第259話 第十章「能力を解く」前編

人は能力を得ると、世界の見え方まで能力へ合わせる。

 剣士は距離を間合いで測る。

 商人は時間を利息で測る。

 地図師は道を線で考える。

 聞こえる者は、聞こえないものを遠いと考える。

 だが聞こえない理由は、距離だけではない。

 小さい。

 遮られている。

 別の音へ覆われている。

 本人が声を出していない。

 こちらの耳が、強い音だけを選んでいる。

 能力を解くとは、できたことをできなくするだけではなかった。

 世界が最初から、自分の能力で理解できる形をしていなかったと認めることだった。

「靴を履け」

 ロロが言った。

「嫌だ」

「角峰は骨だ! 割れた縁で足を切る!」

「靴を履いたら聞けない」

「能力使わねえんだろ!」

「万獣鼓動は使わない。足裏は使う」

「能力の言葉遊びで安全規則を抜けるな!」

 ガンガは、ロロが差し出した厚底靴を見た。

 都市人の靴。

 底へ衝撃吸収材。

 足首を固定する紐。

 履けば傷は減る。

 同時に、地面の細い振動が遠くなる。

「半底」とネムが書いた。

「何だそれ」とロロ。

『踵と縁だけ守る。指腹は出す』

「そんな靴ねえ」

『作る』

「誰が」

 ネムはロロを見る。

「俺かよ!」

『修理代』

「新造だ!」

『修理工』

「名称で仕事を狭めるなって俺が言ったけど、今使うな!」

 四本の補助腕が、厚底靴を分解し始める。

 踵の板を残し、前半分を切る。

 外側へ薄い骨縁を付ける。

 足指と土踏まずは露出。

「五分。耐久一時間。角峰一往復は保証しない。切創は減る、落石は無理。料金、祭務会」

 機械鳥ピコが請求札を祭務頭へ飛ばす。

「今も請求」とハル。

「今だからだ!」

 ガンガは半底を履く。

 靴ではない、と自分へ言いかける。

 靴だ。

 感覚を全部守るために足を全部傷つけるより、必要な部分を残す。

 能力を使わない選択は、道具も使わない誓いではない。

「聞こえる?」とハル。

 ガンガは足指を地面へ置く。

「近い振動は。遠いのは薄い」

「不安?」

「ある」

「俺も方向、針なしだと不安」

「今、同じだって言うか」

 ハルの顔が止まる。

「似てる部分がある。でもガンガがどう感じるかは、ガンガに聞く」

「遅い言い直しだ」

「止まれた」

「ネムに採点してもらえ」

 ネムは小板へ書く。

『三点』

「何点満点」

『決めてない』

「低い気がする!」

「お前は採点されると弱い」とガンガ。

 笑うと、頭痛が少し響く。

 数値、二。

 吐き気、一。

 混線、一。

 万獣鼓動を切ってから一時間。

 他人の感情がまだ身体へ残る。

「中止条件」とエリア。

 地図板を胸へ抱え、全員を順に見る。

「ガンガ、頭痛四、吐き気三、混線三。ネム、頭痛四、喉三。ハル、肩三、方向感覚異常。私、踵三、呼吸三。カイル、背部または肋部三。ロロ、喘息発作、補助腕二本以上停止。セレナ、視界悪化。ノクスは本人が戻る」

「ノクスだけ自由」とハル。

「ノクスへ数値を決められません」

「俺たちも本人が戻るって決めたい」

「戻れない状態になる前に決めるための条件です」

「自由を守るための制限」

「言い換えて納得したふりをしないで」

「今、納得しかけた」

「なら、そのまま納得してください」

 カイルが肩を回す。

「俺の王盾は落石防御だけ。道を壁で塞がない。使用三十秒ごとに痛み申告」

「王子が素直」とハル。

「王家の歴史へ記せ」

「後世が驚く」

「普段の俺をどう思っている」

 セレナは証羽を三枚だけ選ぶ。

「記録対象。幼獣位置、祭具との反響、飼育区からの経路。救助を妨げる場合は撮影を中止します」

「証拠より命」とハル。

「両方を取る準備です。二択にしないで」

「最近みんな言い方がエリア」

「教育が行き届いています」とカイル。

「集中してください」

 角峰へ入る道は、山道ではなかった。

 白い角の表面に開いた、細い血管のような溝。

 角峰は死んだ骨だと伝承ではいう。

 だが朝夕の温度差で膨らみ、内部の空気が移り、深い場所から水が滲む。

 死んだものが動くのか。

 生きているものを人が死んだと呼んでいるのか。

 誰も確かめていない。

 確かめるために削れば、祭そのものを傷つける。

 触れないまま神聖視すれば、内部で何が起きても分からない。

 ヴァルカの歴史は、その間で長く揺れてきた。

 登る順番は、ネム、ガンガ、ハル、ノクス、エリア、セレナ、ロロ、カイル。

 実際にはノクスが勝手に前後するので、順番は七人分しか機能しない。

「ガンガが先じゃない?」とハル。

「ネムが道を分ける」

「守るなら前へ」

「ネムは案内役だ。俺の守られる位置へ置かない」

 ネムが振り返る。

『でも落石は止めろ』

「止める」

『役割は役割』

「分かってる」

 兄弟の会話は短い。

 短いから簡単なのではない。

 長く繰り返して、ようやく短くできた。

 ネムは太鼓を一度打つ。

 響花はない。

 代わりに、角の内部へ七つの薄い光が走る。

 セパレート・ビートは心拍を色へ分ける。

 角峰自体に心臓はない。

 だが、内部の空洞が返す振動を、違う間隔の光として表面へ浮かべられる。

 青。

 黄。

 白。

「三本」とエリア。

『人、獣、空洞』

「空洞にも拍?」とハル。

『繰り返し』

「呼吸みたいな圧力変化ですね」とエリア。「心拍とは別。ネムの術は、厳密には生命だけでなく、周期の異なる振動を分離している」

 ネムが横目で見る。

「訂正?」

『拡張。まだ検証』

「台帳を後で直します」とセレナ。

「本人より先に能力説明を書かないで」とハル。

「共同観測として記録します」

 ガンガは足裏へ集中する。

 聞こえるのは、近いものだけ。

 ネムの歩調。

 ハルの軽い足。

 エリアが踵をかばう微かなずれ。

 ロロの補助腕が岩へ触れる金属振動。

 以前なら、その外にいる全ての生き物まで一度に聞こうとした。

 今は、聞こえる範囲を範囲として受け入れる。

「左、空洞が浅い」とガンガ。

「根拠」とセレナ。

「足へ返る音が早い。三歩先、薄い」

 ロロが針を差す。

「厚さ二十センチ。乗るな」

 エリアが地図へ斜線を入れる。

「避けます」

 別の道。

 遠回り。

 順位を捨てた今、速さは目的ではない。

 それでもトトの時間は減っている。

 急ぐ。

 急ぎながら、近道を選ばない。

 その矛盾を身体へ持つ。

 角峰の最初の百リュムは、階段になっていた。

 自然の段ではない。

 白い骨へ、浅い足掛かりを人が削ったものだ。

 削った年代は一定しない。

 古い段は大きく、裸足の幅に合う。

 新しい段は狭く、都市靴の踵へ合わせてある。

 その中間には、途中まで掘ってやめた段がいくつもあった。

「作りかけ?」とハル。

「戻るための段です」とエリア。

「上りと下りで違う?」

「足を置く向きが逆。こちらは頂へ背を向けないと使えません」

 ハルは身体を反転させ、試しに足を置く。

「ほんとだ。下向き専用」

「試練で戻る者がいた証拠」とセレナ。

「誰でも帰るだろ」とロロ。「頂へ着いた後も下りる」

「戻る時期までは示しませんね」とエリア。

 証拠は、望む物語へ近いほど危険である。

 古い段が下向きに削られている。

 だから古代の候補者は全員、途中で弱い一頭を迎えに戻った。

 そう言いたくなる。

 実際には、祭具の修理人、飼育者、巡礼者が使ったかもしれない。

 ただの避難路かもしれない。

「観測。下向き専用の足掛かり、少なくとも三十七」とセレナ。「用途不明。配置は現在の最短登路から外れる」

「三十七も数えた?」

「あなたが話している間に」

「俺の雑談、測定時間になる」

「無駄ではありません」

「褒められた?」

「作業が進みました」

「意味が違う!」

 ガンガは下向き段へ足指を置いた。

 半底の縁が骨へ当たる。

 露出した指腹だけが、浅い震動を拾う。

「誰かが今使ってる?」とハル。

「近くにはいない」

「遠くは」

「聞こえない」

 言うたび、胸の内側がざらつく。

 昨日までなら、遠くまで聞こえることが自分だった。

 聞こえない、と口にすることは、自分を小さくするように感じる。

「じゃ、近くを頼む」とエリア。

「遠くは」

「私の路図、セレナの糸、ロロの測定、外の見張り。足りなければ戻ります」

「俺が全部聞かなくても」

「遠くがなくなるわけではありません」

 ガンガは頷いた。

 能力の範囲と、世界の範囲を同じにしない。

 返り段の先に、二つの穴があった。

 左右。

 同じ大きさ。

 同じ白さ。

 同じ角度で奥へ曲がる。

 ハルは立ち止まった。

「右」

「根拠」とエリア。

「首巻きが右へ流れてる」

「風は右穴から出ています。目的地が右とは限りません」

「じゃ左」

「反転させただけ」

「どっちでもない?」

「まだ測っていません」

 ハルは穴の間を見る。

 目印がない。

 空が見えない。

 磁針もない。

 以前ほど激しくはないが、方向感覚の傷が遅れて開く。

 身体が、進行方向を勝手に一つ作る。

 右へ行った気がする。

 その「気」が、記憶へ事実として入りかける。

「今、分からなくなった」とハル。

 すぐ言った。

「症状は」とエリア。

「右が前に見える。戻った向きが分からない。吐き気なし」

「座れますか」

「座る」

 言われる前に膝をつく。

 腰索を中央の杭へ結ぶ。

「赤布」とエリア。

 ハルの首巻きの端を外し、入口側の杭へ結ぶ。

「それ、俺の」

「戻る方向です」

「俺の印を俺から外す?」

「今は身体より、場所へ付けた方が役に立ちます」

「俺らしさを地図へ貸す」

「詩にしないで、呼吸」

「一、二、三」

 ガンガはハルの胸を聞こうとする。

 足裏では取れない。

 近いのに。

「触っていい?」

 ハルが目を上げる。

「どこ」

「背。呼吸を見る」

「いい」

 掌を肩甲骨の間へ置く。

 左肩は避ける。

 呼吸は少し速い。

 乱れてはいない。

「十で戻ってる」とガンガ。

「数字、出せる?」

「お前の息は近い」

「自分の方向は聞けないのに」

「心臓は道を知らん」

「便利じゃない」

「生き物は、便利のためにあるんじゃない」

「能力も?」

 ガンガは考えた。

「俺が便利にした」

 ハルの呼吸が一度止まり、また動く。

「聞いた」

 エリアは二つの穴へ測定針を入れた。

 右穴から暖かい風。

 左穴から冷たい風。

 カイルが指先へ王盾の火を小さく灯す。

「炎を入れる」

「三秒だけ」とロロ。「骨粉へ油分があれば燃える」

「王盾は延焼しない」

「周りの古布が燃える!」

「では光だけ」

 赤金の炎を、盾にせず細い糸へする。

 右穴へ。

 火は奥へ吸われた。

 左穴へ。

 火は押し返される。

「右は内部へ空気を吸う。左は外へ吐く」とカイル。

「角峰の圧力循環」とエリア。「同じ空洞の入口と出口かもしれません」

「どっちから入る」とハル。

「外へ吐く左。崩落時に煙と粉が逆流しにくい」

「右が近道でも?」

「近いか未確認です」

「左」

 今度は反転ではない。

 根拠を聞き、自分で選ぶ。

 赤い首巻きは入口へ残したまま、ハルは左穴へ入った。