第258話 第九章「勝者を決める者」後編

「勝者という語はどこから出る」とハダン。

 シアが束を分ける。

「古い板には『帰し手』」

「意味は」とハル。

「連れ出した群れを帰す役」とハダン。

「王じゃない?」

「王候補の役目だ。祭で王を即日決めた時代ばかりではない」

 バルグが別板を持ち上げる。

「ここに『最強の帰し手』」

「後書きです」とセレナ。「刻みの風化が浅い。本文より新しい」

「最強が足された」とヤッカ。

「分かりやすいから」と祭務頭。

「弱いものを連れ帰る役へ、最強を足した」

 ヤッカは治療記録を開いた。

 彼女が見ているのは順位ではない。

 蹄の割れ。

 脱水。

 流産。

 長距離移動後の肺熱。

 候補者ごとの負傷数は、古い板では帰還数の横にある。

 新しい板では医療付録へ移され、総合得点へ入らない。

「速く帰った候補の群れで、翌日に死んだ獣がいる」とヤッカ。

「競技後です」と祭務係。

「競技で傷めた」

「因果は確定していません」

「だから記録から外す?」

「医療記録にはあります」

「順位板にはない」

 ヤッカの声は静かだった。

 静かな声ほど、広い部屋で聞き落とされる。

 ネムが太鼓を一度打つ。

 聞いた。

 全員の顔がヤッカへ向く。

「私は王になりたい」とヤッカ。「治療者だけで終わりたくない。けれど、治療が競技の外なら、王候補の私が治療するほど負ける。負けることが悪いんじゃない。何を選んで負けたかが消えるのが嫌だ」

 バルグは腕を組む。

「順位がなければ、誰も決められない」

「順位を消せとは言ってない」とシア。「一つの順位へ全部を入れない」

「王は一人だ」

「だから、選ぶ条件は一つでいい?」

「条件が多ければ、評議が都合よく選ぶ」

「条件が一つなら、その一つを作る者が都合よく選ぶ」

 候補者同士の視線がぶつかる。

 ハダンは止めない。

 意見が割れた時、すぐ一つへまとめるのは、万獣鼓動だけではない。

 年長者の「まあまあ」も、権力の一種である。

「俺は速さを捨てない」とバルグ。

「捨てなくていい」とシア。「速く決める力が必要な時はある。速さを、見失わないことより上へ固定するなと言ってる」

「事故のたびに全候補が戻れば、誰も頂へ着かん」

「戻らない候補もいていい」

「なら、そいつを悪人にするな」

「しない」

「本当に?」

 シアは答える前に考えた。

「難しい。でも、するなと規則へ書くより、何を選んだかを同じ大きさで出す」

「観客が読むか」

「読まない人もいる」

「では意味がない」

「読まない自由と、読めないよう隠すことは違う」

 バルグは反論を止めた。

 納得したのではない。

 次の言葉を探している。

 ネムが小板へ書く。

『終わってない印を作る』

「議論へ?」とハル。

『祭へ』

 板の最下部。

 見失った一の横にある帰還鐘の印。

 終わっていないものを、終わった順位へ入れない印。

 ロロは古記録庫の中央柱へ潜っていた。

「お前、何してる」とカイル。

「鐘の線を追ってる!」

「柱の中で聞こえにくい」

「なら入れ!」

「細い」

「王子の肩幅が制度へ対応してねえ!」

「制度のせいにするな!」

 中央柱には、帰還鐘へ繋がる七本の細い骨線が通っていた。

 六本は頂到達の記録盤へ接続。

 一本だけ、古記録庫の底を通り、祭場の終点へ伸びている。

「七本目が切れてる?」とハル。

「切れてねえ。外されてる」

「誰が」

「いつ、誰がは分からねえ。留め具の規格は二百年前。得点機を増設した時に、古い線を脇へ避けた」

「隠蔽」とバルグ。

「断定すんな。工事図に書いてある」

 ロロは油紙を出す。

 ――旧帰還検知線、用途不明。競技得点系と干渉するため休止。

「用途不明にした時点で調べなかった」とエリア。

「工期は二十日」とロロ。「祭までに間に合わせるため、動いてねえ線を外した。技師の判断としては普通だ」

「普通が、鐘を鳴らなくした」

「普通は安全じゃねえ。異常も悪じゃねえ。条件を見ろ」

 帰還鐘は、壊れていたのではない。

 新しい勝敗を分かりやすくする装置が、古い終了条件を横へ避けた。

 祭務会は毎年、鐘桴を磨いた。

 外から見える鐘を守った。

 鳴らす線が何へ繋がっていたかは、誰も確かめなかった。

「戻せる?」とハル。

「今は戻さない」

「何で!」

「用途を勝手に決めて繋げば、俺たちが二百年前の技師と同じになる!」

「でも一の横に鐘印」

「証拠一つ。古歌が二つ。線の終点は未確認。今繋いで鳴ったら、鳴らした俺が答えを作る」

 ハルは口を閉じた。

 鳴るはずの鐘を、真相を証明するため自分で鳴らす。

 それは証明ではない。

 欲しい答えへ世界を動かすことだ。

「終点側を調べる」とロロ。「誰が、何を連れて、どの順で通った時に七本目が動くのか。祭具を壊さず、記録する」

「時間がかかる」とバルグ。

「だからガンガを待つ」

「ガンガが答えを持って帰るとは限らん」

「持ってなくても、待たずに王を決める理由にはならねえ」

 ロロは柱から這い出た。

 髪に骨粉。

 四号腕だけが、なぜか請求札を守っている。

「調査費、祭務会」

 祭務頭はもう反論しなかった。

 ハダンは、壁へ掛けられた古い布を見た。

 子どもの頃、この布の下で歌を聞いた。

 一拍足りぬ者を連れよ。

 その時の意味を、師は説明しなかった。

「弱い獣を連れ帰るのですか」と幼いハダンが聞いた。

 師は答えた。

「弱いと誰が決めた」

 ハダンは腹を立てた。

 質問へ質問を返す大人が嫌いだった。

 今、自分が同じことをしている。

 違いがあるとすれば、自分は師より多く失敗した。

 合議を待って妹を失い、即断して追放者を失った。

 どちらか一つを正しい歌へできない。

 だから答えを教えない。

 その態度もまた、責任から逃げる形になり得る。

 トトが消えた今、候補者が自分で辿るのを待つことは教育か。

 知識を持つ老人が、危険の時間を若者へ払わせることか。

 ハダンは初めて、自分の沈黙を疑った。

「拍守」とセレナ。

「何だ」

「あなたが知っている古歌の由来を、知識として記録してください。解釈ではなく、誰から、いつ、どの言葉で教わったか」

「今か」

「今です。あなたが判断を保留しても、記憶は保留できません」

 ハダンは片眼鏡を掛ける。

 黒い証羽の前へ座る。

「師の名は、オド。私が十一の雨期――」

 話し始める。

 答えではない。

 答えを作るために、他の者が検証できる材料を渡す。

 知識を渡しても、判断まで渡さない方法。

 老人にとって、それは若者へ命令するより難しかった。

「ハダンは知ってた?」

 ハルが聞く。

 逃げられない質問だった。

「古歌は知っていた」

「祭の本当の条件も?」

「私の師はこう教えた。王は最初に着く者でなく、最後の一頭と帰る者だ」

「じゃ、何で黙ってた!」

 声が強い。

 ハダンは受ける。

「候補者が歌をどう読むかを見るためだ」

「トトが消えても?」

「トトを消した試験だとは知らなかった」

「飼育場は」

「存在は知っていた。不整拍の獣を治療する区画だと聞いていた」

「名前を付けないことは」

「知らなかった」

「知らなかったで済む?」

「済まん」

 ハダンは、言い訳を足さない。

「祭務会へ任せた。私は歌を守ったつもりで、飼育帳を見なかった。目的を守るため形式を疑えと言いながら、自分の役目を歌だけに狭めた」

「だったら今すぐ全部言えよ」

「言えば、お前はどうする」

「トトを捜す」

「ガンガは」

「捜す」

「本人へ聞いたか」

 ハルの口が止まる。

 まただ。

 友人だから。

 似た孤独を知っているから。

 正しいと思うから。

 ガンガの答えを先へ送る。

 ハルはネムを見る。

「俺、今日ずっとやってる」

 ネムは小板を上げない。

「謝ったけど、またやった。ネムが言ってないことを、ガンガへの証拠にした。ネムの怒りを借りた。トトを自分と同じ特別な子って決めた」

 候補者も祭務会もいる。

 人前で謝ることは、謝罪を見せる演出にもなる。

 ハルはネムだけを見る。

「今後、何を変えるって言ったのに、変わってない」

 ネムが書く。

『少しは止まった』

「足りない」

『私が決める』

「うん」

『まだ怒ってる』

「うん」

『でも捜す』

「一緒に?」

 ネムはしばらく考える。

『同じ目的。同じ答えとは限らない』

「分かった」

 丸。

 聞いた印。

 許しではない。

 関係が続くために、許しを急がない印だった。

 記録庫の入口で、重い足音がした。

 ガンガが戻った。

 顔色が悪い。

 ドゥルガの鐘は布へ包まれている。

「頭痛」とエリア。

「四から三」

「吐き気」

「二」

「混線」

「二。下がってる」

「座って」

「先に聞く」

「座って聞いてください」

「細い椅子は」

「床座」

 ガンガは床へ座った。

 バルグが順位板の写しを置く。

「群走りの暫定結果。お前は三位へ落ちた」

「そうか」

「驚かないのか」

「能力を切った」

「見ていた」

「お前が北を引き受けた」

「頼まれた」

「助かった」

 バルグは一度だけ胸を打つ。

「借りにするな。俺も候補だ」

「じゃ、記録する」

「何を」

「一人で止めなくてよかった」

 ガンガは古板を見る。

 見失った数。

 得点のない欄。

 ハダンは同じ質問をする。

「何頭連れ出した」

「数えてない」

「何頭戻した」

「群走りは全頭、負傷三。観客獣は確認中」

「何頭見失った」

「一頭」

「競技群か」

「違う」

「なら、祭の外か」

 ガンガは、外七と書かれた記録を見た。

「外じゃない」

「どの群れだ」

「まだない」

「誰が捜す」

「俺」

「候補者としてか」

 ガンガは順位板を見る。

 三位。

 上にはバルグとシア。

 王になれば変えられる。

 王にならなければ変えられない。

 その二つだけにすると、王になるため何でも置いていける。

「暫定順位を捨てる」

 祭務頭が顔を上げる。

「辞退ですか」

「違う。候補資格は置かない」

「順位を受けなければ、角峰最終試練へ進めません」

「今の順位の条件が分からない」

「総合判定です」

「得点のない古い試験を、得点へした。振り返りを減点だと思わせた。一頭を祭外にした。何の首位か分からない順位は受けない」

「規定上――」

「名前を消せ」

「候補資格も停止になります」

「停止と辞退は別だ」

「結果は同じです」

「違う。俺は戻る」

「どこへ」

 ガンガは、古板の見失った一へ指を置いた。

「一頭と」

 祭務頭は言葉を失う。

 ハダンは、答えを教えない。

 ただ一つ、問う。

「戻る時、お前は何位だ」

 ガンガは考える。

「最後だ」

 古記録庫の上で、角峰へ登る資格を告げる鐘が鳴った。

 ガンガの名は、順位板から外された。