第261話 第十一章「敗北者の鐘」前編
終点は、速い者のためにあるのではない。
遅い者が、どこまで行けば終わってよいか知るためにある。
最初の者だけを讃える競走では、二番目以降の終点は同じ場所に見えて、意味が違う。
一位は勝利へ着く。
最後の者は、競技そのものを終わらせる。
全員が帰るまで終わらない旅では、最後の帰還者が最も長く旅を背負う。
歴史は先頭の名を残したがる。
だが、村の門を閉じる者は最後尾を見る。
船長は最後の乗客を待つ。
救難者は最初に助けた人数ではなく、まだ戻っていない名を数える。
敗者とは、遅れた者ではない。
誰かを置いて、競争だけを終えた者である。
「骨が割れる!」
ロロの声が、角峰の裂け目へ響いた。
「どれ!」とハル。
「全部だ!」
「説明が雑!」
「お前が中にいるから詳しく見えねえ!」
「じゃ見える範囲!」
「入口上板、亀裂三本! 右壁は持つ! 左床は沈む! お前の真上が一番薄い!」
「最後だけ早く言って!」
「今言った!」
白い骨粉が降る。
ハルは狭い裂け目の中で、トトの右後脚へ手を伸ばした。
幼獣は身体を縮めている。
灰色の布が裂け、青白い角芽へ擦り傷。左耳は伏せ、胸だけが速く動く。
短い。
短い。
長い。
短い。
間。
長い。
短い。
七つで戻る拍。
ネムが同じ間隔を胸太鼓へ返す。
トトの目が、少しだけ開いた。
「触る」とハル。
本人に言葉は通じないかもしれない。
それでも、触れる前に声を出す。
右後脚へ手を添える。
骨板の下へ挟まっている。
血は少ない。脚は温かい。蹄を軽く押すと引く。
「折れてる?」と外のガンガ。
「分からない。動く。挟まってるだけかも」
「無理に引くな」
「分かってる」
「分かってる声が速い」
「ガンガまでエリア化してる!」
「教育だ!」
エリア本人の声が別の亀裂から来る。
「会話を続けて。声が位置標になります」
「俺の雑談が測量器!」
「精度は低いので、ネムの太鼓も必要です」
「否定から入る!」
ネムが太鼓を二拍。
『うるさい』
「今のだけ分かる!」
緊張が一瞬、ほどける。
トトの速い呼吸も、ほんのわずかに落ちる。
笑いは治療ではない。
骨を接がない。
地盤を支えない。
だが、怖さを一つの形へ固めない。
身体が次の動きを選べる余白を作る。
「骨板、持ち上げる方法」とハル。
「上から支点を入れる」とロロ。「俺の補助腕一号を通す。幅が足りねえ。入口を三センチ削る」
「削って崩れない?」
「崩れるかもしれないから、先にカイルが支える!」
「盾、入る幅がない」とカイル。
「炎だけ薄く伸ばせ!」
「盾を刃にする?」
「支えだ! 切るな!」
「王盾は守るものだ!」
「守り方を一つに固定するな!」
「今日の全員、俺へ教育的だな!」
カイルが入口へ右手を差し入れる。
赤金の炎が、手の甲から薄い板となって伸びる。
骨板の上へ入り、崩れかけた亀裂を受ける。
「痛み一!」
「時間!」とエリア。
「三十秒!」
「二十五で交代準備!」
「誰と!」
「ガンガのドゥルガ!」
「盾と棒、交代できる?」とハル。
「できるようにする!」とロロ。
四本の補助腕が入口へ伸びる。
一号は細い楔。
二号は測定針。
三号は骨粉を吸う管。
四号は、なぜか請求札を持っている。
「四号、今要る?」
「紛失すると経費が出ねえ!」
「命が先!」
「命を助けた後に俺が飢える!」
「両方取る!」
「やっと覚えたな!」
楔が、トトの脚を挟む骨板へ届く。
「ハル、右へ五センチ」
「右、壁」
「肩を捻るな。腰から」
「エリア、見えてる?」
「声と振動だけ」
「なのに姿勢まで」
「あなたの悪い動きは予測できます」
「信頼の逆!」
「三、二、一、楔」
ロロが押す。
骨板が一センチ上がる。
トトが鳴く。
高く、短い。
ネムの頭が跳ねる。
過敏聴覚へ直接刺さった。
「頭!」とハル。
ネムは指を四本立てかける。
三本で止める。
「正直に」
四本。
「中止条件!」
ネムは首を横へ振る。
『聞き分け不能ではない』
「でも四」
『一人で出る』
ネムは後退しようとする。
狭い。
身体を回せない。
ノクスが背後へ回り、二本の尾をネムの腰へ当てる。
引くのではない。
後ろの方向を知らせる。
「俺がトト」とハル。
ネムは頷く。
太鼓を一度だけ打つ。
聞いた。
賛成ではない。
それでも役割を渡す。
外へ下がる。
ガンガが入口で待つ。
「触るぞ」
ネムが頷く。
ガンガは両肩ではなく、脇へ手を入れ、身体を引き出す。
「頭四。喉二。歩ける」
ネムが自分で申告する。
「休め」
『命令?』
「頼む」
『入口で聞く』
「三リュム下がれ」
『二』
「二半」
ネムが指を二本と半分にするよう、一本を横へ倒した。
「成立」とガンガ。
「ミラが増えた」とハルの声。
「お前は前を見ろ!」
角峰の外では、最終試練が始まっていた。
ガンガの名を除く六人の候補者が、別々の登路から頂へ向かう。
最初に頂の鐘へ触れた者が、観客の理解では勝者である。
祭務会の正式説明では、頂で待つ課題を終えた者が資格を得る。
古記録では、そのどちらも勝利条件とは書かれていない。
バルグは頂まで残り百リュムの場所にいた。
鉄蹄獣二頭を連れ、骨段を登る。
彼の前には勝利が見える。
後ろから、角峰内部の崩落警報が来る。
祭務会の伝羽。
――競技継続。救難班対応中。
正しい。
訓練を受けた救難班へ任せ、候補者は自分の役割を続ける。
全員が危険へ集まれば、二次遭難が増える。
バルグは足を止めた。
「救難班の人数」と伝羽へ問う。
回答。
外部者七、候補者一、祭務技師二。
「幼獣は」
発見。未救出。
「崩落範囲」
拡大中。
「俺の鉄蹄獣なら支柱を運べる」
伝羽は答えない。
競技者へ救難役を求めていないからだ。
バルグは頂を見る。
近い。
王は不足した条件で決める。
自分で言った。
「鉄蹄群、反転」
獣が振り返る。
記録者が叫ぶ。
「競技路離脱は失格になります!」
「記録しろ!」
「救難班の指示がありません!」
「だから俺が頼む! 支柱を運ぶ場所を聞け!」
バルグは頂へ背を向けた。
後方確認、一。
最後の試練で、初めて振り返った。
別の登路では、シアがすでに風膜鹿を降りていた。
「鹿は頂へ行かせる。私は裂け目へ」
「候補者本人が到達しなければ資格なし」と祭務係。
「鹿の方が王に向いてるかもしれない」
「冗談を記録できません!」
「事実にしてもいい」
ヤッカは救護具を持って下る。
残る三候補も、それぞれの場所で決める。
一人は競技を続ける。
二人は救難へ向かう。
全員が同じ答えを出さない。
それでも、祭は壊れなかった。
選択が割れることと、群れが割れることは同じではない。
「二十五秒!」
カイルの盾が揺れる。
「交代!」とロロ。
ガンガはドゥルガを入口へ差し入れる。
鐘棍は、心拍を束ねる祭具である。
今は、ただの硬い棒として使う。
能力を使わない。
道具の歴史まで捨てる必要はない。
「ハル、上板が一度下がる!」
「どれくらい!」
「三センチ!」
「トトの脚は一センチしか空いてない!」
「楔をもう一段!」
鉄蹄の音が近づく。
バルグが二頭の獣と現れた。
「支柱、どこだ!」
「遅い!」とロロ。
「頂から来た!」
「料金は!」
「祭務会!」
「全員それ言う!」
「正しいからだ!」
鉄蹄獣の背から、太い骨梁を降ろす。
シアが風膜鹿の牽引索を持って来る。
「入口を横へ引く。上へ持ち上げるより、亀裂を開く」
「左壁が弱い」とエリア。
「右へ引く」
「右は滑る」とガンガ。
「足場を作る」とバルグ。
候補者たちが、自分の技能を持ち寄る。
誰も一つの拍へ揃えない。
ハダンの一命令が、地面を通って来た。
――退路を開け。
誰へ、どの方法でとは言わない。
現場が選べる短い命令。
エリアが光路を下方へ伸ばす。
測定済みの骨段だけを繋ぐ。
カイルは盾を解除。
「痛み二。呼吸普通」
「後退」とロロ。
ドゥルガが上板を受ける。
ガンガの両腕へ重さが来る。
胸骨の古傷が痛む。
「痛み!」とエリア。
「二!」
「三で交代!」
「誰と!」
「バルグ!」
「いるぞ!」
バルグがドゥルガの反対側へ肩を入れる。
「王候補が二人で棒を支える」とハル。
「お前は脚を抜け!」
「今やってる!」
ロロの楔が、もう一段入る。
骨板が上がる。
ハルはトトの右後脚を、まっすぐ引く。
抜けた。
トトが暴れる。
「落ち着け、じゃない!」
ハルは自分へ言う。
トトの拍を変えようとしない。
「怖いままでいい! 出るぞ!」
言葉は通じない。
だが、ハル自身の手が強く締まりすぎるのを止める。
灰色の布を胸の下へ通す。
腰索へ結ぶ。
「引いて!」
シアとヤッカが索を取る。
ノクスが先へ走る。
トトが裂け目から滑り出る。
ハルが後ろに続く。
その瞬間、上板が割れた。
「離せ!」とロロ。
ガンガとバルグがドゥルガから手を離す。
白い骨が落ちる。
カイルの盾が再び燃える。
「十秒!」
炎が、ハルの背後へ落ちる破片を受ける。
トトが外へ出る。
ハルの腰索が引かれる。
肩へ荷重が寄る。
「肩二!」
「右腕を離して!」とエリア。
「離したら落ちる!」
「腰索が持ちます!」
信じる。
右手を離す。
身体が一度落ち、腰で止まる。
左肩へ力が抜ける。
シアとヤッカが引く。
ハルも外へ出た。
裂け目が閉じる。
カイルが盾を切る。
白い骨片が入口を埋めた。
全員が、しばらく息だけをした。
「数」とセレナ。
声が震えていない。
「ハル、ネム、ノクス、トト。全員外。候補者五、外部者七、祭務技師二。負傷確認中」
「ノクスどこ」とハル。
黒い夜獣は、トトの前にいた。
鼻先を合わせる。
トトは一度、七つの拍で息を返す。
ノクスの二本の尾が、別々の間隔で光った。
「会話してる?」
「翻訳しないで」とセレナ。
「聞いただけ」
最初の安堵は、三十秒で終わった。
角峰は、幼獣を助けたことを理由に崩れるのを待ってくれない。
「全員、壁から離れろ!」
ロロが叫ぶ。
閉じた裂け目の上へ、細い白線がさらに走っている。
骨板の重みは入口で止まらず、外壁の継ぎ目へ移った。
「連鎖する?」とハル。
「可能性! 今の崩落で圧が別の板へ逃げた!」
「どっち!」
「上と東!」
「帰り道!」とエリア。
「だから急ぐ!」
急ぐ、という言葉は一つでも、身体の意味は違う。
走る。
荷物を捨てる。
人数を数える。
負傷を確認する。
次の崩落方向を測る。
全員が走れば、トトを落とす。
全員が確認を続ければ、骨雨へ巻かれる。
「役割!」とエリア。
声へ、息の浅さが混じっている。
「セレナ、人数と警報。ロロ、亀裂。ヤッカ、トト。シア、索。バルグ、梁。カイル、後方防御。ハル、ノクスと前路確認。ガンガ、動かないで」
「俺だけ何も」
「頭痛と混線の再確認。担ぐ前に」
「今できる」
「できるかを確認する役です」
ガンガは反発しかける。
トトが鼻を鳴らす。
背負う者が倒れれば、幼獣も落ちる。
「頭二。吐き気一。混線、一か零。胸骨一。足二」
「足は出血」
ヤッカが半底の隙間を見る。
「右親指に二センチ。洗う」
「後で」
「今。土と骨粉が入る」
「歩ける」
「歩けることと、化膿しないことは別」
ヤッカは返事を待たず、と思ったところで手を止めた。
「洗う。いい?」
ガンガが彼女を見る。
「いい」
水が傷へ入る。
「痛み」
「二」
「顔は三」とハル。
「お前は前路!」
「行ってくる!」
赤い首巻きのない背が、ノクスとともに東路へ走る。
首巻きは入口の杭へ残っている。
今のハルは、色ではなく声と腰索で見分けられる。
セレナは証羽を空へ上げた。
「角峰内部救難班より祭務会。幼獣一、救出。人員全員、現在確認。外壁亀裂拡大。東帰路の閉鎖可能性。頂側へも警報を」
返事はすぐ来ない。
群走りの混乱で、伝羽網がまだ不安定である。
代わりに、頂から三本の旗が見えた。
赤。
白。
赤。
「古い崩落信号」とシア。
「意味」とカイル。
「上部骨板、落下開始。風は西へ」
旗を振っているのは、救難へ戻らず頂へ進んだ候補者だった。
彼は最初に頂へ着いた。
鐘へ触れた。
そして頂の見張り台から、下の亀裂を見つけた。
戻らなかった者は、何もしなかった者ではない。
頂へ着いたからこそ見える崩落線がある。
上に残り、旗を振る者がいなければ、東路の一行は骨雨の方向を知らなかった。
「西へ流れるなら、東路は粉塵少ない」とエリア。
「板そのものは」とロロ。
四本の補助腕を外壁へ当てる。
「落下間隔、まだ読めねえ」
頂の旗が変わる。
白。
白。
赤。
「三十拍後に第一波」とシア。
「誰が数える」とバルグ。
「全員で数えるな」とガンガ。
全員の拍を一つにすれば、また一人の間違いが全部へ広がる。
「三系統」とエリア。「ロロは機械時。ネムは太鼓。私は路図の光点。二つ一致で移動」
「一つが違ったら」とハルの声が前方から返る。
「止まって確認!」
「急ぐのに止まる!」
「急ぐからです!」
ロロの歯車が回る。
ネムが短い拍を打つ。
エリアの光点が一つずつ消える。
三十。
二十九。
二十八。
数え方は違う。
終わる時刻だけを合わせる。