第262話 第十一章「敗北者の鐘」後編
バルグは鉄蹄獣から降ろした骨梁を、帰路の仮支柱へ使った。
「競技具です」と祭務技師。
「今は救難具だ」
「返却時に損傷が」
「記録しろ。費用は俺の群れへ――」
「祭務会!」とロロ。
「俺が払うと言ってる!」
「事故設備の費用を候補へ押しつけると、金のない候補は救難へ戻れなくなる!」
バルグは口を閉じた。
自分で払うことは責任に見える。
しかし、責任を個人の美徳へすると、同じ行動を金のない者へ要求できない。
「祭務会」とバルグが言い直す。
「成立!」
「契約してない」
「請求先が一致した!」
シアは牽引索へ、種ごとの色布を結ぶ。
「白は人。灰はトト。黒は機材。混ぜない」
「同じ索へ結んでる」とハル。
「引く順を分ける。全部を同時に引けば、軽いものが跳ねる」
「人は軽い?」
「ロロの機材よりは」
「俺じゃなく荷物と比べろ!」
ヤッカはトトの呼吸を取る。
「速い。脱水。右後脚へ荷重不可。胸の圧迫禁止」
「担架」とガンガ。
「背負うなら、胸へ一本、腹へ一本ではなく、肩帯と骨盤帯。間に空間を作る」
「俺が作る」とロロ。
「材料」
「ガンガの肩掛け。シアの予備索。バルグの梁布」
「俺の肩掛けを切る?」
「命と布!」
「聞いただけだ。切れ」
ロロは布を切る。
王候補の印が入った肩掛け。
刺繍された群れの紋が、二つに分かれる。
一片はトトの肩を支える。
一片は腰を支える。
「縁起が」と祭務技師。
「布だ」とガンガ。
「候補礼装です」
「今は担架だ」
バルグが笑う。
「俺の競技梁と同じか」
「お前の方が高そうだ」
「値段で勝った」
「そこを競うな」とシア。
王位候補たちは、頂へ向かうための物を、帰るための物へ変える。
儀礼は壊れた。
用途は生きた。
「前路、第一退避棚まで安全!」
ハルが戻る。
赤い首巻きはない。
代わりに、右手へ白い骨粉、左腰へ路標紐。
「方向」とエリア。
「戻りで一回、右が前に見えた。索を引いて復帰。吐き気なし」
「肩」
「一。走ったから呼吸二」
「休息三十秒」
「骨雨まで」
「二十一拍」とネム。
「二十秒休む」
「三十」
「間を取って二十五」
「身体条件は値切りではありません」
「ミラなら値切る」
「あなたはミラではない」
「本人の真似を本人の許可なく使うな」とガンガ。
「今日、全員厳しい!」
ハルは座る。
休むという行動を、逃げずに行う。
二十五秒。
ネムの太鼓と、ロロの歯車と、エリアの光が二つずつ一致する。
「移動!」
第一波が来た。
頂から、白い骨片が雨のように落ちる。
大きいものは盾ほど。
小さいものは粉。
カイルが後方へ王盾を開く。
壁ではない。
斜めの屋根。
「走らせない! 落下を横へ流す!」
赤金の炎へ骨片が当たり、西へ滑る。
「痛み一!」
十秒。
「一!」
二十秒。
「二!」
二十五。
「解除準備!」とエリア。
「あと五!」
「三十で切る!」
盾を強くすれば、もっと守れる。
守る人数が多いほど、王盾は燃える。
だからこそ、切る時刻を他人と決める。
三十。
カイルが炎を閉じる。
最後の骨片が、予定より早く落ちた。
バルグの鉄蹄獣が前へ出る。
頭の角で受ける。
「獣を盾に!」と誰かが叫ぶ。
「本人が出た!」とバルグ。
「本人?」
「止める前に動いた!」
鉄蹄獣は首を振り、骨片を脇へ落とす。
角の先が少し欠ける。
ヤッカが駆ける。
「次は出さない。角を診る」
獣は鼻息を荒くする。
「怒ってる?」とハル。
「分からない。だが歩ける。痛み反応あり」
「本人が選んだ、で怪我を正当化しない」とネムが掠れた声で言う。
バルグが頷く。
「聞いた」
獣の角へ冷却布を巻く。
第一退避棚へ、全員が入った。
退避棚は狭かった。
候補者五人。
外部者。
祭務技師。
鉄蹄獣二頭。
トト。
全員が同じ場所へ入るには狭い。
「人を先へ」と祭務技師。
「獣を外へ残す?」とヤッカ。
「棚の耐荷重が」
ロロが測る。
「全員は無理。二群へ分ける。奥棚、人とトト。外縁、鉄蹄と候補者二。梁で屋根」
「候補者二は誰」とシア。
「俺」とバルグ。
「私」
「お前は索管理」
「だから外」
「俺一人で」
「また一人へ集める?」
バルグが黙る。
「二人」とガンガ。「俺も外」
「お前はトトを担ぐ」とヤッカ。
「今は下ろしてる」
「頭痛が戻る可能性」
「外の拍は少ない」
「理由になってない」とハル。
ガンガは自分の案を引く。
「じゃ、バルグとシア。俺は奥」
「素直」とハル。
「お前が言うと腹立つ」
「成長を褒めた!」
「褒める権利を先に取るな!」
棚を二つへ分ける。
全員が同じ安全を受けられない時、誰を危険側へ置くか。
強い者。
候補者。
志願者。
どれも一つでは足りない。
バルグとシアは、自分の技能が外側で必要だと説明し、ヤッカが身体状態を確認し、本人たちが選ぶ。
決定へ時間がかかる。
第二波まで九十拍。
間に合う。
急ぐ時ほど、同意を省くのではない。
省ける確認と、省けば役割そのものが変わる確認を分ける。
ハルは奥棚でトトの横へ座った。
「怖い?」
幼獣へ聞く。
返事は速い七拍。
「俺は怖い。肩は一。方向は今平気。これ、俺の情報」
トトの耳が一度動く。
「交換になってないけど」
ネムが小板を見せる。
『相手が返さなくても、話していい』
「答えを要求しなければ」
丸。
第二波が屋根へ当たる。
外でバルグとシアの声。
別々の間隔。
一つへ揃わないまま、梁を支えている。
骨雨が止んだ時、頂から最後の旗が下りた。
旗を振っていた候補者が、単独で下りてくる。
頂到達の印を手首へ結んでいる。
「一位」と祭務技師が言う。
「現行規定では」と候補者。
彼は救難へ戻った者たちを見る。
「俺は頂へ行った。上から警報を出した。選び直しても、同じことをする」
バルグが答える。
「俺は戻った。選び直しても戻る」
「どちらが王に向く」
「今決めるな」
シアが二人の間へ入る。
「同じ事故の中で、違う場所を守った。片方を臆病、片方を冷酷と短くするな」
頂到達者は頷かない。
反対もしない。
「俺の到達を消すな」と言った。
「消さない」とセレナ。「救難へ戻らなかった事実も、頂から警報を出した事実も、両方を記録します」
「評価は」
「記録者が決めません」
「逃げか」
「権限の範囲です」
候補者は証羽を見る。
「なら残せ」
「残します」
彼は先に下りた。
誰も拍手しない。
誰も石を投げない。
物語が欲しがる悪役を、現場が拒んだ。
第三波の前に、一行は角峰を離れた。
最短の西路は、粉塵が濃い。
東路は長い。
ガンガはトトを背負う前に、布担架の結びを自分で確認し、次にヤッカへ見せた。
「胸へ当たってない」
「右帯、指一本緩める」
「落ちないか」
「肩帯が持つ。呼吸を優先」
緩める。
トトの胸が動く余白が増える。
ネムは背後へ立ち、心拍珠を一つずつ返す。
「俺が聞く」とガンガ。
『聞く。決めるのは複数』
「分かった」
『聞いた、では』
「賛成する」
ネムが丸。
東へ歩き出す。
順位板の時刻は進む。
頂到達者はすでに終点へ向かっている。
観客は、最後の直線でガンガが走ると思っている。
英雄は最後に速度を上げる。
傷を無視する。
遅れを取り戻す。
その方が、見ている者の胸は熱くなる。
ガンガは走らない。
十歩ごとにトトの呼吸を確認する。
二十歩ごとに自分の頭痛を申告する。
狭い骨段では一度下ろし、布担架を三人で渡す。
遅さは、見せ場になりにくい。
だが、命を運ぶ時間の大半は、派手な救出の後にある。
落とさず帰る。
傷を悪化させず帰る。
助けた者を、助けた物語の道具にせず帰す。
救難の歴史で省略されやすいのは、この長い帰路だった。
トトの右後脚は折れていなかった。
深い圧迫痕。
擦過傷。
脱水。
ヤッカが固定布を巻く。
「歩かせない。帰路は担架」
ガンガがしゃがむ。
トトは白い角へ鼻を伸ばす。
ガンガは今度、頭を引かなかった。
角芽が、額角へ軽く触れる。
「触っていいとは言ってない」とガンガ。
「本人同意取れない」とハル。
「嫌なら離れる」とネム。
ガンガは離れない。
「今はいい」
誰へ言ったかは、本人にも分からない。
トトを背負う。
大きな腕で抱くのではない。
胸へ圧を掛けないよう、肩と腰へ布担架を回す。
「最短路は西」とエリア。
地図板へ二本の帰路。
「西、二十分。ただし骨段が狭い。東、三十五分。幅広、負傷者と幼獣向け」
「西へ」と祭務係。
「帰還時刻が判定に――」
ガンガは東を指す。
「こっち」
「順位を捨てても、帰還資格の時刻は」
「トトの脚を捨てない」
東へ進む。
途中、バルグの鉄蹄獣が一頭、前脚を傷めた。
「先へ行け」とバルグ。
「担架を分ける」
「お前は幼獣を運べ」
「ロロ」
「予備梁で獣用そり! 料金――」
「祭務会!」
「分かってる!」
ガンガは立ち止まる。
その間に、救難へ来なかった一候補が先に祭場へ着く。
次にシア。
ヤッカ。
バルグ。
ガンガは最後になる。
形式上の敗北。
東路の途中で、トトが苦しそうに動く。
「止まる」とガンガ。
「時間」と祭務係。
「呼吸を先に見る」
ネムが胸へ触れず、太鼓で七拍を返す。
トトの呼吸が速いまま、規則性だけ戻る。
落ち着かせて揃えるのではない。
本人のずれを、そのまま支える。
ガンガは聞く。
万獣鼓動を使わない。
一頭の近い拍だけを、足裏と背中で聞く。
「行ける?」とハル。
「俺じゃない」
「トトへ聞いた」
ガンガは笑う。
「言葉は返らん」
「身体は」
「今、立ち上がろうとした」
「じゃ少し進む」
「決めるのは」
「運ぶガンガと、診るヤッカと、トトの反応」
「増えたな」
「一人で決めるより」
「遅い」
「遅く帰る試練だから」
「競技はもう捨てたんじゃなかったか」
「帰るところまでが救難」
「今のは正しい」
エリアが後ろから言う。
「ハルは時々、正しいことを言う直前に余計なことを言います」
「直前なら改善だ」とカイル。
「褒め方が遠い!」
笑いが、帰路へ散る。
日が落ちる前、最後の一行が祭場へ見えた。
ガンガ。
背にトト。
その後ろへハル、ネム、エリア、カイル、ロロ、ノクス、セレナ。
バルグたちは先に着いているが、終点の外へ立ち、待っていた。
観客の声は割れている。
「失格だ」
「幼獣を連れた」
「最初に着いた候補が勝者」
「鐘が鳴っていない」
「故障か」
頂へ着いた候補者が戻っても、帰還鐘は鳴らなかった。
祭務会は手動で鳴らそうとした。
鐘桴は動かなかった。
古い祭具。
王の皿と同じ七つの傷。
ガンガが終点へ近づく。
ハダンが、朝の歌を歌う。
一人で。
百の道より、百の群れ。
百の群れより、百の拍。
高き角へ、強き者。
先に登れ、先に帰れ。
最後の一節。
中央の祭務奏者は、口を開かない。
ハダンは古い歌詞を歌う。
――一拍足りぬ者を連れよ。
外縁の飼育者が続く。
シアが歌う。
ヤッカが歌う。
バルグは歌わないが、胸を一度打つ。
ガンガは、終点の線で立ち止まる。
自分だけ先へ跨がない。
トトを背から下ろす。
右後脚を地面へ着けないよう、布担架のまま終点の内側へ運ぶ。
トトの胸が、七つのずれを打つ。
短い。
短い。
長い。
短い。
間。
長い。
短い。
帰還鐘の内部で、何かが応えた。
一度目。
誰も触れていない。
二度目。
角峰全体へ響く。
三度目。
祭場の響花が、七色に分かれて開く。
鐘は、最後に帰った敗北者の時だけ鳴った。
ガンガの名が順位板から消えたまま。
王を選ぶ祭の、本当の終了を告げるように。