第257話 第九章「勝者を決める者」前編
歴史の中で、勝者を決めたのは勝者ではない。
剣を振るう者のほかに、戦が終わったと宣言する者がいる。
票を得る者のほかに、票を有効と数える者がいる。
競走で最初に着く者のほかに、どこを終点と呼ぶか決める者がいる。
勝利は、行動だけでは完成しない。
記録と承認を必要とする。
ゆえに、勝者を選ぶ制度で最も強い者は、候補者ではない。
勝利条件を保管する者である。
そして長く保管された条件は、しばしば守られているのではなく、忘れられないよう閉じ込められている。
ハダンは、若者へ答えを教えるのが嫌いだった。
答えを知っている者が、知らない者を見下すためではない。
答えを受け取った者は、その答えを使った結果の責任を、教えた者へ半分返せるからだ。
あの人が言った。
昔からそうだった。
歌にある。
判断を借り、失敗だけ返す。
ハダン自身も、若い頃にそうした。
大雨期、合議が遅れた。
妹を失った。
以後、一人が決めるべきだと信じた。
群れの緊急指揮を取り、三度の大移動で多くを救った。
同じ口で、移動命令へ背いた若者を追放した。
その一部が死んだ。
救った人数と、切り捨てた人数を同じ歌へ入れられず、別々の節へした。
人間は数字を分けると、責任も分かれたように感じる。
百獣祭の記録も同じだった。
表の板には順位。
裏の板には事故。
飼育帳には祭外個体。
同じ祭の中で起きていることを、別の帳面へ分ける。
すると、誰も全体を見なくて済む。
「拍守」
祭務頭が呼ぶ。
「候補者の再開判断を」
ハダンは杖へ体重をかけた。
右膝が、朝より硬い。
「再開とは」
「群走りの残りを無効とし、暫定順位で角峰試練へ進みます」
「誰が無効にした」
「祭務会の緊急決議です」
「候補者は」
「全員、競技路から退避済み。ガンガ候補だけが東外周へ向かっています」
「なら全員ではない」
「競技行動ではありません」
「お前が分けた帳面ではな」
祭務頭の顎が硬くなる。
悪人ではない。
無能でもない。
百二十三群の食料、水、停泊、獣医、事故補償を三十年回してきた。祭を止めれば起きる混乱を、誰より具体的に知っている。
だからこそ、一頭を例外として処理した。
大きな仕組みを守る者は、小さな例外を嫌う。
例外が小さいからではない。
仕組み全体が完全ではないと示すからだ。
「古記録庫を開けろ」とハダン。
祭務頭の目が動く。
「現在は事故対応中です」
「だから開ける」
「祭礼文書は、終祭後に――」
「一命令を使わせるか」
「脅しですか」
「確認だ。私が地面へ『開け』と送った後、お前が開けなければ、群れは何を聞くと思う」
「権限の乱用です」
「そうだ。だから、使う前にお前へ選ばせている」
祭務頭は長く黙った。
「開けます。ただし外部者の閲覧は――」
「候補者全員。外部証人。飼育帳の保管者」
「範囲が広すぎます」
「隠した結果が今だ」
「公開すれば、王獣血統を巡る争いが」
「公開範囲は後で決める。今は、何を隠したかを決める者が隠した本人だけにならぬようにする」
ハダンは、ネムの言葉を借りたわけではない。
借りた、と言えば、また本人の声を自分の権威へ吸う。
ネムが繰り返し示した拒否によって、自分の考えが変わった。
その事実だけを持つ。
古記録庫は、宴席の真下にあった。
王の皿が置かれた円卓の中心。
その床板を外し、七つの留め具を順番に押す。
最後の留め具だけ、間を空けて押す。
トトの七拍と同じ間隔だった。
「偶然?」とハル。
「観測だけ」とセレナ。
「似てる、まで」
「はい」
ハルは以前より、言葉を一段手前で止めるようになった。
止めるたび、顔へ苦痛が出る。
走る者にとって、一歩を止めるのは筋肉を使う。
古記録庫へ下りたのは、ハダン、祭務頭、七候補、ハル、エリア、カイル、ロロ、セレナ、ネム。
ガンガはいない。
東外周へ行った。
ノクスもいない。
「待つ?」とハル。
「何を」とハダン。
「ガンガを」
「記録を先に見ることと、決定を先にすることは違う」
「戻るまで答えは決めない?」
「お前が決めるな」
「聞いただけ」
「その質問は、答えを一つに寄せる」
ハルが口を閉じる。
ネムが横で小板へ書いた。
『今のは、質問』
「俺の?」
『ハダンの答えが速い』
ハダンは左の白濁した目を細めた。
「私も止められるか」
ネムは丸。
若者に負けると、ハダンは根に持つ。
同時に、少し嬉しい。
自分の声が永遠の命令にならない証拠だからだ。
記録庫には、骨板が千枚以上あった。
年代ごとに束ねている。
最古のものは文字が少ない。
候補者名。
連れ出した獣の数。
戻した獣の数。
見失った数。
振り返った回数。
「得点欄」と祭務頭が新しい束を指す。
「古い板にはない」とエリア。
「数値を比較しやすくするため、二百年前に換算式を導入しました」
「何を何へ換算した」とロロ。
「通過時間、統率範囲、転倒数、後方確認、逸脱――」
「振り返りは加点か減点か」とバルグ。
「状況により判定します」
「今朝、俺たちは少ない方が良いと思った」とシア。
「観客板では、速度順位を主に表示しています」
「主に?」
「理解しやすい指標です」
「理解したものが、試験の全部だと思う」とエリア。
「説明を簡潔にする必要が」
「簡潔にした結果、目的が消えています」
祭務頭は反論しようとして、古板を見る。
最古の記録へ、点数はない。
勝者の印もない。
あるのは、見失った数。
零。
一。
三。
候補者の名の横へ、最後に小さな傷がある。
「これは」とセレナ。
「帰還鐘の印」とハダン。
「誰が帰った時に鳴ったか」
「そうだ」
「最初?」
「記録へ書いてない」
「知っている?」
ハダンは答えない。
知っている。
歌で。
自分の師から。
だが、その知識が現在の祭へ正しく残っているとは限らない。
師も間違えたかもしれない。
歌は変わる。
目の前の証拠から、候補者自身が辿る必要がある。
ハダンは一枚の板を取り出した。
初代王ではない。
四百年前、祭務記録が最も詳しい年。
「読むぞ」
候補者たちが集まる。
「連れ出した数、百一」
「百?」とハル。
「当時は候補一人の試練だった」
「戻した数、百」とセレナ。
「見失った数、一」とエリア。
「振り返り、十二」とシア。
「帰還鐘の印は」とバルグ。
板の最下部。
候補者名の横ではない。
見失った一の横へ、傷がある。
全員が黙る。
ハダンは問う。
「候補者は何頭連れ出した」
「百一」とバルグ。
「何頭戻した」
「百」とシア。
「何頭見失った」
「一」とヤッカ。
「なら試練は終わったか」
誰も答えない。
ハルが言いかける。
ネムを見る。
口を閉じる。
ネムは小板へ書く。
『鐘は、一の横』
ハルは読んでから言う。
「戻ってない一頭が、勝者を決める?」
「疑問形のまま置け」とハダン。
「答えじゃない?」
「まだ、現在の祭と繋がっていない」
「古い歌」とシア。
彼女が、朝の最後の一節を歌う。
「一拍足りぬ者を連れよ」
「中央は違う歌詞だった」とハル。
「一拍揃えて、王を連れよ」とエリア。
「いつ変わった」とバルグ。
祭務頭が記録束を探す。
二百年前。
得点換算式を導入した年。
祭歌改訂。
理由は、「観客理解の統一」。
「統一」とネムが声で言った。
喉が掠れる。
その一語だけで十分だった。
異なる歌詞を揃えた。
異なる拍を揃えた。
例外の幼獣を外へ置いた。
分かりやすい王選びへ変えるために。
古い骨板は、年月の順に並んでいなかった。
祭務会の整理が悪いのではない。
年代を表す方法そのものが途中で変わっている。
古層は、大移動の年を基準にする。
青角獣が南へ渡った三度目の雨期。
角峰の西面が白く剥がれた翌年。
七群が同じ水場を使った冬。
新層は、王暦と祭回数。
その間に、二つの数え方が重なる百年がある。
「同じ祭が二回書かれている」とエリア。
「写し?」とハル。
「一方は群れの移動暦、一方は王都向け報告です。候補者名、獣数、天候が一致する。けれど、項目が違います」
床へ二枚を並べる。
移動暦の板。
連れ出し。
帰還。
見失い。
振り返り。
給水。
負傷。
王都向け報告。
通過時刻。
指揮範囲。
命令成功率。
観覧者数。
交易契約数。
「最後の二つ、王の強さじゃない」とハル。
「王都にとっては、祭の成功です」とカイル。
「観客と契約が増えたら、王候補の点になる?」
「最初から点ではない。報告項目だったものが、後に祭の評価へ入ったのでしょう」
「数字は近いと混ざる」とロロ。
彼は骨板を灯りへ透かす。
「こっちの得点欄、最初から削ったんじゃねえ。後で薄い板を貼ってる。元の下地に別の刻みがある」
「剥がせますか」とセレナ。
「剥がせる。でも戻せねえかもしれない。保存処置が先」
「今見たい」とバルグ。
「今壊したら、見たい奴が最後の閲覧者になる」
「複写は」
「斜光で凹凸を取る」
ロロは補助腕の先へ細い灯りを付けた。
正面から照らさず、骨板の横を滑らせる。
貼り板の下に残った古い刻みが、影として浮く。
後方確認。
十二。
その横へ、小さな円が三つ。
「加点印?」とシア。
祭務頭が古い符号表を出す。
「確認済み個体の数です」
「振り返った回数の横に、戻った数を置いた?」
「当時は、候補者が後ろを見た時に、目視できた遅れ個体を記録したようです」
バルグが自分の板を見る。
今日の後方確認、一。
減点。
「今は振り返ると統率不足」と彼は言う。
「古い記録では、見失わないための行動」とエリア。
「いつ反転した」
骨板を追う。
二百十二年前。
初めて「最速帰還」という表題が付く。
二百十一年前。
後方確認が「進行停止」へ分類される。
二百九年前。
観客板へ暫定順位を導入。
二百七年前。
帰還鐘とは別に、頂到達鐘を増設。
「一度に変わったんじゃない」とハル。
「少しずつ」とセレナ。「一つ一つは運営改善として記録されています」
祭務頭が読み上げる。
「候補者が複数となり、観客が経過を理解しづらい。事故時の責任分界が不明。交易団が滞在日程を組めない。賭け札の不正が増加。外部保険組合が、時間と順位の明示を要求」
「賭け」とガンガのいない場所でバルグが低く言う。
「現在は禁止しています」と祭務頭。
「禁止前に、祭の形を変えた」
「祭だけではありません。四千頭を迎える費用が必要だった。外部交易がなければ、飼料も医療も足りない年があった」
言い訳ではない。
事実でもある。
伝統は、純粋な目的だけでは続かない。
食料を買う。
道を直す。
遠くから来る者へ分かりやすく説明する。
そのたび、意味を短くする。
短くされた意味は、最初の世代には補足できる。
歌を知っているからだ。
次の世代は、短い説明だけを受け取る。
さらに次は、短い説明こそ古い伝統だと思う。
悪人が一夜で祭を盗んだのではない。
祭を続けた人々が、必要な改良を一つずつ積み、目的の上へ別の建物を建てた。
古い入口がどこにあったか、誰も分からなくなるまで。