った。

 ガンガと別の方向へ。