第255話 第八章「揃いすぎた心臓」前編

権力は、使った時にだけ人を変えるのではない。

 使えると知った時から変える。

 命じれば従う者がいる。

 怒れば恐れる者がいる。

 黙っていても、次の命令を予想して動く者がいる。

 王が一度も剣を抜かなくても、剣を持っている事実が会議の席順を変える。

 ゆえに、力を使わないことは無力ではない。

 力があるまま、結果を支配しないこと。

 相手が自分とは違う拍へ戻る時間を待つこと。

 それは力を持たない者にはできない種類の敗北であり、力を持つ者が最も嫌う種類の勇気であった。

 ガンガは、七百に近い心臓の中へいた。

 自分の群れだけではない。

 暴走の恐怖が競技路を回り、隣の候補者の獣へ触れ、観客列へ跳ね、また戻ってくる。

 心拍は境界線を読まない。

 競技番号も、所属群も、観客と参加者の区分も知らない。

 速い。

 浅い。

 逃げたい。

 その感覚が、ガンガの胸へ流れ込む。

 万獣鼓動は心を読む術ではない。

 それでも心臓が身体へ渡す命令を、完全には切り離せない。

 恐怖した獣の胸は速い。

 怒った飼育者の胸は硬い。

 助かった観客の胸は緩む。

 それらが一つの大きな波となり、ガンガ自身の感情へ重なる。

 どこまでが自分か。

 分からない。

 目の前の角駝獣が怯えている。

 自分が怯えているからそう見えるのか。

 角駝獣の恐怖が自分へ入ったのか。

 考える前に、群れが動く。

 ガンガは強い拍を送る。

 止まれ。

 数百の足が止まる。

 歓声。

 その歓声に合わせて、ガンガの心臓も強くなる。

 王だ。

 誰かが叫ぶ。

 その言葉が、胸の内側から出たように聞こえる。

「違う」

 ガンガは口にする。

 誰にも届かない。

 万獣鼓動へ言葉は乗らない。

 乗るのは、強さだけだ。

 九歳の時も、同じだった。

 大雨の後、オルバ群は二つの谷へ分かれた。

 年長者の多くは東の高台へ行くと決めた。

 小さな狩猟群は、西の種穴へ避難路があると言った。

 声は小さかった。

 人数も少なかった。

 何より、雨と地鳴りで聞こえにくかった。

 ガンガは全員の拍を聞こうとした。

 幼い能力は、聞き分けるより先に揃えた。

 怖い心臓へ、自分の強い拍を渡す。

 ばらばらだった足が東へ向く。

 静かな小群れの者たちも、身体だけ東へ動いた。

 西へ逃げる判断を、胸の速さごと失った。

 東の斜面は崩れなかった。

 だから、多数は助かった。

 西の種穴へ行こうとしていた小群れの一人が、途中で列から離れた。

 その後を追ったネムが転び、肩と足を傷めた。

 死者は出なかった。

 群れはガンガを褒めた。

 あの年齢で全員を一つへした。

 王の拍だ。

 小群れの者たちは、何も言わなかった。

 言わなかったのではない。

 ガンガの拍が強すぎて、言う前の身体を同じ方向へ動かした。

 不自然な沈黙。

 それが、ガンガの最も怖い音になった。

 なのに今、同じことをしている。

 今度は数百頭を救うために。

 理由は正しい。

 正しい理由は、同じ傷を別の名前へ変えることがある。

「ガンガ!」

 シアの声が右から来た。

「範囲が広すぎる! 私の群れまで引かれてる!」

「止めれば走る!」

「全部を止めるな! 出口へ向かう群れまで足が揃って詰まる!」

 見る。

 カイルが作った炎の出口。

 安全な草地へ抜けるはずの獣が、ガンガの停止拍へ引かれ、入口で固まっている。

 後ろから別の群れが来る。

 止めることが、詰まりを作る。

「右半分を解く!」

 ガンガは範囲を分けようとする。

 万獣鼓動は、本来、円へ広がる。

 距離で弱くなるが、群れごとの境界はない。

 右へ意識を向ける。

 左の拍が薄くなる。

 左で一頭が走る。

 恐怖が戻る。

 ガンガはまた強くする。

 全体が止まる。

「分けられない」

 声へ吐き気が混じった。

 頭痛、四。

 吐き気、三。

 感情混線、三。

 自分で申告しなければならない。

「四、三、三!」

 叫ぶ。

「切れ!」

 ロロの声。

「まだ止まってない!」

「お前が先に倒れたら全部戻る!」

「あと一分!」

「その一分を誰が決めた!」

 ガンガは答えられない。

 王候補の自分。

 数百の拍を聞く自分。

 今、群れを止めている自分。

 誰かに任せれば、失敗するかもしれない。

 自分なら失敗しないのか。

 すでにトトを聞き落としている。

 響花野を見る。

 花は無色。

 全てが一つの拍へ寄っているため、色を分けられない。

 色がないのは、命がないからではない。

 違いが見えないからだ。

 トトの不規則な拍も、どこかにある。

 ガンガの強い拍へ覆われている。

「俺が、消してる」

 その言葉だけは、自分の声だと分かった。

 ネムは、群れの外へ出ていた。

 ハルとセレナ、ノクスとともに無色帯を追っている。

 胸太鼓の拍が、地面を通ってかすかに届く。

 短い。

 短い。

 長い。

 短い。

 間。

 長い。

 短い。

 トトの拍を再現している。

 万獣鼓動の中では、その七つも同じ間隔へ寄る。

 ネムが分けようとしているものを、ガンガが混ぜている。

 弟だから聞こえるのではない。

 長く一緒にいたからでもない。

 ネムが、違いを違いのまま残す術を使っているから聞こえる。

 ガンガはその光を、自分の拍で消している。

「ハダン!」

 ガンガは叫ぶ。

 白髪の拍守は、競技路の中央で杖を構えている。

「一命令を使え!」

「何を命じる」

「群れを止めろ!」

「お前が止めている」

「俺が解く!」

 周囲の者が息を呑む。

「解けば暴走が戻る」と祭務頭。

「だから、ハダンが」

「一命令は一つだけだ」とハダン。「止まれ、と地面へ送れる。全員が止まるとは限らん。二つ目はすぐ出せん」

「候補者へ分担を」

「それは命令が一つでは足りん」

「じゃ、どうする」

「決めろ」

 また同じ言葉。

 ガンガは怒りを感じた。

 ハダンが答えを持っているように見える。

 古い歌を知り、祭具を知り、候補者を試す。

 なのに教えない。

「お前は知ってるんだろ!」

 ガンガの怒りが、万獣鼓動へ流れる。

 数百の心臓が強くなる。

 獣が地面を掻く。

 恐怖が戻る。

 ガンガは息を止めた。

 自分の怒りで群れを動かした。

 ハダンの顔が硬くなる。

「今のを聞け」と彼女は言った。

「何を」

「お前の怒りを、群れが自分の怒りにした」

 ガンガの胸が痛む。

 古傷の白い線。

「答えを言え」

「私の答えへ全員を揃える祭なら、お前を試す必要はない」

「死者が出たら」

「私も責任を負う。だが、お前の能力を止める責任は、お前にしか負えん」

 正しい。

 正しいから、腹が立つ。

 王は一人で決めろと言い続けたハダンが、今は一人で全てを決めるなと言う。

 矛盾ではない。

 状況が違う。

 人は同じ言葉で全ての場面を救えない。

 歌を覚えるな、理由を覚えろ。

 ガンガはドゥルガを見る。

 鐘を鳴らせば、さらに拍を強くできる。

 あと一度。

 完全に群れを静める。

 その間に出口を作る。

 成功するかもしれない。

 成功すれば、観客は王と呼ぶ。

 失敗すれば、多数が傷つく。

 そして成功しても、トトの拍は消える。

「バルグ!」

 ガンガは叫ぶ。

 鉄灰髪の候補が振り向く。

「何だ!」

「北の群れを任せる!」

「命令か!」

「頼む!」

 バルグの目が変わる。

 命令なら反発したかもしれない。

 頼まれれば、断る自由と責任が生まれる。

「引き受ける! 鉄蹄群、北へ!」

「シア!」

「西を分ける!」

 聞く前に答える。

「ヤッカ!」

「負傷獣を集める! 競技順位は捨てる!」

 ほかの候補者も動く。

 祭務係が叫ぶ。

「試練中の共同指揮は規定に――」

「後で書け!」とシア。

「記録は今します!」とセレナ。

 黒い証羽が何枚も飛ぶ。

「候補者六名、群れを分担。ガンガ候補の単独統率を解除予定。理由、暴走再発防止と個別拍の回復」

「まだ解除してない!」とガンガ。

「予定と記録しています!」

 エリアの光路が、地面へ細く走る。

 三本。

 北、西、南。

「各群れの退避路!」

「未測定は」とガンガ。

「東だけ不足! ハルの携帯板から位置が返れば繋ぎます!」

 ハルは群れの外にいる。

 戻れと命じた。

 聞かなかった。

 腹が立つ。

 同時に、その不服従が今、東の地図を作るかもしれない。

「ハルへ伝羽!」

「通信混雑!」とロロ。「地面の拍が強すぎて飛ばねえ!」

 ガンガの拍だ。

 自分が通信まで塞いでいる。

 ガンガは胸を二度叩いた。

 一度目。

 二度目。

 いつもなら、次に地面を叩く。

 叩かなかった。

「解く」

 自分へ言う。

 ドゥルガの鐘を、布で包む。

 共鳴骨を止める。

 左足を地面から上げる。

 万獣鼓動を切った。