第263話 第十二章「公表されない死」前編

歴史は、死者を隠す時に死という字を使わない。

 移送。

 処置。

 任務終了。

 記録対象外。

 統計上の調整。

 人が死んだ、と書けば、誰が、なぜ、いつ、どこで、と問われる。

 別の言葉へ替えれば、問いは書類の外へ落ちる。

 死者は言い換えへ抗議できない。

 生き残った者が言葉を戻さなければ、その死は二度失われる。

 一度目は命として。

 二度目は、起きたこととして。

 帰還鐘が鳴った後、最初に起きたのは戴冠ではなかった。

 トトの治療だった。

 祭場の中央へ救護天幕を張る。

 右後脚の圧迫を冷やし、擦り傷を洗い、脱水へ少量ずつ水を与える。

 野次馬を下げる。

 大太鼓を止める。

 光る角飾りへ布を掛ける。

 王獣に似た拍を持つ幼獣だという噂は、鐘より速く広がった。

 触れば幸運が来る。

 毛を持てば王の加護がある。

 次の王獣になる。

 死んだ王の生まれ変わりだ。

 全て、誰かが今作った話だった。

「下がれ」

 ガンガは言う。

 声が低い。

 万獣鼓動は使わない。

 自分の声だけで、一人ずつへ言う。

「トトは疲れている。触るな。見るなら天幕の外から。話を作るな」

「王獣の印では」と観客の一人。

「違う」

「では鐘が鳴った理由は」

「まだ分からない」

「候補が連れ戻したから」

「それは観測だ。理由はまだ分からない」

 セレナの言い方が、ガンガの口へ移っている。

 本人は横で証羽を整理しながら、一度だけ頷いた。

 拍手が起きる。

 ガンガが天幕を出ただけで。

「王!」

「最後の帰還者!」

「真の勝者!」

 胸が縮む。

 負けると決めた。

 順位を捨てた。

 その敗北まで勝利の物語へされる。

 人は美しい逆転が好きだ。

 最下位が実は一位。

 敗北が本当の勝利。

 捨てた王冠が、より大きな王冠になる。

 それでは何も捨てていない。

「王じゃない!」

 ガンガの声が広場へ届く。

 拍手が少し止まる。

「俺は候補だ。順位を受けなかった。トトを連れ帰った。鐘が鳴った。それ以上を、今ここで一つにするな」

「古歌の条件を満たした」と祭務会の者。

「トトは条件じゃない」

「試練の一頭として――」

「違う!」

 今度は怒鳴った。

 近くの獣が身を固くする。

 ガンガは息を吸い、声を落とす。

「トトは、俺を試すために消えたんじゃない。祭務会が意図して谷へ放したわけでもない。生き物が、怖くて逃げた。見失った。隠していた仕組みのせいで捜索が遅れた。そこを美談にするな」

 ハダンが杖を鳴らす。

「聞け」

 地面へ術は流さない。

 目の前の者へ言う。

「古い祭の目的と、今日の事故を混ぜるな。目的が正しかったから事故が必要だったわけではない。事故が起きたから目的を思い出したのでもない。忘れていた者が、事故を利用して正しかった顔をするな」

 自分へも向けた言葉だった。

 公開検証会は、翌朝に開かれた。

 祭を続けるか、終えるか。

 王を選ぶか、延期するか。

 トトと禁足谷の記録をどこまで公表するか。

 三つの議題を一度に扱わない。

 最初に、事故経路。

 セレナが事実を読む。

「第一。外七個体は禁足谷の保護飼育場で育てられていた。生育正常。七重の不規則拍が祭具へ干渉するとの記録あり」

「第二。第一試練当日、飼育人員不足により、外七個体は『馴化補助』として混成群へ入れられた。競技参加個体ではないため、個体札を付けなかった」

「第三。第七洞門の脇道には本来、幼獣用の柔軟柵がある。昨年の地盤変動で外され、修繕申請は予算保留」

 ロロが請求書を高く掲げる。

「修繕費を後回しにした額、今回の救難費の二十分の一!」

「金の話を今」と誰かが言う。

「今しないから後回しになる!」

 広場の端で、修理工たちが拍手した。

 揃わない拍手。

「第四。試練用角笛と万獣鼓動が重なった時、外七個体は他個体と異なる方向へ移動。脇道へ入った」

 ガンガの名を避けない。

「俺が揃えた」とガンガ。

「角笛だけのせいじゃない。俺の能力で、トトが止まりたい拍を弱くした」

 祭務頭が言う。

「能力使用は競技規定内です」

「規定内なら、起きたことから外れるのか」

「責任を一人へ負わせるべきではない」

「一人へは負わせない。俺の分を消すな」

 セレナが続ける。

「第五。試練終了時、携行札十本を全数確認。生体数を同時確認しなかった。外七個体は参加記録外のため、失踪届の窓口がなかった」

「第六。禁足谷の捜索は地盤危険を理由に中止。危険評価自体は妥当。ただし代替捜索、個体位置確認、競技中断基準が設定されなかった」

「第七。外七個体は、慣れた飼育場へ戻ろうと谷へ入った後、祭太鼓と角峰の七重反響へ引かれ、内道へ進んだ可能性が高い」

「断定は」とハル。

「しません。足跡、花粉、布痕、残響の順からの推定です」

「第八。角峰内の地盤変動で右後脚を挟まれた。発見、救出」

 ここまでに、悪人の名は一つも出なかった。

 飼育係。

 予算委員。

 祭務係。

 候補者。

 観客。

 それぞれが、自分の場所では説明できる判断をした。

 名前を付けないのは争いを避けるため。

 札を付けないのは競技外だから。

 柵の修理を遅らせたのは他の危険箇所が多かったから。

 祭を止めないのは四千頭を守るため。

 局所の理由が重なり、一頭が制度の外へ落ちた。

 誰も殺そうとしなくても、人は死ぬ。

 だから、悪意の有無だけで制度を裁けない。

「次に、飼育記録」

 ネムが立つ。

 声ではなく、小板をセレナへ渡す。

 原本の保管者はネム。

 公開範囲は、本人が決めた。

 個体名に当たる記号は伏せない。

 飼育担当者の個人名は、故意の虐待証拠がないため一旦伏せる。

 判断理由と死亡数は公表する。

 セレナが読む。

「過去六十年、不規則拍を理由に祭外区分となった個体、三十七」

 広場が静まる。

「群れへ復帰、十二。外部研究区へ移送、八。生存確認なし、五。記録上『飼育終了』、十二」

「飼育終了とは」とガンガ。

 祭務頭が答える。

「死亡です」

 声が小さい。

「病死、事故死、衰弱死。記録様式で、死亡を飼育終了と――」

「公表したか」

「祭の代表獣ではないため、年次死亡統計へ含めていません」

「群れは知ってるか」

「所属群がありません」

「だから、誰も失わなかった?」

 答えはない。

 十二の死。

 名がない。

 所属がない。

 祭の統計へない。

 死は起きた。

 失った群れだけがなかった。

「名前を戻す」とガンガ。

 祭務頭が言う。

「記録に個体名はありません」

「飼育者が呼んでた名がある」

「非公式です」

「呼ばれたなら名だ」

「全てを確認できない」

「確認できるものから」

 ネムが小板を上げる。

『名前を公開しない選択も』

 ガンガは見る。

「死んだ獣に聞けない」

『飼育者、群れへ戻った個体、記録を持つ人へ聞く』

「全部公表しない?」

『記録することと、公表することを分ける』

 記録と公開を分ける制度は、この空域ではまだ十分に育っていない。

 それでも、その原則はネム自身の経験から出る。

 聞こえることと代弁する権利を分ける。

「分かった」とガンガ。

 すぐ言い直す。

「聞いた。賛成する。ただし、死亡数は隠さない」

 ネムが丸。

「十二頭」とガンガは広場へ言う。「この祭の裏で、少なくとも十二頭が死んだ。王を選ぶ歌に入らなかった。今日のトトを連れ帰って、全部救った話にするな」

 拍手は起きなかった。

 起きない方がよかった。

 十二という数を読んだ後、最初に手を上げたのは、祭務会の役人ではなかった。

 禁足谷の元飼育者だった。

 背の曲がった女で、祭の間は観客食堂で乳粥を作っていた。

 腕へ、古い噛み傷がいくつもある。

「名なら、一つ知っている」

 広場の視線が集まる。

 女は集めていない。

 集まった視線の重さへ耐えるよう、両手で前掛けを握る。

「外三。私らは、ソウと呼んだ」

「記録へない」と祭務頭。

「呼んだだけだ。札へ書けば、正式の群れを作ったことになると言われた」

「死亡年は」とセレナ。

「十七年前。雨肺。夜に死んだ」

「確認者」

「私と、もう一人。そっちは去年死んだ」

「遺体記録」

「骨灰にして、禁足谷の南へ撒いた。帳面には飼育終了」

 セレナは、すぐ証羽を飛ばさない。

「公開してよい名ですか」

 女の口が止まる。

 名を戻したいと言った。

 だが、大勢の前で呼ばれることをソウが望んだかは分からない。

「分からない」

「では、非公開記録として保全します。死亡数と経路は公開。呼称は、あなたの証言とともに封印し、公開範囲を後で審査」

「隠すのか」

 観客から声。

「隠すのではありません」とセレナ。「保存と公開を分けます」

「死んだ獣の名に権利があるのか」

「少なくとも、生きている私たちが好きな物語へ使う権利が自動で生じるとは考えません」

 別の飼育者が手を上げた。

「外九は、名を付けなかった」

 広場がざわめく。

「可哀想で、呼ばなかったわけじゃない。三日しか生きなかった。呼び方を決める前に死んだ」

「では、外九のまま」と祭務頭。

「番号を名にするな」

「しかし何と記録を」

「名なし、と書け」

 名がなかったことも、制度の結果である。

 後から美しい名を贈れば、その空白を埋められる。

 埋めれば、なぜ空白だったかが見えなくなる。

 ネムが小板へ書く。

『名を戻す。名を作らない。両方』

 ガンガは読む。

「全部に名を付ければ救った気になる」

 女が頷く。

「ソウはソウ。外九は、名なし。どっちも死んだ」

 十二の死は、一つの追悼式へまとまらなかった。

 名を公開したい者。

 記録だけ残したい者。

 自分が呼んだ名を、他人へ渡したくない者。

 何も覚えていない者。

 ばらばらである。

 死者を尊重するとは、全員を同じ形式で讃えることではない。

 生き残った者の記憶まで一つへ揃えないことだった。

 祭務会は、飼育場を即日閉鎖すると発表した。

「待て」とヤッカ。

「隠蔽施設を存続できません」

「中に生きている個体は」

「別施設へ移送します」

「どこへ」

「候補地を選定中です」

「選ぶ前に閉めるな」

 正義の速度が、また一頭を運び出そうとしている。

 閉鎖は分かりやすい。

 悪い場所をなくす。

 看板を外す。

 扉を封じる。

 だが場所を閉じても、そこにいる生き物の行き先は自動では生まれない。

「現個体数」とエリア。

「六」と祭務頭。

「健康状態」

「二頭は長距離移送不可。一頭は群れ接触へ強い恐怖。三頭は復帰候補」

「閉鎖期限を分けます」とエリア。「新規受け入れは即停止。記録封印も即停止。居住個体の移送は、獣医評価と受け入れ先同意後。場所そのものの解体は最後」

「証拠保全」とセレナ。

「解体前に全構造を記録。壁の呼称、飼料跡、補修履歴を含む」

「費用」とロロ。

 祭務頭が先に言った。

「祭務会」

 ロロの四本の腕が止まる。

「学習した」

「高くつきました」

「安く済ませた結果だ」

 祭務頭は反論しない。

 悪人のように頭を下げれば、観客は納得したかもしれない。

 彼は頭を下げず、帳面を開いた。

「現金備蓄では全額を払えません。交易契約の違約金も発生する。祭を延期したことで、滞在群への飼料費が五日分増える」

「金がないから記録を隠す?」とハル。

「隠しません。払えないものを、払えると言わない」

 ミラのいない場所で、契約の言葉が残っている。

「何を削る」とカイル。

「王冠装飾の更新。中央観覧席の増築。閉祭花火。祭務上役の特別食」

「最後は少ない」とロロ。

「象徴です」

「象徴だけ削って払った顔するな。金額を出せ」

 祭務頭は各項目を読み上げる。

 足りない。

 候補者群の共同備蓄。

 外部交易団の返還保証金。

 王国からの緊急融資。

 誰が払うかで、また権限が生まれる。

 カイルは王家の金を即座に出さなかった。

「出せない?」とハル。

「出せる。だから条件が要る」

「見返り?」

「ルーメンが費用を全て持てば、後で制度設計へ口を出す根拠になる。支援は救命と証拠保全へ限定。運営改革の決定権は買わない。返済期限は祭再開後。利息なし」

「王子が金を出すのに、自分の権力を減らす契約」とガンガ。

「減らす条文がない善意は、将来の請求書になる」

「ミラが聞いたら」

「利息なしを疑うだろう」

「俺も疑ってる」とロロ。

「お前は誰でも疑う」

「会計では美徳だ!」

 支援案は、その場で成立しない。

 各群れへ持ち帰り、翌日もう一度議論する。

 遅い。

 しかし、急いで王国の金を受け取ることと、一頭を急いで別施設へ送ることは、どちらも後から戻しにくい。