第260話 第十章「能力を解く」後編

 左穴の中には、骨を縫う虫がいた。

 透明な四枚翅。

 針ほどの脚。

 白い糸を口から出し、細い亀裂へ渡している。

「風縫い虫」とガンガ。「骨が動く場所へ巣を作る」

「修理してる?」とロロ。

「巣を作ってるだけだ」

「結果として亀裂を結んでる」

「虫は祭具を守るために生きてない」

「分かってる。けど材質は使えるかも」

「取るな」

「試料一糸!」

「巣が切れる」

「落ちた糸だけ!」

「料金は虫へ払うのか」とカイル。

「飼育環境へ返す!」

「契約相手がいない」とハル。

「だから採取量を自分で制限する!」

 ロロは床へ落ちた糸を一本だけ拾った。

 生きた巣へは触れない。

「神聖だから触らないんじゃない。壊す理由がねえから触らない」

 角峰を守る二つの態度。

 神聖だから、測らない。

 壊さないために、測る。

 似ているようで、失敗した時の直し方が違う。

 測らなかった者は、何を壊したか分からない。

 測る者は、測定自体が壊したものを記録しなければならない。

 セレナは採取前後の巣数を証羽へ残した。

「虫の振動」とネム。

 小板へ書く。

『七十以上。細かい。混ぜない』

 異なる心拍を混ぜず光へ分ける譜〈セパレート・ビート〉を使う。

 壁一面へ、淡い白点が散った。

 一つの大きな光にはならない。

 虫ごとの微細な震えが、星のように別々へ残る。

「きれい」とハル。

『近づくと頭痛』

「きれいと楽は別」

 ネムが丸。

 ガンガは光の中へトトの七拍を探した。

 似た間隔がある。

 違う。

 虫の翅。

 もう一つ。

 違う。

 水滴が骨へ当たる周期。

「見つからない」とガンガ。

『今は』

 ネムが書く。

 今は見つからない。

 いない、ではない。

 ガンガは自分の胸を二度叩きかけ、止めた。

 虫たちがその拍へ寄るかもしれない。

 手を下ろす。

 何もしないことで、観測を変えない。

 骨縫い虫の巣を抜けたところで、床が裏返った。

 板が割れたのではない。

 角峰の呼吸で圧力が変わり、薄い骨片が蝶番のように回った。

「下がる!」とエリア。

 先頭のネムが跳ぶ。

 ガンガは追わない。

 狭い場所で大柄な自分が同じ方向へ跳べば、ネムを押す。

 右足を残し、ドゥルガを横へ渡す。

「掴め!」

 ネムは鐘棍ではなく、壁の糸束を避けて骨縁を取る。

 ハルの足元が傾く。

「前どっち!」

 方向感覚がまた崩れる。

「赤布側が後ろ!」とエリア。

「見えない!」

「腰索!」

 ハルは索を引く。

 入口へ結んだ赤布から、中央杭、今の腰へ一本の線。

 言葉より先に、身体へ戻る方向を教える。

 索を辿り、回る床の上を横へ走る。

「跳ばない!」とエリア。

「走る!」

「肩!」

「一!」

 カイルが王盾を床の下へ差し込む。

 壁にしない。

 回転する板の角度を一秒だけ遅らせる支点。

「今!」

 ハルが固定側へ移る。

 ロロの補助腕が蝶番の隙間へ入る。

「再機は使わない!」

「何で!」

「壊れてねえ! 動く構造だ! 元へ戻したら次の圧でまた回る!」

 代わりに、移動止めの楔を差す。

「一時固定、十五分。帰りに外す。角峰の呼吸を止めるな!」

「道具で解決」とハル。

「道具を使わない誓い、誰もしてねえ!」

 全員が固定側へ移る。

 ネムの耳栓が一枚落ちた。

 回転板の下へ滑る。

 ガンガが手を伸ばす。

「取るな」とネムが声で言う。

「予備は」

 三枚。

「でも、あれは」

『戻りに拾えるなら。無理なら置く』

 自分の道具。

 自分の判断。

 ガンガは手を引く。

「聞いた」

 板の向こうで、耳栓の青が一瞬だけ見え、暗い隙間へ消えた。

 小さな損失。

 誰も命を賭けて取り戻さない。

 救難の物語は、全てを回収する話ではない。

 置いていく物を、自分で選べるようにする話でもある。

 さらに上で、古い刻みを見つけた。

 人の名ではない。

 七本の縦線。

 六本は上へ伸びる。

 一本だけ下へ曲がる。

「帰還鐘の線に似てる」とハル。

「形の類似」とセレナ。

「意味は未確認」とハルが続ける。

「自分で先に言えましたね」

「採点」

 ネムが指を三本。

「まだ三!」

『同じ誤りを止めただけ』

「成長へ厳しい」

 エリアは刻みの位置を地図へ入れた。

「頂へ向かう主路ではなく、右上の側裂け目へ向いています」

「トトの方向?」

「まだ反響がありません」

 ガンガは縦線へ触れない。

 白い粉の下に、古い指跡が残っている。

 昔、誰かがここで上と下を選んだ。

 何を選んだかは分からない。

 分からないまま、自分たちは進む。

 歴史は答えではない。

 過去の者も迷ったという証拠である。

 第一の裂け目で、祭の音が聞こえなくなった。

 角峰の厚い壁が、外の太鼓を遮る。

 静かではない。

 内部を流れる風が鳴る。

 白い骨粉が擦れる。

 遠くで水滴。

 ネムが耳栓を一段浅くする。

「頭」とガンガ。

 指二本。

「喉」

 一。

「俺は頭二」

 ネムが丸。

 互いの状態を聞く。

 それを許可や命令へ変えない。

 ハルが後ろから言う。

「俺、肩一」

「聞いてない」とガンガ。

「報告は聞かれる前に」

「成長を自分で褒めるな」

「エリアと同じこと言う!」

「教育された」

「広がってる!」

 エリアが息を整えながら言う。

「会話できるなら、まだ呼吸一ですね」

「俺の雑談が医療器具」

「精度は低い」

「ロロまで!」

 狭い道を抜ける。

 そこで、王獣鈴の封印箱が鳴った。

 持ってきたのはセレナではない。

 箱そのものは角峰の麓に置いている。

 箱へ結んだ観測糸が、セレナの手首へ一度だけ震動を伝えた。

「反響」とセレナ。

「開けてない?」とハル。

「三封印、全て維持。箱内部の欠片が自発共鳴。間隔――」

 セレナは糸の震えを数える。

 短い。

 短い。

 長い。

 短い。

 間。

 長い。

 短い。

 七重。

 ネムが太鼓へ同じ拍を返す。

 角峰の右壁へ、一本の薄い光が出た。

 すぐ消える。

「今の」とエリア。

『別』

「何と別」

『箱の反響と、奥の拍』

 ネムはもう一度打つ。

 王獣鈴の観測糸が震える。

 角の奥からも返る。

 同じ七つのずれ。

 だが、完全には重ならない。

「生きた拍が、少し速い」とネムが掠れた声で言う。

 喉へ手を置く。

「トト」とハル。

「可能性」とセレナ。

「高い」

「根拠」

「七重の位相差。幼獣の記録。移動方向。生体由来の速度変化」

「記録します」

 ガンガは壁へ足を置く。

 聞こえない。

 万獣鼓動を使えば、範囲を広げられる。

 使わない。

「ネム。方向」

 自分で聞けないことを、認める。

 ネムは右壁へ三回、上へ一回指を動かす。

「右上」

 頷く。

「距離」

 心拍珠を七つ並べる。

 近いものから間隔を広げる。

「百二十リュムくらい」とエリア。

『上下不明』

「地図へ高さがない」とエリア。「角内部の反射で、平面距離だけです」

「行けば分かる」とハル。

「行っても分からない可能性を消さないで」

「行かないと増えない」

「それは正しいです」

「今の記録して」

「自分で記録しないでください」

 右上へ行く道はなかった。

 角壁が垂直に近く、古い亀裂が階段状へ続くだけ。

 ロロが杭を打つ。

「一本目、耐荷重三百キロ。二本目、二百。三本目は骨が薄いから使うな」

「ガンガと俺で百八十くらい」とハル。

「一緒に掛かるな!」

「計算しただけ」

「お前は計算した後、やる!」

「今回は順番」

「今回はって言った!」

 ガンガが先へ登る。

 左手でドゥルガを背へ固定。

 右手で骨の縁。

 半底から出た足指で亀裂を掴む。

 厚い足裏にも、白い骨の鋭さが入る。

 痛み。

 小さい。

 血が出れば振動が読みづらくなる。

「足」とネム。

「零から一」

「嘘」とハル。

「一だ」

「顔に二」

「お前の顔読みは当てにならん」

 ネムが指を二本。

「二対一」とハル。

「多数決で痛みを決めるな」

「じゃ本人申告一、観測二。両方残す」とセレナ。

「記録が増えた」

「隠すより安全です」

 上へ。

 風が強くなる。

 角の外壁へ出た。

 雲海が下にある。

 祭場は小さな円。

 七つの群れ旗が、色の点に見える。

 ガンガの名が消えた順位板も見える。

 一瞬、胸が縮む。

 あそこへ戻れば、首位を取り戻せるかもしれない。

 まだ候補資格は正式には失っていない。

 角峰試練へ参加し、誰より先に頂へ立てば、群れは王と呼ぶだろう。

 今いる場所は、頂へ続く近道でもある。

 右へ行けばトト。

 上へ行けば頂。

 同じ角壁の分岐。

「上は」とハル。

「頂」

「右は」

「トト」

「迷う?」

 ガンガは正直に答える。

「一拍」

「迷っていい」

「許可するな」

「じゃ、待つ」

 ハルは口を閉じる。

 ネムも何も打たない。

 エリアは地図板を向けるだけ。

 全員が、ガンガの答えを先に言わない。

 ガンガは右へ足を置く。

「行く」

 誰も褒めない。

 そのことが、ありがたかった。

 裂け目は、外から見えない角度にあった。

 白い骨板が重なり、細い口を作っている。

 中から、呼吸。

 速い。

 七つで一度ずれる。

 ガンガにも、ようやく足裏で聞こえた。

 近い。

「トト」

 呼ぶ。

 返事はない。

 ネムが太鼓を弱く打つ。

 短い、短い、長い、短い、間、長い、短い。

 裂け目の奥で、蹄が一度動く。

 光が七本に分かれる。

「いる」とハル。

「観測」とセレナ。「生体反応。幼獣相当。七重位相。視認前」

「見える場所へ」とエリア。

 地図針を差す。

「未測定です。路図は出せません。ロロ、内壁厚」

 ロロが細針を入れる。

「入口、十五センチ。奥で広がる。上板に亀裂。全員乗るな。ガンガは入れねえ」

「壊す」とガンガ。

「壊したら上が落ちる!」

「他の入口」

「時間が要る」

 ハルが腰索を締める。

「俺が入る」

「肩」とエリア。

「一。狭い。左腕へ荷重かけない。索は腰。戻る条件、肩三、息二、骨音」

「骨音は何を基準に」

「ロロが止める」

「私も行く」とネムが声で言う。

「喉」とガンガ。

 指二本。

「狭い道で頭痛が上がる」

『太鼓が必要』

「外から打て」

『奥へ届かない』

 ガンガは止めたい。

 守るために。

 ネムが自分で決めた。

「戻る条件」

『頭四。喉三。聞き分け不能』

「俺が後ろ」

『入れない』

「入口を広げる」

『落ちる』

「……外で支える」

 ネムが丸。

 ハルとネムが裂け目へ入る。

 ノクスは、聞く前に二人の間を抜けた。

「ノクス!」

 黒い尾だけが一度光る。

 ガンガは入口へ両手を置いた。

 聞こえる範囲だけを聞く。

 ハルの足。

 ネムの太鼓。

 ノクスの爪。

 トトの速い胸。

 四つ。

 四つしか聞こえない。

 四つを失わないように、聞く。

「十歩」とハルの声。

「右へ曲がる」

「床、柔らかい」

「骨粉。膝で進む」

「肩一」

「頭三」とネム。

 自分で声を使った。

 ガンガは返事をしない。

 聞いたことを示すため、入口の骨を一度叩く。

 奥から、ネムが一度返す。

「見えた」とハル。

 声が変わる。

「トト。右後脚が挟まってる。灰布が裂けて、角芽に傷。息速い」

「出血」とセレナ。

「少し。乾いてる。新しい擦り傷。骨は分からない」

「触る前に反応」とガンガ。

「ネムが拍を返してる。逃げない」

 トトの七拍が、近くなる。

 ガンガの胸は、それへ合わせようとする。

 長く使った能力の癖。

 合わせない。

 トトの拍を変えない。

 違うまま聞く。

「右脚、骨板の下」とハル。「持ち上げれば抜ける。でも上が――」

 角峰全体が鳴った。

 低い。

 祭の太鼓ではない。

 温まった外壁が膨らみ、内部の空気が一斉に移る音。

 ロロの顔色が変わる。

「上板が動く! 全員、荷重抜け!」

 ガンガは入口から手を離さない。

「何秒」

「分からねえ! 亀裂が伸びる!」

 白い線が、足元を走る。

 裂け目の上部が一リュム沈んだ。

 中からハルの声。

「トト見つけた! でも道が閉じる!」

 ガンガはドゥルガへ手を伸ばさない。

 万獣鼓動で何かを動かせる場面ではない。

 能力ではなく、役割を分ける。

「ロロ、入口。エリア、別道。カイル、落石。セレナ、外へ警告。俺はここを支える!」

「命令?」とロロ。

「頼む!」

「料金は祭務会!」

「取れ!」

 角峰が、もう一度大きく軋んだ。

 白い骨の裂け目で、トトの七つの拍だけが速くなる。

 見つけた。

 まだ、連れ戻してはいない。