第264話 第十二章「公表されない死」後編
トトの行き先も、ガンガが決めなかった。
「オルバ群へ」と言う者は多かった。
王候補が救った。
王獣鈴と響き合った。
白い角へ触れた。
物語としては、ガンガの群れへ入るのが美しい。
「俺の群れへ来れば、守れる」とガンガ。
ネムが小板を上げる。
『誰から』
「祭務会。見物人。祭具」
『ガンガからは』
胸へ痛みが来る。
「俺が、特別な一頭にする」
『もうしてる』
「悪いか」
『悪い、ではない。選ぶ材料』
ヤッカはトトの状態を報告する。
「当面、長距離移動不可。今いる救護天幕に慣れ始めた。世話人は三人。旧飼育者二人へは反応が安定。大群へ戻す評価は早い」
「なら、ここ」とガンガ。
「ここへ残す、と決めるのも早い」とハル。
言った後、自分で口を押さえる。
「今、トトの答えを先に」
「身体反応の観測としては正しい」とエリア。「決定ではありません」
「じゃ、仮滞在」
「期限」とヤッカ。
「一季」
「長い」
「一月」
「骨と筋の再評価に最低二十日。三十日で再検討」
「世話人」とネム。
「旧飼育者二、ヤッカの診療班、祭務側一。ただし祭務側は記録を隠した部署と別」
「見物」とガンガ。
「公開時間なし。治療状況だけ掲示。映像羽は禁止。本人の反応が安定した後、観察窓を検討」
「本人」とハル。
「獣だから権利が人と同じ、とは単純に言えません」とエリア。「しかし、反応を無視して見世物へする理由もありません」
トトはその間、乾草を噛んでいた。
世界を揺らした議論へ、参加しているようには見えない。
参加していないから、誰かが好きに決めてよいわけでもない。
「仮滞在、三十日」とガンガ。「その後、身体と反応を見て選び直す。俺の群れは候補の一つ。最初から行き先にしない」
ネムが丸を描く。
ガンガはトトの額へ手を出しかける。
触れる前に待つ。
トトが鼻先を近づける。
手の甲へ触れる。
それだけ。
王獣の祝福ではない。
所属の誓いでもない。
今、近づいたという観測だった。
ハダンは、拍守の辞任を申し出た。
「逃げるな」とガンガ。
即答だった。
「権力へ残れと言うのか」とハダン。
「罰を受けた顔で席を空ければ、次の者が、お前の隠した帳面から始める」
「私がいるほど、若い者は言いにくい」
「なら、言える席を作れ」
「自分で作れ」
「一緒に作る。お前だけへ任せない」
ハダンは杖を膝へ置く。
「私は古歌を知りながら、飼育帳を見なかった」
「知ってる」
「追放者の死も、全て公にはしていない」
広場が静かになる。
これは今の祭だけの話ではない。
「何人」とセレナ。
「確認できた死者、九。行方不明、四。私の緊急移動命令へ背き、追放した群れの者だ」
ハダンの声は割れない。
「三度の大移動で救った人数を語る時、この十三を別の節へした。同じ決定の結果なのに」
「今、公表する理由」とセレナ。
「今日の十二を、昔の愚かな役人だけの話にさせないためだ。私は同じことをした」
「記録を出せますか」
「出す。私の歌の原記録も。反対証言も」
「辞任は」とガンガ。
「保留する」
「俺が決めた?」
「違う。お前の反対を聞き、私が保留した」
ネムが小板を上げる。
『期限』
ハダンが顔をしかめる。
「お前は本当に容赦がない」
『権力へ期限』
「四十日。記録公開と新評議の立ち上げまで。以後、信任を取り直す」
『失敗したら』
「辞任ではなく、記録保全役へ下がる。指揮権なし」
ネムは丸を描かない。
『検討』
「私の案へお前が保留を付けるか」
『聞いた。賛成ではない』
ハダンは短く笑った。
「よい。歌へ入れろ」
「長くなる」とハル。
「お前が縮めろ」
「また作詞係!」
責任を引き受けることは、席から消えることではない。
残ることが免罪になるわけでもない。
期限を付け、記録を渡し、自分を監査する者を作る。
物語としては地味である。
歴史を変えたのは、たいていそういう地味な手順だった。
延期された祭の片づけにも、順位が必要だった。
四千頭を一度に帰せば、移動路が詰まる。
先に来た群れを先に帰せば、遠距離群が夜の危険帯へ入る。
大型獣を先に出せば小型群の道を荒らす。
小型を先にすれば、後の大型群が水を使い切る。
王を選ぶ順位より、帰る順位の方が難しい。
シアは種ごとの移動速度を出す。
ヤッカは治療中の個体へ出発不可印を付ける。
バルグは大型群の水消費を計算する。
ガンガは全員の拍を聞かない。
各群れの代表が出した条件を、地図へ置く。
「オルバ群は三日目」と彼。
「候補者の群れを後へ?」と祭務係。
「近い。待てる」
「王位候補の警護は」
「候補だから先へ帰る理由にならない」
バルグが言う。
「俺の群れは大型だ。水場を空けるため初日夜に出る」
「夜路の危険」とヤッカ。
「鉄蹄は夜に強い。子獣群を二日目昼へ残せる」
「見返り」とシア。
「次の水場で場所を先に取る」
「公平?」とハル。
「同じ順番にしない公平」とエリア。「負担と利益を両方記録する必要があります」
帰還表の横へ、利益欄が増える。
先に出る群れ。
後に待つ群れ。
水を譲る群れ。
夜路を引き受ける群れ。
誰も完全な善意にはしない。
誰も損だけを美徳として要求されない。
三日かけて、百二十三群は別々の道へ帰る。
祭は終わらないまま、混乱だけは少しずつ小さくなった。
第三の議題。
王位選定。
祭務会は、古い条件に従えばガンガが資格を得たと主張した。
バルグは、現行規定では自分が最初の到達者だと言った。
「王になりたい?」とハルが聞く。
「なりたい」とバルグは即答した。
「正直」
「候補が欲しくないふりをする方が危険だ。俺は決める王が必要だと思う。ガンガより速く決める」
「昨日は救難へ戻った」
「戻ると決めるのも速かった」
「自慢になる?」
「する。だが、俺一人を今すぐ王にしろとは言わん。試験の条件が変わった。やり直す」
シアも頷く。
「最初に着く競争を続けたい群れもいる。最後の一頭を待つ条件も必要。二つを一つの順位へしない方がいい」
ヤッカは言う。
「救護判断を王位候補だけへ置かない。祭務会の獣医に停止権を」
候補者たちは、同じ結論へ揃わない。
ガンガはそれを聞く。
万獣鼓動を使わない。
ばらばらの意見は、ばらばらのまま存在する。
「俺は候補に残る」とガンガ。
ハルが見る。
「王にならないんじゃ」
「今すぐ王にならない。王位を捨てれば自由になる話にもしたくない」
「残る理由」
「変える場所から逃げない。だが、候補だから正しいとも言わない」
ハダンが問う。
「次の祭まで、何を変える」
ガンガは、ネムを見る。
答えを借りない。
先に自分の案を言う。
「祭外区分を廃止。個体札は競技参加と生体確認を分ける。失踪届は所属なしでも受ける。見失った数を順位板と同じ大きさで出す」
「能力は」とシア。
「万獣鼓動を禁止しない。使う範囲、時間、解除役を決める。俺一人に全心拍を集めない」
「沈黙」とネムが声で言う。
「沈黙を賛成へ数えない。発言しない者の反対余地〈サイレント・ビート〉を、評議の一席として残す」
「誰がその席を持つ」とバルグ。
「一人へ固定しない。ネムを神託役にしない」
ネムが丸。
「候補者が試練を止める権利。止めた理由を公開し、後で検証する。止めれば自動失格にしない」
「止めすぎる候補も出る」と祭務頭。
「出る。だから検証する。止めない失敗だけよりいい」
「帰還鐘は」
「修理して、仕組みを調べる。神託にしない」
ロロが手を上げる。
「分解費!」
「祭務会」
広場のあちこちから同じ声が出た。
「祭務会!」
祭務頭は両手で顔を覆った。
初めて、少しだけ笑いが起きた。
ハダンは、古歌の最後へ新しい一節を足した。
一拍足りぬ者を連れよ。
なぜ足りぬと数えたか、記せ。
「長い」とハル。
「歌は変わる」とハダン。
「韻がない」
「理由を覚えろ」
「歌いやすさも理由では」
「なら、お前が直せ」
「俺、作詞係?」
「うるさい者は、歌へ入れると少し役に立つ」
「少し!」
ネムが太鼓へ、軽い拍を打つ。
笑った時の拍だった。
ハルはネムの横へ座る。
「まだ怒ってる?」
ネムは頷く。
「聞いた」
小板。
『先へ言わない?』
「言わない。ネムが許すまで待つ、も言わない。許す結論を先に置くから」
ネムの右眉が上がる。
『三点から四点』
「上がった!」
『満点未定』
「成長の実感が薄い」
『実感は本人のもの』
「厳しい」
『正確』
エリアが二人へ温かい果実水を持って来る。
「何の採点ですか」
「ハルが人の答えを先に言わない度」とネムが掠れた声で言った。
「重要ですね」
「エリアは何点」
「採点者の権限を確認してから答えます」
「強い」
ハルは果実水を受け取る。
指がエリアの指へ触れそうになり、止める。
「触っていい?」
「今、杯を渡すためなら」
「他の意味は」
「別の質問です」
「後で?」
「保留」
「ミラが増えた」
「便利な語は残ります」
指が一瞬だけ触れる。
答えではない。
関係が続いているという現在の観測だった。
夕方、ゼロスター号へ二通の報告が届いた。
一通はティア。
共同救難で意識のない旅人を学院医療所へ搬送。生命は助かった。臨時命令は七拍で返上。本人は意識回復後、身分登録を拒否。学院側は記録を一時封印し、解除審査へ。
末尾にある。
――命令しなければ救えなかった。ただし、救えたことは命令の後を正しくしない。
もう一通はミラ。
同じ事件。
――助けるのは成立。行き先は未成立。本人が起きた後に拒めたから今回は戻せた。起きなかった時、誰が戻すかは未決。
二人の結論は揃っていない。
共同救難は失敗していない。
議論も終わっていない。
ガンガは二通を読んだ。
都市文字は遅い。
ハルが横で待つ。
読めない字を先に説明しない。
「ここの語」とガンガ。
「遡及」
「意味」
「後から前へ戻して効かせる」
「時間を戻す?」
「効力だけ」
「ややこしい」
「ややこしくない契約は、誰かの事情を削るってエリアが」
「お前が覚えた言葉を、本人の名なしで使うな」
「厳しい」
「正確だ」
ネムが太鼓を二拍。
兄弟は同時に笑った。
夜。
百獣祭の太鼓は止まっていた。
祭は延期。
群れは一斉に帰さず、移動窓ごとに順番を組む。
トトは救護天幕で眠る。
ガンガ、ネム、ハダンはゼロスター号へ戻った。
ガンガの補強席。
ネムの小板。
ミラの非対称な足掛け。
ティアの目盛り片。
客員席へ、誰かが来るたび前の誰かが消えるのではない。
ガンガは席へ座らず、甲板へ横になる。
「椅子は」とロロ。
「今日は地面がいい」
「船だ!」
「床がある」
「同じにするな!」
ハルは船縁へ座る。
「次、どこへ」
「祭の後始末」とガンガ。
「出航しない?」
「終わらないものを残す手順ができたら」
「ハダンと同じ」
「教わった」
「誰が残る」
「祭務会、候補者、飼育者。俺たちは死王谷の記録を見に行く」
「死王谷?」
「角峰の北。古い王獣を葬ったと言われる谷」
ハダンが船尾から言う。
「言われる、だ。墓を掘った者は生きておらん」
「足跡の行き先?」
「まだ分からん」
「行けば」
「分からぬことが増える」
「良い旅?」
「悪い旅よりは、正直だ」
その時、セレナが甲板へ上がった。
「観測です」
「事件?」とハル。
「まだ因果がありません」
「場所」
「北の谷」
「誰」
「誰も」
以前、国境谷で聞いた時と同じ答え。
同じ現象とは限らない。
祭場から北へ一千リュム。
月のない草地に、巨大な足跡があった。
一つ。
家ほどの大きさ。
四本の指。
踵へ角状の窪み。
以前の国境谷で見た形と似ている。
周囲に、生物の接近痕はない。
草が踏まれたのは足跡の内部だけ。
足跡同士の間には、何も通っていない。
「物理荷重」とロロ。
測定板を入れる。
「最低四千トン。前と近い。誤差大」
「心拍」とガンガ。
裸足を縁へ置く。
半底は外している。
「ない」
「残響」とネム。
太鼓を置く。
返らない。
ノクスが、足跡の中央へ行く。
土を掻く。
白い粉が出た。
セレナが採取管へ入れる。
「地表土と色が違います」
エリアが地図板へ周辺地質を出す。
「この谷は黒毛土。白い層はありません」
ロロが粉を指で押す。
「土じゃない。細かい骨。古い。乾いてる」
「何の骨」とハル。
「今は分からねえ」
「足跡の外から入った?」
セレナが見る。
「観測。白粉は足跡の底から上へ押し出された形。周辺から運ばれた擦過痕なし」
「下に骨がある?」
「可能性。断定しません」
二つ目の足跡。
三つ目。
誰も歩いていない夜、一定の歩幅で増えている。
北へ。
死王谷へ。
ガンガは万獣鼓動を使わない。
足跡の下に心臓はない。
ないものへ、王獣の名を勝手に入れない。
「死んだ王」とハルが言いかける。
止める。
「死んだ王の足跡と呼ばれてる形に似てる」
「四点から五点」とネム。
「今採点?」
『今変わった』
ガンガは胸を二度叩く。
地面は叩かない。
「行くぞ」
「どこへ」とハル。
「足跡の先」
「王候補の後始末は」
「残す手順を作る。バルグとシアとヤッカへ渡す。祭務会へ期限を置く。ネムは」
言いかけて、止める。
ネムを見る。
「行くか」
ネムは骨粉を見つめる。
胸太鼓へ、七つの違う拍。
『行く』
ガンガは頷く。
誰もいない草地で、次の巨大な足跡が音もなく沈んだ。
底から、古い骨の粉を押し上げながら。