第256話 第八章「揃いすぎた心臓」後編
世界が、ばらばらになった。
能力を切った直後、人の身体は、能力を使う前の身体へは戻らない。
長く明るい場所から暗い部屋へ入れば、暗闇そのものが目を刺す。
大きな音が止んだ直後、静けさの中で耳鳴りだけが残る。
ガンガには、自分の心臓が大きすぎた。
どん。
どん。
胸骨の古傷へ内側から拳を当てられる。
数百の拍を聞いていた時は、その一つにすぎなかった。
今は一つしかないから、世界の全部に聞こえる。
「息を数えろ」とハダン。
「数えてる」
「いくつだ」
「分からん」
「なら数えておらん」
ガンガは腹へ手を置く。
一。
二。
三。
四で吐き気が上がり、数を失う。
「俺の恐怖か」
「私へ聞くな」
「分けられん」
「分からぬ、と分けろ」
「言葉遊びか」
「言葉でしか切れぬ絡まりもある」
ハダンは小さな塩包みを地面へ置いた。
手渡さない。
「舐めろ。水も」
「命令」
「医療助言だ。嫌なら倒れろ」
「選択肢が脅しだ」
「倒れる自由まで守るほど暇ではない」
ガンガは塩を一粒だけ舐めた。
舌へ強い味が来る。
自分の感覚。
誰の心拍からも借りていない。
水を一口。
冷たい。
地面の硬さ。
右膝の痛み。
胸骨の線。
「今あるものを言え」とハダン。
「塩。水。土。胸が痛い。頭が痛い。吐きそうだ」
「感情」
「怖い」
「誰の」
「分からん」
「それでよい」
分からないものを、自分か他人かへ急いで分けない。
分けられない間も、身体を動かすことはできる。
前方で、獣が高く鳴いた。
ガンガの肩が跳ねる。
万獣鼓動を戻したくなる。
あの一頭を止める。
周囲も止める。
全体を静かにする。
手がドゥルガへ伸びる。
鐘は布の中にある。
ハダンは止めない。
止められないからではない。
ガンガが自分で触らないことを選ばなければ、次の場所でまた同じ手が伸びるからだ。
ガンガは手を引いた。
「今のは俺の恐怖だ」
「なぜ分かる」
「能力を戻したいと思った」
「他人の恐怖でも思うかもしれん」
「なら、俺が選んだ恐怖だ」
ハダンの片方の眉が上がる。
「少しは言葉を覚えたな」
「都市へ行った」
「悪い癖も増えた」
「誰のことだ」
遠くでハルがくしゃみをしたように聞こえた。
実際には聞こえない距離である。
ガンガの頭が、知っている声を空白へ置いただけだった。
聞こえた気がすることと、聞こえたことを分ける。
それも、能力を切った後に必要な訓練だった。
最初にガンガの近くへ来たのは、王候補ではなかった。
十一歳ほどの飼育見習いだった。
両手で赤耳牛の綱を持ち、引かれて転んでいる。
「止めて!」
誰へ向けた声か分からない。
ガンガは立ち上がる。
足元が揺れる。
「綱を離せ!」
「逃げる!」
「お前が引かれる!」
「この子、知らない場所だと戻らない!」
赤耳牛は走っていない。
全身を硬くし、綱だけを強く引いている。
見習いの手は離れない。
命令すれば、離すかもしれない。
大柄な王候補が怒鳴れば、怖くて従う。
ガンガは一歩手前で止まった。
「名前」
「え」
「お前と、牛」
「ルハ。こっちはミジ」
「ルハ。手が白い」
指先へ血が行っていない。
「でも」
「ミジは、お前が倒れたらどうする」
「……止まる」
「本当か」
「分からない」
「分からないなら、綱を腰へ通す。手を一度離して、結び直せるか」
ルハは迷う。
「俺が綱を取る?」
ガンガが聞く。
「取ったら、ミジがもっと怖がる」
「じゃ、お前が持つ。俺は結ぶ」
頷き。
許可。
ガンガは綱へ触れ、腰を通す輪を作る。
ミジの耳が後ろへ倒れる。
「触るぞ」
牛へも声を出す。
意味が通じるかは分からない。
突然触れないための、自分への合図でもある。
綱を結び直す。
「歩けるか」とガンガ。
「はい」
「どこへ行きたい」
「北の水場」
ガンガは北を見た。
今の自分には、全群れの位置が聞こえない。
安全か分からない。
「バルグへ聞く」
「王候補が?」
「王候補だから、知らない場所を知ってるふりするのか」
ルハは首を横へ振った。
「じゃ、一緒に聞く」
バルグは北側へ三つの小群を作っていた。
鉄蹄群。
大型草食群。
幼獣と負傷獣。
一つにまとめない。
ガンガが頼んだからではない。
バルグ自身が、三つの速度を一つへできないと判断した。
「水場へ通せるか」
「誰を」
「ルハとミジ」
バルグは牛の脚、耳、呼吸を見る。
「東水場は混んでる。北は鉄蹄が通る。五分待てば空く」
「五分、持つか」とガンガ。
ルハへ聞く。
「ミジは待てる?」
「水が見えれば」
バルグが水袋を地面へ置く。
「少し飲ませろ。全部飲ませると走った時に腹を痛める」
「借り」とガンガ。
「競技中の水をお前へ返しただけだ」
「俺の水じゃない」
「ならミジのだ」
バルグはそれ以上を請求しない。
「お前、能力を切ったな」
「ああ」
「戻すな」
強い言い方。
ガンガの胸へ反発が上がる。
「命令か」
「北の担当としての要請だ。今戻されたら、三群がまた一つへ寄る」
「俺なら止められる」
「止めることだけが今の仕事か」
ガンガは黙る。
バルグは言葉を重ねない。
「五分後、北水場。俺は鉄蹄を先へ出す。お前はルハと待て」
「お前が俺へ待てと」
「嫌なら別案を出せ」
ガンガは周囲を見る。
別案はない。
「待つ」
王候補同士の合意は、拍手も印章もなく成立した。
西では、シアが七種類の笛を使っていた。
高い一音で風膜鹿。
低い二音で殻獣。
木片を擦る音で夜行獣。
同じ「止まれ」を、同じ音で送らない。
種によって聞こえる帯域が違う。
怖がる音も違う。
祭務係が彼女へ叫ぶ。
「統一信号を使用してください!」
「統一したら聞こえない種がいる!」
「記録が困難です!」
「記録が聞きやすいよう獣の耳を作り替える?」
「そういう意味では――」
「なら、記録側が七つ覚えて!」
記録係が半泣きで符号を書き取る。
シアは笑わない。
相手が困っていることを楽しむために言ったのではない。
必要だから、負担を戻した。
南では、ヤッカが競技札を全部外していた。
「番号がないと、どの候補の得点か分かりません!」
「治療順へ候補は関係ない」
「混在します!」
「生きたまま混ぜる。治ってから分ける」
前脚を捻った風膜鹿。
呼吸の浅い雨壺鳥。
蹄を割った鉄蹄獣。
ヤッカは一頭ずつ、色の違う布を付ける。
赤、すぐ処置。
黄、観察。
青、自力移動。
競技の色ではない。
命の優先順位。
順位板には、候補者の逸脱、共同指揮、競技停止が次々と加算される。
観客は混乱する。
「誰が一位だ!」
「今は決められません!」と記録係。
「祭なのに!」
「事故中です!」
祭であることと事故であることは、同じ時間に存在できる。
人は一つの名前へしたがる。
競技なら続ける。
事故なら止める。
だが現実は、競技が事故へ変わる瞬間に名札を付け替えてはくれない。
ガンガは、待っている五分の間に、自分の順位が落ちるのを見た。
三位。
四位。
能力使用停止による統率点の減少。
担当群の分割による一括帰還点の失効。
観客席から、名前を呼ぶ声が減る。
代わりに別の声。
「戻せ!」
「力を使え!」
「王なら一つにしろ!」
耳で聞く声は、万獣鼓動より小さい。
小さいのに、意味がはっきりしているぶん痛い。
ガンガの手が、またドゥルガへ近づく。
ルハが言った。
「ミジ、待ててる」
赤耳牛は、水袋の匂いを嗅ぎながら、その場に立っている。
心拍は速い。
揃ってはいない。
それでも待っている。
「そうか」
ガンガは手を下ろす。
五分後、バルグが北水場を空けた。
「行ける」と彼が腕を上げる。
ガンガはルハへ言う。
「行くか」
「行く」
命令ではない。
同じ方向を選んだだけだった。
その時、東の地面へ細い光が走った。
心臓。
数百。
同じ拍から解かれ、それぞれの速さへ戻る。
恐怖が跳ねる。
安堵が落ちる。
怒りが散る。
足音が揃わない。
ガンガの平衡感覚が消えた。
地面が傾いたのではない。
今まで自分へ揃っていた世界が、勝手な方向へ動き始めた。
膝をつく。
吐き気、四。
頭痛、五。
混線、四。
「ガンガ!」
誰かが呼ぶ。
誰の声か分からない。
胸へ他人の恐怖が残っている。
能力は切れても、身体へ入った感情はすぐには消えない。
北で鉄蹄獣の足踏み。
バルグが自分の方法で群れを導く。
西で笛が七音。
シアが種ごとに違う合図を使う。
南でヤッカが一頭ずつ体へ触れ、歩けるかを確認する。
カイルの盾が出口を作る。
ロロの折り畳み柵が倒れ、観客列を開く。
エリアの路図が、三本の異なる道を示す。
全員が同じことをしていない。
だから、一つが失敗しても全部は止まらない。
群れは乱れている。
だが、崩れてはいない。
「立てるか」とハダン。
ガンガの肩へ触れない。
杖を目の前へ差し出す。
使うかは本人へ任せる。
ガンガは右手で杖を掴む。
「立つ」
「能力は」
「使わない」
「聞こえんぞ」
「聞こえないまま行く」
「どこへ」
「外へ」
ハダンの口元が、ほんの少し動いた。
「候補順位は落ちる」
「落とせ」
「資格も」
「まだ置かない。置くかは、俺が決める」
「欲張りだ」
「候補のまま、能力を使わない」
「それで負けたら」
「負ける」
言葉にした時、胸の奥が軽くなる。
王になれない恐怖は消えない。
群れを裏切る恐怖もある。
それでも、負けないために一頭を消すよりは、形が見える。
地面へ、弱い光が走った。
ネムのセパレート・ビート。
七つの細い線。
一本ずつ、違う間隔。
その先で、赤い布が一度だけ翻る。
ハルの首巻き。
東の岩棚。
ガンガには、そこに何がいるか聞こえない。
聞こえないことを、いないことにしない。
ドゥルガを背へ負う。
鐘は布で包んだまま。
ガンガは、群れの外へ歩き始めた。
王を選ぶ試練の途中で。
王の力と呼ばれたものを、自分から解いて。